mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

紐帯って何だ? コトかオモイか?

2024-01-26 09:49:21 | 日記
 去年の歳末、寺地はるな『川のほとりに立つ者は』を読み、感想を記した。人が人の心裡を知ることの絶対的困難さに目をやる静かな運びに、心持ちが深まるのを覚えた。カミサンがオモシロイというので、この作家の関連本を図書館に予約していたのが、何冊か届いた。『水を縫う』(集英社、2020年)を読みはじめて、あれっ、これ読んだんじゃないかと感じて、このブログを検索した。あった。2021-3-2に《行雲流水のごとき関係》と題して、思いを記している。

《女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている……実存の心地よい関係は、しかし、起点に個体の自律がなくてはならない。言葉を換えていえば、それはたぶん、存在の軸というような確固たる勁さであろう。軸が勁さをもつまでの間に、異質性や孤立をものともせずに世の中を渡りゆく「かんけい」に係留されていなければならない、個の形成の不思議があるのだが、この作品は、それらは前提にされて、話しがはじまっている。つまり、(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台で、さらに実存の心地よい関係を紡ぐ物語が展開している》

 すっかり忘れていた。「女の感覚からみた」というのは主人公ではなく作家のこと。男である私のそれとは異質の「心地よさ」を表現しており、決してジェンダー的な意味合いではないと断りをいれている。
 そして昨日、『ガラスの海を渡る舟』(PHP研究所、2021年)を読んだ。「(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台」というとらえ方に、違うよと低声でささやくように折り込みながら、発達障害と思われる兄と幼い頃からそれを気遣いながら育った妹がガラス工芸の職人であった祖父に導かれて大人になって後の物語。父は兄の障碍を嫌って外に家族をつくり、母は料理研究家として達者に活躍する家族。作者が焦点を合わせているのは、兄妹の心裡の孤立と異質さが周りの人びとの向き合い方を鏡にして、実存在を確信していく過程をとらえること。大きな背景に、コロナ禍と葬儀の場に立ち会えぬ社会事象をおき、そこにまつわる人の思いを骨壺に象徴させてお噺は展開する。兄妹のあるがままの先行きが開かれている感触に心持ちが温もりつつ、読み終わった。
 その後に見た映画が『ひとよ』(2019年公開)。Wikipediaは、次のようにその概要を紹介している。

