去年の歳末、寺地はるな『川のほとりに立つ者は』を読み、感想を記した。人が人の心裡を知ることの絶対的困難さに目をやる静かな運びに、心持ちが深まるのを覚えた。カミサンがオモシロイというので、この作家の関連本を図書館に予約していたのが、何冊か届いた。『水を縫う』(集英社、2020年)を読みはじめて、あれっ、これ読んだんじゃないかと感じて、このブログを検索した。あった。2021-3-2に《行雲流水のごとき関係》と題して、思いを記している。
《女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている……実存の心地よい関係は、しかし、起点に個体の自律がなくてはならない。言葉を換えていえば、それはたぶん、存在の軸というような確固たる勁さであろう。軸が勁さをもつまでの間に、異質性や孤立をものともせずに世の中を渡りゆく「かんけい」に係留されていなければならない、個の形成の不思議があるのだが、この作品は、それらは前提にされて、話しがはじまっている。つまり、(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台で、さらに実存の心地よい関係を紡ぐ物語が展開している》
すっかり忘れていた。「女の感覚からみた」というのは主人公ではなく作家のこと。男である私のそれとは異質の「心地よさ」を表現しており、決してジェンダー的な意味合いではないと断りをいれている。
そして昨日、『ガラスの海を渡る舟』(PHP研究所、2021年)を読んだ。「(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台」というとらえ方に、違うよと低声でささやくように折り込みながら、発達障害と思われる兄と幼い頃からそれを気遣いながら育った妹がガラス工芸の職人であった祖父に導かれて大人になって後の物語。父は兄の障碍を嫌って外に家族をつくり、母は料理研究家として達者に活躍する家族。作者が焦点を合わせているのは、兄妹の心裡の孤立と異質さが周りの人びとの向き合い方を鏡にして、実存在を確信していく過程をとらえること。大きな背景に、コロナ禍と葬儀の場に立ち会えぬ社会事象をおき、そこにまつわる人の思いを骨壺に象徴させてお噺は展開する。兄妹のあるがままの先行きが開かれている感触に心持ちが温もりつつ、読み終わった。
その後に見た映画が『ひとよ』(2019年公開)。Wikipediaは、次のようにその概要を紹介している。
《2019年11月8日公開の日本映画。15年前に起きた事件によって人生を大きく狂わされた一家4人が再会し、崩壊した家族の絆を取り戻そうとする姿を描く》
こちらは三人兄妹。子どもの頃の事件の受け止め方がそれぞれに違い、世の中からのバッシングに晒されて15年後の姿を、母親を交えて描く。この家族を包む会社の人たちは包摂的であり、家族の中が、母と子ら、子ども相互の間の落差にギクシャクとぶつかり合う。最後に「家族の絆を取り戻そうとする」入口で映画は終わる。だがはたして、そう上手く行くだろうかと疑念が身の裡に残る。
家族、兄弟妹にまつわる物語なのに、この小説と映画の我が身に遺す残響がこうも違うのは、物語に進行に登場するデキゴトの所為だろうか。登場人物のキャラクターの所為なのだろうか。あるいは、前者小説は発達障害、後者映画は母親の殺人ということを受け容れる社会規範の違いが影響しているのだろうか。それら全部にかかわるワタシの「しこう(嗜好・思考・志向)」が、その物語の放つメッセージを屈折・屈曲させて違った印象をかたちづくっているのであろうか。
そう考えていて、ひとつ思い当たったことがある。小説は、兄妹がガラス工芸の製作という具体的な作業を介在させて差異を意識し、まつわる人たちの評価を描き、コロナや骨壺や死への思いを間において進展していく。それに対して映画は、母親の起こした夫を殺すという(兄妹もその蓋然性を承知の)デキゴトへの思いを巡って、差異が浮き彫りになり、それに大きく左右された家族達の現在が受け容れがたくぶつかり合って話は進展していく。
この、コトを媒介にしている差異なのか、オモイの違いが直にぶつかり合っているのか。その両者の違いが、ワタシの受けとる感触に作用しているのではないかと思った。
