mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

牧歌的なイタリアのエピメテウスたち

2014-09-19 08:18:33 | 日記

 映画を観に出かけた。ジェゼッペ・ピッチョーニ監督の『ローマの教室で――我らの佳き日々』(2012年)。何とものんきなイタリア映画。のんきというのは、生徒たちのことではない。教師のありようだ。

 

 高校生たちはほとんど日本と変わらないほどお気楽に教室にたむろし、自分たちなりの交友関係を過ごしている。種々雑多、教師のいうことを聞くものもいれば、聞かないものもいる。好き放題に休んで落第するものもいれば、母親の世話に疲れて病気になり入院するものもいる。いうならば、エピメテウスの群れである。エピメテウスは愚図でのろま、頭も悪く、パンドラと結婚する。プロメテウスの弟。

 

 この映画の中で、主題を示すやりとりがさりげなくある。この学校の女性校長の家庭、夫がクロスワードを解いている。「神の火を盗んだのはだれっ?」「プロメテウスでしょ」「プ・ロ・メ・テ・ウ・スね、あっ、黒い箱が邪魔をしてウマクいかないや」というやりとり。これを転機に女性校長は、自分がかかわっている生徒への対処方を変える。

 

 つまりこの映画は、現代に過剰に適応するプロメテウスへの批判。というか、プロテウスを求める現代社会への批判である。プロメテウスと違って、まるで適応できないエピメテウスに「希望」を見出したいというメッセージが込められる。

 

 だがこの映画に描かれるイタリアの状況は、日本でいえば1970年代の後半の姿だ。その時代の学校では、教室に留まる事、教師のいうことに応答するということが当然の生徒のありようという規範が残っている。教師がしゃべることに耳を傾けている。問えばそれなりに応える。その応答のすれ違いに、大人(教師)の側の変容を引き寄せて、映画は展開する。あるいは、こうも言えようか。イタリアにはコミュニティ的なつながりが残っている。それが、若者たちの存在を透明にするのを押しとどめている、と。高校の教師が家庭訪問をする。親と面談して、生徒のあれやこれやを指導してくれと要請する。親が熱心であったり、無関心であったり、居直ったりするのはどこも同じである。だが直に触れ合っているコミュニケーションの感触は漂っている。同級生に無関心であるというのも、直接的なコミュニケーションのひとつのかたちである。この映画に「希望」を見出す人たちは、原初的な人と人とのありようの復活をイメージしているのであろう。

 

 しかしそんなことは、現代日本のエピメテウスには、ほとんどできない。それをピンポイントでつかみだしているのが、たとえば君塚良一脚本・監督『誰も守ってくれない』(東宝、2008年)の描く、若者たち。彼らの社会「かんけい」をよくとらえている。犯罪加害者の家族を(マスメディアや地域の人々の非難と好奇の目から)守ろうとする物語りは別として、主人公の少女に対する友人を含む若者の「かかわり」は、イタリア映画のエピメテウスを懐かしいとさえ思わせるほど、苛烈である。象徴的に取り出した姿とは言え、胸が痛くなる。

 

 子どもたちが変わった。もちろん大人社会が変わったからに違いないが、子どもたちの生きている社会「かんけい」が変わってしまった。高度消費社会という交換経済の中で一人前に扱われる個々人は、家庭や地域という保護膜を失って、単体で孤立している。その単体をかろうじて救済しているコミュニケーション関係のように見えるのがネット社会であるとすれば、そこでの透明な「かんけい」に満たされることを求めるエピメテウスたちの空をつかむような虚妄は、「希望」に行きつくことがない。

 プロメテウスとして生きていけないものは、身の置き所がなくなった。パ

ンドラの匣(はこ)に「希望」は残っているのか。そんなことを考えながら、イタリア映画の牧歌的な「かんけい」をみていた次第。


静かな社山、山の愉しみの予感に満ちる

2014-09-18 09:54:46 | 日記

 鬼怒川や日光へ向かう電車は6、7割の乗車率であろうか。通学客が多い。この電車に今日の山行参加者全員が乗っていたと分かったのは、東武日光駅に着いてから。レンタカーを借りて、さっそくいろは坂へと向かう。8人乗りの車体は満席でもゆったりと座れる。中央座席が大きく前に倒れて後座席の人の乗り降りに不都合なく設計されている。運転は、同じ大きさの車としては、とても楽に感じる。右左折の内輪差もそれほど大きいと思わない。左ボディ側面を見るのに、小さなミラーがついているのも、ちょっとした小技である。