《2019年11月8日公開の日本映画。15年前に起きた事件によって人生を大きく狂わされた一家4人が再会し、崩壊した家族の絆を取り戻そうとする姿を描く》

 こちらは三人兄妹。子どもの頃の事件の受け止め方がそれぞれに違い、世の中からのバッシングに晒されて15年後の姿を、母親を交えて描く。この家族を包む会社の人たちは包摂的であり、家族の中が、母と子ら、子ども相互の間の落差にギクシャクとぶつかり合う。最後に「家族の絆を取り戻そうとする」入口で映画は終わる。だがはたして、そう上手く行くだろうかと疑念が身の裡に残る。
 家族、兄弟妹にまつわる物語なのに、この小説と映画の我が身に遺す残響がこうも違うのは、物語に進行に登場するデキゴトの所為だろうか。登場人物のキャラクターの所為なのだろうか。あるいは、前者小説は発達障害、後者映画は母親の殺人ということを受け容れる社会規範の違いが影響しているのだろうか。それら全部にかかわるワタシの「しこう(嗜好・思考・志向)」が、その物語の放つメッセージを屈折・屈曲させて違った印象をかたちづくっているのであろうか。
 そう考えていて、ひとつ思い当たったことがある。小説は、兄妹がガラス工芸の製作という具体的な作業を介在させて差異を意識し、まつわる人たちの評価を描き、コロナや骨壺や死への思いを間において進展していく。それに対して映画は、母親の起こした夫を殺すという(兄妹もその蓋然性を承知の)デキゴトへの思いを巡って、差異が浮き彫りになり、それに大きく左右された家族達の現在が受け容れがたくぶつかり合って話は進展していく。
 この、コトを媒介にしている差異なのか、オモイの違いが直にぶつかり合っているのか。その両者の違いが、ワタシの受けとる感触に作用しているのではないかと思った。
 モノやコトを媒介にすると、それをどう受け止めるかが人によって斉一でないことはすぐにワカル。モノやコトそのものに当事者性が等質に込められているとは思えないからだ。モノやコトには解釈が挟まる。解釈には、解釈する主体の生育歴にかかわる文化的な差異とか、そのもたらした「しこう(嗜好・思考・志向)」が影響しているから、「川の畔に立つ者」のように「水底に沈む石の数を知り得ない」。
 ところが、幼い兄弟妹となると、「水底に沈む石の数」は当然わかり合っていると思い込んでも不思議はない。ましてその頃に、母親の父親殺しという大事件を体験した。それも母親が自分たちの将来を慮ってした行為となると、母親へのオモイも共有していると思っても不思議ではない。つまり、オモイを共有しているというのが、起点となる。だが、それから15年も経つとなると、オモイの解釈はズレて来るばかりか、しっかり違ったものになっていることが推察できる。でも兄弟妹という関係は、それを一挙に飛び越える。飛び越える力は身に刻んだ無意識だ。それが、15年の間の「水底に沈む石の数」を意識させないから、余計にぶつかり合いは熾烈になるとも言える。
 それを埋め合わせるのは、たとえ一緒にいても「水底に沈む石の数」はわからないという思いの意識化にしかない。兄弟姉妹という年齢の違いが「面倒を見/世話になる」という非対称的関係を内面化しながら暮らしを共にして、文字通り身に刻み無意識に沈ませている。それをひとつひとつ意識化することはできないにもかかわらず、できるように錯覚する。そういう風にして、私たちは暮らしてきた。大人となって、違った家庭を持ち、違った仕事と社会で暮らすことによって、不可知の「水底に沈む石の数」を感知しながら向き合うのが普通である。
 そのとき、「水底に沈む石の数」が問題なのではない。それによって差異が生じていることを万端承知することが大切なのだ。にも拘わらず「なにか」コトを媒介にして向き合うことによって、無意識の落差を意識しつつ、兄弟姉妹の関係を紡ぐことが必要だと思った。いや兄弟姉妹という血のつながった関係ばかりではない。人と人との間は、同じ列島に住まっていても、大きく文化が異なり、暮らし方も違っている世界のこと、ますます差異を超えて関係を調えることを意識しなくてはならない。コミュニティの作法もそういう点から振り返ってみることで、開かれたコミュニティを展望することができるのではないか。