モノやコトを媒介にすると、それをどう受け止めるかが人によって斉一でないことはすぐにワカル。モノやコトそのものに当事者性が等質に込められているとは思えないからだ。モノやコトには解釈が挟まる。解釈には、解釈する主体の生育歴にかかわる文化的な差異とか、そのもたらした「しこう(嗜好・思考・志向)」が影響しているから、「川の畔に立つ者」のように「水底に沈む石の数を知り得ない」。
ところが、幼い兄弟妹となると、「水底に沈む石の数」は当然わかり合っていると思い込んでも不思議はない。ましてその頃に、母親の父親殺しという大事件を体験した。それも母親が自分たちの将来を慮ってした行為となると、母親へのオモイも共有していると思っても不思議ではない。つまり、オモイを共有しているというのが、起点となる。だが、それから15年も経つとなると、オモイの解釈はズレて来るばかりか、しっかり違ったものになっていることが推察できる。でも兄弟妹という関係は、それを一挙に飛び越える。飛び越える力は身に刻んだ無意識だ。それが、15年の間の「水底に沈む石の数」を意識させないから、余計にぶつかり合いは熾烈になるとも言える。
それを埋め合わせるのは、たとえ一緒にいても「水底に沈む石の数」はわからないという思いの意識化にしかない。兄弟姉妹という年齢の違いが「面倒を見/世話になる」という非対称的関係を内面化しながら暮らしを共にして、文字通り身に刻み無意識に沈ませている。それをひとつひとつ意識化することはできないにもかかわらず、できるように錯覚する。そういう風にして、私たちは暮らしてきた。大人となって、違った家庭を持ち、違った仕事と社会で暮らすことによって、不可知の「水底に沈む石の数」を感知しながら向き合うのが普通である。
そのとき、「水底に沈む石の数」が問題なのではない。それによって差異が生じていることを万端承知することが大切なのだ。にも拘わらず「なにか」コトを媒介にして向き合うことによって、無意識の落差を意識しつつ、兄弟姉妹の関係を紡ぐことが必要だと思った。いや兄弟姉妹という血のつながった関係ばかりではない。人と人との間は、同じ列島に住まっていても、大きく文化が異なり、暮らし方も違っている世界のこと、ますます差異を超えて関係を調えることを意識しなくてはならない。コミュニティの作法もそういう点から振り返ってみることで、開かれたコミュニティを展望することができるのではないか。
《女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている……実存の心地よい関係は、しかし、起点に個体の自律がなくてはならない。言葉を換えていえば、それはたぶん、存在の軸というような確固たる勁さであろう。軸が勁さをもつまでの間に、異質性や孤立をものともせずに世の中を渡りゆく「かんけい」に係留されていなければならない、個の形成の不思議があるのだが、この作品は、それらは前提にされて、話しがはじまっている。つまり、(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台で、さらに実存の心地よい関係を紡ぐ物語が展開している》
すっかり忘れていた。「女の感覚からみた」というのは主人公ではなく作家のこと。男である私のそれとは異質の「心地よさ」を表現しており、決してジェンダー的な意味合いではないと断りをいれている。
そして昨日、『ガラスの海を渡る舟』(PHP研究所、2021年)を読んだ。「(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台」というとらえ方に、違うよと低声でささやくように折り込みながら、発達障害と思われる兄と幼い頃からそれを気遣いながら育った妹がガラス工芸の職人であった祖父に導かれて大人になって後の物語。父は兄の障碍を嫌って外に家族をつくり、母は料理研究家として達者に活躍する家族。作者が焦点を合わせているのは、兄妹の心裡の孤立と異質さが周りの人びとの向き合い方を鏡にして、実存在を確信していく過程をとらえること。大きな背景に、コロナ禍と葬儀の場に立ち会えぬ社会事象をおき、そこにまつわる人の思いを骨壺に象徴させてお噺は展開する。兄妹のあるがままの先行きが開かれている感触に心持ちが温もりつつ、読み終わった。