 

 日差しが出ている。だが中禅寺湖に上がると、上空には雲が漂う。男体山も姿をかくしている。立木観音を過ぎたあたりから半月峠に向かう林道をたどる。ところどころで、路面の中央線の書き直しをしている。この路線の利用者が多くなる紅葉シーズンを前に手を入れておこうというのであろう。NHKの定点カメラが据えられている半月山の手前の駐車場はすっかり雲の中。湖面も見えない。風が強く、雲は流れている。

 

 標高1595mの半月峠駐車場に着いたのは9時半。予定通り。Kさんが『奥日光自然観察ガイド』(山と渓谷社、2005年)を取り出して、雲がないときの景観を説明している。「その本の写真はKさんが撮ったものだよ」と私が口をはさむ。みなさん驚いている。「私が編集をしたんだ」と付け加えて、ちょっと自慢する。「本屋にはないかも。アマゾンで買えるよ」とKさん。彼自身、自分の持っていたのがなくなりアマゾンで買いもとめたら、定価よりも高かったと笑っている。

 

 半月山への登りを20分ほど歩くと、木製のベンチを設えた展望台がある。標高1710m。ここも雲の中。向こうに(晴れていれば)ナニが見えると、Kさんは話している。山頂へは向かわず、西に山を下る。ここから標高1410mの阿世潟峠への下りは、中禅寺湖を取りかこむ外輪山の稜線上を歩く。カエデ類が多いから、明るい樹林と笹原。南の足尾側から吹き付ける雲の波が濃くなったり薄れたりして、風の呼吸を伝える。足元は小さな岩を踏み、落ち葉が土に還ってふかふかしている斜面をたどる。昨夜も雨が降ったのだろうか、しっとりと湿っているが、ぬかるむということがない。水はけがいいのだ。

 

 シラカンバとダケカンバの境界領域になるのであろう。両方が並んで立っている。違いを評定しながらさらに下る。木肌に特徴のあるナツツバキが艶のある肌理をみせている。ふと気づくと、雲は上の方。南下、足尾側の渓筋が明るい日差しに輝いている。1時間半、阿世潟峠に着く。社山の方は、雲がかぶさっている。天城山の山行で肉離れを起こしたOkさんが4か月ぶりに参加したが、しばらく運動から遠ざかっていたためか、ちょっと不安そうだ。「ここからは往復ですからいけるところまで行きます」と笑顔を見せている。

 

  20分ほど登って岩の積み重なった1550m地点に出る。携帯通信用だろうか、アンテナが立っている。11時40分。ここでお昼にする。日差しが差す。上空の雲が薄くなったり、降りてきたり上に上がったりして、ときどき社山手前の稜線の頂がみえる。30分もゆっくり過ごす。上から一組降りてくる。あいさつもせずに通り過ぎる。下から一組あがってくる。ご亭主らしい人は一眼レフカメラを抱えて後を歩き、撮影に余念がない。あいさつをして止まらずに先へ進む。

 

 ふたたび出発。すぐ先の見晴らしのいいところで、先ほどの一組が食事をしている。中禅寺湖が見晴らせる。白い遊覧船が阿世潟の突端を回って八丁出島の方へと舳先を向ける。箱庭をみるような気分。また少し登ると北西の方向に、竜頭の滝が見える。緑の樹林の中にそこだけ白く水をはねて、油絵なら一筆小さく縦に滴りを垂らしたように際立つ。湯滝は山の陰になって見えない。1720m辺りの突き出た稜線が山頂にみえる。気圧が上がっているなら、あれが山頂ということもあろうが、まさかと思う。Okさんが遅れている。私のすぐ後を歩く元気のいいご婦人方に「もうすぐ山頂、標識のあるところです」と伝えて先行してもらう。

 

 あれが山頂と思っていたら、すぐ先にまたピークが現れる。それを3度ほど繰り返して、やっと山頂に出る。出発してから3時間。結構山深くに入り込んだという感触が残る。雲が取れ周囲が明るく照らし出される。足尾側の渓筋はクリアにみえる。と思うと雲が吹き寄せて、視界を遮る。1827mと記した標識が新しいもののように見える。Okさんに「復帰おめでとう」と声をかける。あれこれおしゃべりをしながら、30分もここで過ごす。