言葉は世に連れ世は風まかせ(2)common land の citizen

2024-01-25 07:55:03 | 日記
 畑中章宏『宮本常一 歴史は庶民がつくる』は、世間を「共同体の外側にある社会、あるいは人々の行動を制約する無形の規範」と規定する。そうか。世間は共同体から分出してきたのと違うか、というのが、昨日の記事(1)の起点であった。
 そもそも「世間」はどういう意味合いで用いられていたのだろうか。
 大野晋の『古典基礎語辞典』によると、《梵語の訳語としては、いっさいの衆生が生死流転する迷いの世界の意と出世間に対する世俗の意で用いられる》とある。つまり俗人が生きているこの世すべてを指すところから派生してきたと見える。とすると個体にとって、世間が共同体であったのは起点の「せかい」。せかいは顔見知りの間でしかなかったが、長じるにつれて、世の中が広いことを知るようになる。「世間」が広がってくる。共同体の外の知らない「せかい」も世間となって、そこを旅してさまざまな様子を持ち帰ってくる人たちのことを「世間師」と呼んで話を聞こうと好奇の目を向けるようにもなると、宮本常一が記している。なるほど。とすると、宮本常一のとらえている(と畑中章宏が理解している)世間の広がりは、宮本と畑中のそのときどきの文脈で読み取っていくしかないってことか。ふ~ん、オモシロイ。
 そう思いつつ読み進める、畑中も第三章で『「世間」という公共』と一章を設けて、阿部謹也の著書『「世間」とは何か』に触れ、宮本常一との違いを指摘している。
《一方宮本の「世間」は、安部が否定的に捉えた「世間」とは位相を異にする。宮本の「世間」は一枚岩ではなく、いくつもの「世間」がおりかさなっているのだ。》
《また一人の人間は、複数の「世間」に属している。そこでは「世間」ごとに違った自分、複数の属性を使い分けている……作家の平野啓一郎が提示した「分人」概念と似ているのではないか》
 そうそう、私も同じように考えている、とますます好感がいや増す。とすると、畑中の身を置いているセカイでは、「共同体」と「世間」は、すでにすっかり分岐して内と外とが歴然としている状態と言えようか。すっかり近代になっているのか。
 ここの話の筋からは逸れるが、一つオモシロイ指摘があった。列島住民の移動についてである。
 つい先日のささらほうさらの合宿の折、私が松浦武四郎に触れ、幕末から明治にかけて幾度も三重と北海道を歩いて、時に野宿しながら往来するのはそれ自体が修業のようなものであったと話しをしたとき、それは一般的な人の(つまり庶民の)姿ではなかろうと指摘された。ところが《宮本が記録した庶民は、移動する人々が目立つ》として、「宮本の故郷である周防大島が、国内外を移動してきた人びとが多い島だった」とか周防大島から対馬へやってきて棲み着いたケース、「ハワイへの出稼ぎがさかんだった」とハワイの日当と周防大島のそれとを記している。あるいはまた、宮崎県の寺の住職が江戸時代の後期に修験道の霊山を巡った6年2ヶ月の記録に、「ここにも移動する日本人の姿が鮮やかに記されている……南九州の家が二千軒あるかないかの小さな町から東北地方まで歩くと13人の人物にであった」とあるそうだ。さらにまたその僧侶に宛てた礼状が宮崎の日向から出され山形で世話になった家にあったと記されている。「北の方へ行く人に託された手紙が手渡しを繰り返して届いたものだろう」ともある。「手渡しで」手紙を託すというのは、それくらい人の往来が頻繁であったと思われる。移動は単に、特異な修行者や松浦武四郎のような冒険的探検家の振る舞いではなかったと見て良さそうだ。これはうれしい発見であった。 そうだ、も一つ、旅ではないが移動についてあったことを備忘のために記しておこう。宮本が記した「移動」の中に、青森から盛岡あたりまで、南部藩から仙台藩へ、さらにそこから遂には関東平野へ(ところてんのように)移動した人びとのことがあった。飢饉のために食い詰めて他の藩へ移動し、動けなくなって空き家に住まう。そこの住民はすでに南へ移動している。「そのような状態が繰り返されていた」。それを宮本は「宿借り」と名付けているとも。何とも悲惨な記録である。そして《しかし関東の人びとは移動していないので住み着く家がなく、彼らは「乞食」にならざるをえない。若者たちは下男になり、どこかの町や村へ入り込み暮らしを立てた》ようだったと当時の様子が彷彿とされる。畑中は「難民」と書いている。
 さて話を元に戻す。
 今日の論題の核心になるが、畑中は《宮本民俗学は共同体が閉ざされたものではなく、公共性に向けて開いていたことを説き明かそうとしたのではないか》と指摘する。そして斉藤純一『公共性』を援用して次のように述べる。
《公共性は、共同体のように等質な価値に充たされた空間ではない。……公共性の条件は、人びとの抱く価値が互いに異質なもので、……複数の価値や意見の〈間〉に生成する空間……共同体ではその成員が内面に抱く情念が統合のメディアになるとすれば、公共性においては、人々の間に生起する出来事への関心……差異を条件とする言説の空間であり……》
 という。
 先日私は「入会地/common land」と表記して、国民国家の国境を取り払って台湾問題を考えることを奨めたが、その伝で言うと、「庶民/common people」次元で考える「関係」が「公共性/public」に開かれるというのは、行政的権力関係からひとまず解き放たれて見て取ることになる。私たち人びとは「庶民/common people」であって「公民/nation people」ではないという次元で、継承された文化を読み解こうとする宮本常一の視線を、新鮮に感じとることができる。
 生きている空間は「国土/nation land」ではなく「皆の土地/common land」である。そこを起点にして、今現に、列島住民が「日本国民とその地に居住している人/citizen」として暮らしている事実から、すべてのことを編み直してみたいと思うようになった。

