5月に管理組合の理事長を解任してもらって、いそいそとモンゴルの旅へ出かけ、その旅の記録をやっと一昨日(6/23)書き終えた。その都度アップした連載9回をひとまとめにして、二段組みにしたら20ページ余になった。400字詰め原稿用紙にすると80枚を少し超える。それを印刷して校正している。ついでにカミサンに目を通してもらって意見を加えてもらおうとしたら、読んだ後、旅のコーディネートをしてくれたngsさんに送った? と聞くから、「いや、まだ」と応えただけ。手直しのことを訊ねると、いやこれはこれでいいよ(あなたのおしゃべりなんだから)と応じて、それっきり。今朝、白馬に向かった。
カミサンがそちらを読んでいる間に、私は、先月解任された管理組合理事長の合間に書き綴ったことごとを、ひとまとめにしようと考えた。ブログの素原稿のファイルから抜き出して、「団地というコミュニティ」と題してひと綴りにする。
するとこれが、81ページになる。400字詰めの原稿用紙に直すと、320枚余。2018年2月の初めから2019年5月の26日まで。おおよそ1年4カ月の記録である。
その期間に私がブログに書いたものの総量でいうと、どれくらいになるか。調べてみると、その期間に書いたブログのページ総数は535ページ。そのうちの81ページだから、15.1%にしかならない。むろんそれには、理事会に提示した「議案書」や「討議資料」は含まれない。あるいは、傍聴した「前理事会」などの理事向けの「報告」なども入っていない。
ブログに乗せる関係もあって、ちょっとステップアウトして、管理組合理事会とか理事長仕事とか、その相互の関わり合いなどを外から見て、社会学風にというか、文化人類学的にというか、醒めてみている視線で書き記している。そういうわけだから、これはこれで、ちょっとした新書版くらいの分量にはなる。これも、暇に任せて校正し、プリントアウトして一冊にまとめ、遺品の書架に飾っておこうか。
モンゴルへの旅は、今回で3回。これまでの分を全部まとめてみてもいいかもしれない。そんなことを考えながら、遺品棚を考えている。
だれが読むの? とカミサンは冷たい。
いいんだよ、私の自画像なんだから、私自身が描いていたってことで。
だれが読むの? とカミサンは冷たい。
いいんだよ、私の自画像なんだから、私自身が描いていたってことで。
生きた証なんて気取ってみても、「証」がだれにとって何のために必要かというと、だれも必要としていないことは、すぐにわかる。私の生きた証なんてものは、もうとっくに子どもや孫という存在として伝わっている。いまさら、名を残そうなんて考えてはいないし、残せる名もない。
思えば古来稀になって、もう七年になろうとしている。人生百年などと恐ろしい話を、目下の政界は大まじめに言っているが、元気なうちにころりと逝くのが一番、世のため、人のため。何より自分のため。
あとに何も残さないようにするってのも、いわば、ひとつの意思だ。それさえも捨てて、すべてを成り行きに任せる。何ともちゃらんぽらんの、いい加減な男がいたんだねえ。それもそれで悪くなかったようだねえ、とみてもらうのが、本意ではあるが、そのように目に止まること自体が、人為的な匂いがして、いやらしい。いや、生きていること自体、いやらしいことなんじゃないか。
自然体というと聞こえはいいが、自然体は臭い。放っておくと、腐るし、ハエがたかる。「わたし」自身は旅立った後だから、その見栄えがどうであるかさえ、どうでもいいように思う。
ははは。そんなことを想いうかべながら、つれづれ草の片づけをしているのであります。
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