mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ビヨンド・ユートピア 脱北」

2024-01-18 08:59:10 | 日記
 誘われて表記の映画を見に行った。ドキュメンタリーである。再現映像などを挟んでいないと断りも入れている。ここで感想を書くにも、一部ネタバレになるが、致し方ない。御容赦ください。
 二組の脱北ケースを映像にしている。一つはすでに脱北して韓国にいる母親が息子を脱北させようとするケース、もう一つは、脱北して中国へ入ったものの、そこで捕まっては北朝鮮へ送り返されるから大陸中国を縦断して北朝鮮との友好国でない国へ抜け出ないと脱北にならない。懸命の逃避行が続く。
 ドキュメンタリーの構成は北朝鮮脱出を手助けする牧師と仲介業者に密着して、SOS発信地から脱北先の国へ至る行程をにカメラが付き添う。どなたかが「ミステリーではなくドキュメンタリーだ」と感想を漏らしていたが、まさしくドラマチックに展開する。その公式サイトにも「2023年サンダンス映画祭にて開催直前までシークレット作品として詳細を伏せられてきた」と紹介される。
 それと同時に、隠し撮りされた北朝鮮の人々の映像が重ねられる。あるいは、すでに脱北した人の思い、北朝鮮に暮らす人々が自らの境遇をどう思っているかの感懐、脱北途中の人たちの胸中の変化が映し出されていて、北朝鮮という国がどういう「くに」であるかを如実に示している。
 これがもしパッチワークであるならば、この国の人々は「反北宣伝」のフェイクと誹るであろう。その画像がありのままを映しているとすれば、ここが「楽園/ユートピア」どころか、国ごと収容施設化して、それはそこに住む人々の精神性もまるごと蝕んで食い潰しているといえる。
 まるで、破綻寸前の動物園のようだと思った。その地で生まれ育った人は外の世界はもっと厳しくすぐに取り殺されてしまうような過酷な定めに身を置いているという物語の刷り込みを信じている。翻って自らは、慈愛に溢れる自国の金正恩総領が何に付け采配を揮ってくださっている、でも事態が上手く行かないのは私たち国民の努力が至らぬからだ、とまで。
 天皇制国家日本の再現をみているようであった。胸に突き刺さる。どこにそう感じるのか。
(1)情報を含めて、北朝鮮はピッタリ国家が閉ざされている。戦前日本の国際交流はもっと幅広く、そもそも欧米を模倣して国づくりをしてきた。情報は法的取り締まりと社会的規範の枷によって統制されていたから、外界を知らなかった訳ではない。ここが決定的に違うが、統治者の精神性は同じように感じられる。外界はもっとひどいと思い込んでいる北朝鮮の人々のそれとはずいぶんと違う。でも「島国」と言われた列島の境界を破るのは知識人とメディアの介在を経なければならなかった。天皇制に収斂される政治経済文化国家の、インフラを基本的にお上(国とメディアと知識人)に依存する暮らしの拠り所は、自発的精神性をそれらしく依存させ、自己への内省を(修身斉家治国平天下への一体化として)迫るもののようだ。
(2)朝鮮戦争後70年を経た隔離世界で、統治者は暮らしのすべて、人の生き方の心までをも蔽うものがたりを仕上げて、ほぼ完璧な支配(ルール)体制、檻を完成させた。庶民は慈愛溢れる統治者に感謝を献げつつ、それを阻害する外圧に抗する国家体制を支持する裏返しとして貧窮に耐え、なおかつ、自分たちの至らなさを自己に問い詰める。自分の知らない驚くような外からの情報に接しても、それをフェイクではないかと自問する精神性を自律的に培っている。
(3)でもいくら物語を創りあげ、繕っていても、経済的な貧窮の行き詰まりは街路の死者を目の当たりにさせる。苦役とも言えるような原始的労働に耐えねばならない。人ってそういう生き物なのよと思えば、人類史はそういう段階を辿ってきたから、無意識はそれを肯う。だが外界の豊かさを目にするとどちらがフィクションかは一目瞭然。その瞬間に国家への幻想は立ち消え、脱北以外の方途がないことに気づく。故郷を捨てることになる。
(4)脱北の失敗は死を意味する。自分だけではない。家族ともども、近縁のものを含めて死の危険にさらされる。行き着く処、ここに於いて、脱北か死かの選択を迫られる。それも家族ぐるみで脱北するしかなくなる。一人脱北した母親が息子も脱北させようとする。応じた息子は中国で捕らわれ北朝鮮に送還されるが、自らは脱北したかったのではなく母親を連れ戻したかった、母親と一緒に暮らしたかったと証言していると聞かされる。息子を育ててきた祖母は(息子を連れ出そうとした)母親が悪いと口を極めて誹る。この祖母と母親とのやりとりを見ると、国家の犯罪というのは、国境を囲って、人々の往来を止めていることだはっきりする。昔日の入会地(common land)が懐かしく思い起こされる。明々白々なのは、「人権」の国民国家を超える理念としての優位性である。貧窮動物園の経営者は、いかに慈愛溢れて食べものを給しようとも、檻を解き放たない限り犯罪者である。北朝鮮でなくとも、国民国家の国境をもっている私たちは、動物園の檻の延長上に暮らしている。ただ、そこの扉を開ける権利を有しているかどうかの違いだ。扉を開けて外へ出たからといって、そこが生きるに心地よい土地かどうかはワカラナイが。
(5)心地よいと感じるには、ヒトが生きてきた人類史の中で身に刻んだ「ふるさと」のヒト・コト・シゼン(との関係の無意識)という皮膚を血肉から剥がすように取り払わなければならない。これが、この映画の中でも浮き彫りになる。すでに脱北した人が北朝鮮に暮らす人の実態を耳にすると辛い、むしろ知らないままの方がいいというのは、「ふるさと」を離れたときの剥がされた皮膚の痛みのように切々と響いた。
(6)話は少し変わるが、この点で、華僑(中華民族)のもっている人間到る処青山ありという生き方の精神の強靱さに、列島住民はとうてい及ばないとつねづね感嘆させられている。ワタシはと言えば、そうやって世界に飛び出していくくらいなら、貧窮に耐えてこの列島に住み続ける方を選ぶかな。そう考えると、ワタシはとうてい「脱北」する道を選べないなあと臍を噛む。ま、八十爺がいまさら何を、と言われることには違いないが。
 こうやって考えていると、「ビヨンド・ユートピア」というタイトルが、とても意味深だ。脱北したところで、国民国家の檻に囲われている。あなたのユートピアはもっと先にあるんじゃないか。そう問う声が聞こえる。それが響き続ける限りあなたは、北朝鮮モンダイの当事者ですよと、監督・編集のマドレーヌ・ギャヴィンは訴えたいのではないか。