言葉は世に連れ世は風まかせ

2024-01-24 10:57:23 | 日記
 世間という言葉を、私は長い間、思い違いをしてきたのかと思った。広くいうと世の中、狭く取ると自分の生きている共同体ほどの意味合いを持つ空間と考えてきたのだが、畑中章宏『宮本常一 歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書、2023年)の第一章「『忘れられた日本人』の思想」を読んでいると、共同体の外の世界という意味合いで用いられていて、おやっ? と立ち止まった。
こう紹介している。

《宮本常一の民俗学で特徴的な言葉に「世間」がある。世間は一般的に、「世間様」「世間の風」というように共同体の外側にある社会、あるいは人々の行動を制約する無形の規範のこととして理解される》

 まずここでズレが生じている。規範を以てその構成員を規制するのが「共同体」と私はとらえている。共同体とその周縁のセカイは入れ籠状に重なっている。周縁というのは、それこそ宮本常一が紹介する世間師が持ち込んでくる新奇なことを受け容れる余白のようなセカイである。
 規範というのを私は、個人のメンタリティの生成過程からみると、いつしか身の裡に形づくられていて、自我が生まれると「外からの規制」のように感じられて反発するようなことととらえていた。つまり(そこに身を置く人にとって)規範というのは、身の裡の無意識である。ここには、それを抑圧と意識して始めて人は自律への自由を歩み始めるという動態的逆説がある。小中高と歩む学校での児童・生徒の成長がそれを如実に表している。
 だが畑中は「共同体の外側にある社会」と、共同体を取り囲むもっと大きな(外側の)世界を指している。規範のとらえ方の違いがあると感じた。
 規範というのを私は、ワタシと気配を同じうする(例えば地域や街や列島住民という共同幻想をもっている)共同体の、あらまほしき在り様を示す「倫理」のような生き方・振る舞い方のモデルと考えている。したがって帰属集団によって規範は異なり、ある人にとっては当たり前のことが他の人にとっては非道なことになったりする。対するに「道徳」は、数多ある異質の世界をも通貫する人類史的普遍を表す在り様と私は理解している。帰属する集団によって左右される規範ではない。共同幻想の広まりによって倫理は大きく揺れ動くが、道徳は厳然と佇立していると言えようか。
 畑中は「規範」を道徳のようにとらえているのか。でも、どうしてそう、とらえるのか。それは、共同性とか世界とかいうことについてのとらえ方の差異が横たわっているのだろうか。そこに田中と私の違いがある。
 私たちは家族という小さな世界に生まれる。それがご近所や縁戚や幼友達やその人たちの目にしている世界すべてに共同性を感じることはできない。社会規範というのは、共同体成員の中で醸し出されて、いつしかかたちを成してくる共有の行動倫理であるた。だから、共同体の内側から生まれてくるものであって、外から降り注いでくるものではない。畑中のように外側にある社会から制約的に降りてくるとなるのは、自我が共同体から自律しようという意識の誕生によって発生するもの。つまり身の裡が自律へ共同体から分離し始めた証しであって、外から抑圧してくるものではない。
 畑中は1962年生まれ、今年61歳か62歳か。私とちょうど20年離れている。物心つく頃からすでにTV画面を通じて、知らない世界ではあるが広大な人類史が、身を置く共同体を取り巻いていると感じていたのかもしれない。
 戦中生まれ戦後育ちのワタシは、敗戦と戦後の日本国憲法の理念とに挟撃されて、ニホンとセカイを同時に受け止めながら自我の形成を行ってきた。子どもの頃に抱いていた図柄を簡略に描けば、ニホンは遅れており、欧米は人類史の先を歩いているというものであった。少し長じて、そう一直線の進歩と遅滞と言えるものではないと思うようになった。わが身の裡に累々と堆積しているニホンの土壌に育った人類史は、ワタシの無意識として現存在に現れており、逆に欧米もまた、WWⅡに辟易して日本国憲法の理念を日本国に押しつけはしたものの、彼らにとってもその条文に記された理念は、なんとしても手に入れたいカントの謂う純粋理性の発露であった。
 後にその両者のいずれかをYES/NOの二者択一にして、後者を自虐史観と誹る人たちが現れたが、その人たちは両者の違いに挟撃されなかったのかと、その精神形成に疑念を抱いたほどであった。二者択一と思えなかったワタシは、自らの立ち位置を生活者庶民に据えて、我が身に堆積する人類史的径庭を改めて編み直すことへと歩を進めてきた。
 畑中が奈辺に身を置いてきたかは知らないが、宮本常一に目を付け、さらに「歴史は庶民がつくる」と視点を集約するのに好感を抱きつつ、本書を繙いている。彼は、我が身が育まれている日本列島をみたとき、人のメンタリティがすでに、国際関係の規範の荒波に揉まれて、抑圧的な外圧にさらされていると感じたのだろうか。(つづく)