その後に見た映画が『ひとよ』(2019年公開)。Wikipediaは、次のようにその概要を紹介している。
《2019年11月8日公開の日本映画。15年前に起きた事件によって人生を大きく狂わされた一家4人が再会し、崩壊した家族の絆を取り戻そうとする姿を描く》
こちらは三人兄妹。子どもの頃の事件の受け止め方がそれぞれに違い、世の中からのバッシングに晒されて15年後の姿を、母親を交えて描く。この家族を包む会社の人たちは包摂的であり、家族の中が、母と子ら、子ども相互の間の落差にギクシャクとぶつかり合う。最後に「家族の絆を取り戻そうとする」入口で映画は終わる。だがはたして、そう上手く行くだろうかと疑念が身の裡に残る。
家族、兄弟妹にまつわる物語なのに、この小説と映画の我が身に遺す残響がこうも違うのは、物語に進行に登場するデキゴトの所為だろうか。登場人物のキャラクターの所為なのだろうか。あるいは、前者小説は発達障害、後者映画は母親の殺人ということを受け容れる社会規範の違いが影響しているのだろうか。それら全部にかかわるワタシの「しこう(嗜好・思考・志向)」が、その物語の放つメッセージを屈折・屈曲させて違った印象をかたちづくっているのであろうか。
そう考えていて、ひとつ思い当たったことがある。小説は、兄妹がガラス工芸の製作という具体的な作業を介在させて差異を意識し、まつわる人たちの評価を描き、コロナや骨壺や死への思いを間において進展していく。それに対して映画は、母親の起こした夫を殺すという(兄妹もその蓋然性を承知の)デキゴトへの思いを巡って、差異が浮き彫りになり、それに大きく左右された家族達の現在が受け容れがたくぶつかり合って話は進展していく。
この、コトを媒介にしている差異なのか、オモイの違いが直にぶつかり合っているのか。その両者の違いが、ワタシの受けとる感触に作用しているのではないかと思った。
モノやコトを媒介にすると、それをどう受け止めるかが人によって斉一でないことはすぐにワカル。モノやコトそのものに当事者性が等質に込められているとは思えないからだ。モノやコトには解釈が挟まる。解釈には、解釈する主体の生育歴にかかわる文化的な差異とか、そのもたらした「しこう(嗜好・思考・志向)」が影響しているから、「川の畔に立つ者」のように「水底に沈む石の数を知り得ない」。
ところが、幼い兄弟妹となると、「水底に沈む石の数」は当然わかり合っていると思い込んでも不思議はない。ましてその頃に、母親の父親殺しという大事件を体験した。それも母親が自分たちの将来を慮ってした行為となると、母親へのオモイも共有していると思っても不思議ではない。つまり、オモイを共有しているというのが、起点となる。だが、それから15年も経つとなると、オモイの解釈はズレて来るばかりか、しっかり違ったものになっていることが推察できる。でも兄弟妹という関係は、それを一挙に飛び越える。飛び越える力は身に刻んだ無意識だ。それが、15年の間の「水底に沈む石の数」を意識させないから、余計にぶつかり合いは熾烈になるとも言える。
それを埋め合わせるのは、たとえ一緒にいても「水底に沈む石の数」はわからないという思いの意識化にしかない。兄弟姉妹という年齢の違いが「面倒を見/世話になる」という非対称的関係を内面化しながら暮らしを共にして、文字通り身に刻み無意識に沈ませている。それをひとつひとつ意識化することはできないにもかかわらず、できるように錯覚する。そういう風にして、私たちは暮らしてきた。大人となって、違った家庭を持ち、違った仕事と社会で暮らすことによって、不可知の「水底に沈む石の数」を感知しながら向き合うのが普通である。
そのとき、「水底に沈む石の数」が問題なのではない。それによって差異が生じていることを万端承知することが大切なのだ。にも拘わらず「なにか」コトを媒介にして向き合うことによって、無意識の落差を意識しつつ、兄弟姉妹の関係を紡ぐことが必要だと思った。いや兄弟姉妹という血のつながった関係ばかりではない。人と人との間は、同じ列島に住まっていても、大きく文化が異なり、暮らし方も違っている世界のこと、ますます差異を超えて関係を調えることを意識しなくてはならない。コミュニティの作法もそういう点から振り返ってみることで、開かれたコミュニティを展望することができるのではないか。