 

 下りにかかる。水はけのよい急斜面の道はササの根が生え広がって、ピタッとつけた脚底のすべり止めになる。ふかふかしていて歩く感触が心地よい。ときどき、浮き出たその根につま先をとられてつんのめりそうになる。ときどき振り返って、Okさんの姿が目に入っているか確認しながら歩を進める。お昼過ぎに追い越した一組がカメラを抱えてあがってくる。「この雲がいいですよね」と、いかにもカメラ達者という表情を見せる。前回妙高山にもってきたストックが使いづらいとザックに仕舞って歩いたMsさんが、両手にストックをついて、軽快に歩いてくる。「慣れないと使えない」とOnさん。「大枚はたいたら、使わなくちゃってなるんでは?」と混ぜ返す。上りに(休憩を除いて)1時間かかったところを30分で降りてしまった。

 

 阿世潟峠で、駐車場に車を取りに行くKさんと別れる。Kさんがたどる半月峠から先の道は、足尾に抜ける旧道。荒れていたのを、5年ほど前に本をつくった著者とKさんと私とで、整備しなおした。崩れていた道にロープを張るなどした半月山をトラバースする道だ。峠の駐車場の標高50m下のところに出る。今日来るときにその分岐などを確かめて、その話をほかの方々にもしておいた。Sさんが「一緒にそちらを歩いてもいいか」と聞く。むろん否も応もない。Kさんのような方に案内してもらわなければ、歩けない道だから、ぜひどうぞと、お勧めする。その二人を見送って、私たちは下にみえる中禅寺湖畔の阿世潟へと下る。距離は600m、標高差は100m。

 

 いちばん若いKmさんを先頭に、初めは丸太の土留めを組んで設えられた階段、そのうち小石のたくさん転がっている砂地の斜面。ミズナラやダケカンバ、カエデの樹林の中は明るく、静か。ほんの10分ほどで下る。あとは湖岸沿いの広い砂利道を4kmほど歩くだけ。大きく樹林が途絶えたところで、中禅寺湖の対岸に男体山がデンと座っている姿が勇壮にみえる。山頂部は相変わらず雲に隠れている。Kmさんは、タブレットを取り出して写真を撮っている。Kwさんも「Sさんに見せてうらやましがらせなくては」とカメラを構える。Msさんはストックをついて快調に先行している。Okさんも、先が見えて気持ちが楽になったようだ。サルが5頭、地面に横たわる木の枝に腰かけて八丁島の方をみている。何を考えるでもなく近くを通る人を気にするでもなく、呆然と湖を見つめる姿は、午後の紅茶って感じだな、と思う。Okさんは食べ物はあるのだろうかと気を遣うが、満ち足りた感じじゃないかねと私は思う。Omさんはタブレットで何葉もサルを撮っている。

 

 イタリア大使館の別荘に入る。人影は係の人だけ。ソファに座って湖を眺めていたMsさんが「くつろぎますね」とご満悦。ほとんどの方が初めて訪れたと興味深くなかを見て回る。私は、車をとりに行ったKさんのケイタイにメールを入れるが、通じない。はて、もう集合場所の歌が浜駐車場に来ている時間だと思うが、何かあったのだろうか。もし連絡が取れないときは、どうしたものかと少し思案する。「そうだね、待たせちゃ悪いよね」とKwさんもコーヒーを飲みたいのを我慢して、靴を履き始める。

 

 歌が浜に到着したのは3時半ころか。Kさんたちが来ていない。ケイタイに電話を入れる。Kさんは電源を切っているのか、通じないところにいるのか。Sさんのケイタイに電話する。4回の呼び出し音の後プッと切れた。走行中に通話できないところへ差し掛かったのかもしれない。少したってまた、Sさんに電話を入れる。呼び出し音の後留守電が出る。「何かあったのか」と声を入れる。ほどなく、Kさんの運転する車が到着した。電話はザックに入れて車の後ろに放り込んでいたから、手に取ることができなかったのだ。

 