死も身近に

2024-01-23 06:20:43 | 日記
 1週間前に合宿があった。帰ってきてから5日目に、その参加者の八十路の一人から電話があった。コロナになったという。義理堅く知らせてきたわけだ。
 子細を聞くと、熱は36℃、平熱が低いから微熱は出ているというが、ほとんど熱らしい熱ではない。ちょっと喉がいがらっぽくて、かかりつけ医に電話したら、それコロナかも知れないと別の発熱外来を紹介され、そちらで検査したら、コロナだったというわけ。潜伏期間を5日とみると、ちょうど合宿で感染したらしい。でも、誰からどう感染したかはわからない。合宿メンバーから感染したか別の人からかもわからない。ま、そんなことはもう、どうでもいいことのように扱っている。
 知らせがあって今日で3日目。もし私が感染していたとするともう発症してもいい頃。だが、その徴候はない。気管支が弱いから、喉に来るとすると私は一番にやられてもいいはずだが、スルーしてしまったのだろうか。ラッキーというべきか、ワクチンが効いたというべきか。
 でも、コロナが身近になった。遠方に棲む息子家族がコロナに罹ったといったのは、昨秋であったか。一緒に食事をした古い友人が12月初めにコロナに罹ったと聞いたのは、年末であった。彼は結構発熱して大変であったらしい。いよいよ迫ってきたなと思っていた。合宿で同宿の友人も罹ったというのは、ごく普通のインフルエンザに罹ったような感じで受け止めていた。もう、そんなもんなんだ。
 我がカミサンは「濃厚接触者だね」と私のことをいう。何だか、懐かしい呼び方に感じた。その通りだ。たとえ感染していても、私自身はワクチンなどの抗体があって発症しなかったのかもあるまい、か。
 今日はこれから、年に一度の心臓のチェックをする24時間ホルターを装着してもらいに出かける。去年の今頃「不安の煙、死の予感」という日誌を書いている。認知症になった夢も見ていて「予知夢?」と驚いてもいる。八十路に入ると先の見えない人生が眼前に広がる感じ。でも何だ、こんな感じで彼岸に渡れるなら、死というのは、なんとも手軽なデキゴトになったものだ。ホントにそうかどうかわからないのに、そう思っている。まさしく死が身近になった。
 えっ? 悦ぶべきかって? いやいや、イイこととかワルイこととかわかりませんよ。そう、まさに中動態。何でもかでも、善し悪しにふるい分けないで、少しは「自然(じねん)」のことと受け止めてもらいたいよね。

250年後のアダム・スミス

2024-01-22 10:35:16 | 日記
 一昨日note.comの篠田真紀子のエッセイを取り上げた。この方が「きのう、なに読んだ」というエッセイを書いていることを知り、開いてみた。福原義春という方の書いた『文化資本の経営』を読み「25年前に見えていた資本主義の未来」と表題して紹介している。
 経営に関する経済論は、いかに効率よく資本を動かして多くの利潤を手に入れるかを、働き手と書いて双方の人を操作して実現するものと、これまで私は思ってきた。この紹介を読んで、あっ、ちょっと変わってきてるんだと感じた。
 どう変わってきたか。
《社会に対して、人類に対して、文化に対して、商品や価値をどうつくっていくのかということは、企業の大きな目的》
 と本文から引用している。これは、アダムスミスが説いた古典派経済学の論調である。
 周知のように、アダムスミスは経済学で知られるより先に倫理学者で名をなした人であった。彼は自由主義の元祖のように受けとられているが、実は彼が口にしていない社会倫理がベースにおかれていたと、後になって広く知られた。それはさらに後に、社会学者・マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で説いたように、経済活動は人類や社会、文化に対する貢献が前提とされていた。
 そうか、アダムスミスが『国富論』を書いた18世紀後半から、マックス・ウェーバーが前記の論を展開した19世紀末から20世紀初めに至る「自由主義」の実展開は、すでにキリスト教倫理からはすっかり離れて、最大利潤の追求こそが企業活動の主軸に据えられ、それ以外の人類や社会・文化、つまり倫理は後景に捨て置かれるように退いていた。だからアダムスミスがほぼ無意識に前提にした倫理を、違った角度からではあったが、マックス・ウェーバーが意識して書き記すようになったのか。
 も少し日本の舞台に引き寄せると、福原の著書本文からの引用のようなことは、江戸の末期に、農政家・二宮金次郎が説いていたことと重なる。つまり日本に於ける資本主義の自由主義的展開は、明治から敗戦頃までは、まだ日本的な家族制度や社会規範が旧来の陋習として残っていて、企業活動もただ単に最大利潤の追求とばかりは言えないと、キリスト教倫理とは異なるが江戸文化的な規範として、人や社会・文化が視界に入っていた。それがWWⅡ敗戦後は、軍事的な軛も解けて経済専一となり、まさしく自由主義を謳歌した所為で、日本企業も様変わりしてきた。それでもすっかり様子が変わるまでには、産業資本の隆盛を超えて高度消費社会への突入まで待たなければならなかったと言えようか。
 そう考えると、『文化資本の経営』のトーンも、ただ単にアダムスミスの焼き直しなどというよりは、最大利潤の追求という企業目的を、人類・社会・文化を視界に入れた新しい経済社会の考え方として受け止めた方がいいかもしれない。
 紹介している篠田真紀子は「ESGという概念が全くない時代に、ESGのコンセプトを端的に示している」と高く評価している。ESGというのは「環境/E」「社会/S」「統治/G」の頭文字を取って会社経営の社会的責任を表す、経営学の用語のようである。篠田さんのいう「ESGという概念が全くない時代に」というのが見当違いであっても、ま、言葉の勢いっていうものと見ておいた方がいい。
 むしろ、現下の世界情勢を牽引する欧米的な思潮は、ほぼ、トランプやプーチン、ネタニヤフやバイデンといった人たちに象徴されるように、人類・社会・文化を二の次にして、我が利得しか眼中にない世界政治の惨状である。WWⅡの戦後に、人類史的反省としてリスタートした国際協調も、すっかり色褪せて、ただの飾りになっているから、人権や平和、人々の命と安寧というのは、ただの枕詞のように偽善的な上着扱いされている。
 この現状に鑑みると、アダムスミスや二宮金次郎の編み直しとは言え、改めて企業活動を人類・社会・文化と深く関連付けて見直すというのは、新しい踏み出しととらえた方がいいかもしれない。
 篠田は「文化とは何か。資本とは何か」と小見出しを付けて、福原の言を更に紹介する。《文化は、感性や知を蓄積しながら常に生成・発展する生き方/文化とは「異質な相反する物事の出合い」によって生み出される/異なった文化の出合いや混合では、葛藤や対立が起きることが大事/文化への理解がないと、定義づけられた世界と現実世界の落差が起きる/文化の発信とはこちらから知っていることを伝えるのではなく、あちらの内部に眠っているものを掘り起こしていくこと》
 と引用する。言葉の限りではふむふむと受け容れる。でも、主語がすべて省略されていることが気になる。言葉を紡いでいる福原は神のような目を以て人類・社会・文化を眺めているような感触がある。
 ところが、「文化への理解がないと、定義づけられた世界と現実世界の落差が起きる」という一文が亀裂を見せている。
(a)「定義づけられた世界」って、誰が誰に対して定義づけるって言うのか?
(b)「現実世界」って、誰がいつどんな場面で「認知する」世界を指すのか?
 前者は企業を取り巻く経営者の「しこう(嗜好・思考・志向)」。後者の現実世界とは、顧客の「しこう(嗜好・思考・志向)」か。
 経営者の「しこう(嗜好・思考・志向)」がどう形づくられているのか私にはワカラナイが、業界の常識、行政や法的規制のインフラ的コンプライアンス、国際的活動をする場合には国際関係の構造的インフラもこれに含まれるか。それが顧客の「しこう(嗜好・思考・志向)」と食い違うことにぶつかってこそ、経営者の「しこう(嗜好・思考・志向)」を手直しすることも出来ようから、それに続く《文化の発信とはこちらから知っていることを伝えるのではなく、あちらの内部に眠っているものを掘り起こしていくこと》という言葉が繰り出されるわけだ。
 でもこういうことってのは、市井の庶民にすると当たり前のようにしている振る舞いである。何だ、このズレは?
 そうか、これまでの企業経営者は、人類・社会・文化を領導していると錯覚していたのか。それを、顧客である市井の民に聞いてみようってことか。なるほど、とまず思った。でも企業家は庶民からなにを聞こうというのか? 需要を知って供給しようというコンセプトとしたら、市場調査でいくらでもやっていることではないか。
 読み進めると、一つヒントがあった。
《「自然や社会」は具体、「商品」は抽象》と小見出しを付けて《本来、自然も社会も場所によって様々なのだが、そこから分離した「商品」の世界が、経済が拡大する原動力だった》
 つまり、需要は「具体」であるが、供給は「抽象」であるとみてとる。オモシロイ。資本家社会の論理は、個別特殊を普遍に読み替え、顧客がそれに適応することをいいことにして世界の人々を「普遍」に切り換えてしまった。
《福原さんは、そうした抽象化した「商品」が行き着くところまで行ったと指摘している》
 という。福原は、この行き詰まりからの離脱を《資本とは本来、お金と文化のセット》という「資本」の概念を梃子にして、《「商品」を崇め利益第一の経済資本から本来の資本へ、中心を転換すべきではないか》と進め、《ここでいう文化とは感性や知を蓄積しながら常に生成・発展する、ある集団の人々に共有される生き方》と起点を構築する。福原が言う「本来」とはアダムスミスの無意識に染みこんでいた倫理に生きる社会である。
 つまり企業は、顧客という個々人を見るのではなく、彼らが集う社会・コミュニティを視野に入れて、自らの活動の評価(ESG)を考えていこうと提案している。そう受け止めて私は、ただ単にこれは、単体企業の経営の話ではなく、私の棲む、この社会の話だと思うようになった。そう考えることによってやっと、経済学が、当初、ポリティカル・エコノミーと呼ばれた次元に立つことになった。『国富論』から約250年後の現在である。