 話を聞いて、そうか迂闊であったと思った。5年前に手入れした道は、荒れ放題。ササが大きく伸びて道を隠し、張ったロープも流され、木が倒れて道をふさぎ、半月山の斜面に登ってルートをさがすようであった、と。Kさんは「Sさんには悪いことをした」と済まながっている。Sさんは「面白かった」とルートファインディングを愉しんできたように笑う。私は、道が荒れていることを見通せなかったと、臍を噛む。まあ、無事に帰着したからいいようなものの、もし何かあったらどうしたらいいのか、考えておかなけりゃならんと、思った。

 

 東武日光駅には順調につき、皆さんに先に帰路についてもらい、レンタカーを返しに行った。Kさんはこのあともうひとつアスリート・リーダーとしての仕事が待っているのだ。駅に入ると、Kmさんが待っている。どうして、皆さんと一緒に帰らなかったのと聞くが、同じ駅に戻るんですからと屈託がない。おかげで帰り道、ずうっとおしゃべりをして愉しかった。Kmさんは、この秋をどう愉しもうかとワクワクしている。まるで山歩きを覚えたばかりの少年のようだと思った。


魂の還るところは見えているのか

2014-09-16 20:39:17 | 日記

 福嶋亮大『復興文化論――日本的創造の系譜』(青土社、2013年)を読む。著者は1981年生まれ。中国文学者とあるが、「日中のサブカルチャーや演劇など幅広いジャンルで批評活動をしている気鋭の批評家」と著者紹介にある。

 

 文化を、それ自体のバイオリズムをもって呼吸しているようにとらえる。動乱期、安定期、復興期というふうに。そこにおける文化の「使命」を次のようにとらえる。

 

 《文化や芸術の重要な使命は、(戦争や災害など)「例外状態」のシミュレーションをやることにある……に留まらず、文化や芸術には本来、負傷した社会を立て直すという別の重要な機能もあったのではないか》

 

 「負傷した社会」。戦時中の動乱、戦後の混沌とか虚脱というというとらえ方は、内側から見た社会である。それに対して、「負傷した社会」というのは、社会を動態的な一体としてみている。そのとき「文化」は治癒や修復をどの次元で、何を対象に行っているかという指針として見て取れると、福嶋はいう。たとえば、「日露戦後」の「文明開化の達成」と多額の負債を抱えての日本社会の経済的停滞と「知的中間層の没落」が、夏目漱石の『それから』や田山花袋の『布団』などの「わたくし」へと向かったことなどを、的確に切り分けている。

 

 江戸の時代に各地にできた俳諧サークルが市民たちを結び合せ、知を交換し合うネットワークとなり、国家以外の場に公共的なものが満ち溢れていたと分ける。それが、明治維新から日露戦争へかけての日本の歩みによって、「公的領域は国家に一元化され、従来の社交ネットワークの機能が弱体化するしてしまった」とみる。つまり、近代化の一元的な変容ではなく、国家と社会を分離して社会の側に文化を継承する場を置き、それが動乱によって浸食されてきたと流れをつくる。以下にも、中国文学の研究者という出自を彷彿とさせる切り分け方である。

 

 「第二次大戦後の〈戦後〉は、惑星規模の〈戦後〉であった」とみる、先の大戦後も、これまでの「敗戦後」という日本の枠組みを抜けて、世界の〈戦後〉とみることによって、新しい視座を据える。「ヨーロッパや日本の〈戦後〉の民主主義は、高邁な政治理論によって支えられるのではなく、……経済や文化、行政のサービスの豊かさに寄生して何とか生き延びてきた」とし、「豊かさを社会の中枢に置こうとした時代」と位置づける。そうしてそれを代表するエンターテインメントによって、「民主主義の」理論的限界を適当にごまかし、やり過ごすこと」とみて、漫画やアニメに着目する。

 

 もちろん日本では手塚治虫であり、その原点ともいうべきディズニーの描きとる「自然」を汲み上げる。動物の擬人化、徹底的に衛生管理された手法を用いてディズニーがつくりあげた「自然」は、その物語性も含めて、衛生無害の人間中心主義を謳歌するものである。これが戦後世界の復興文化。

 

 それを覆す方向を目指したのが宮崎駿の諸作品だと福嶋は提示する。この展開が「自然観」の違いを剔抉して面白い。さらにその宮崎に対するアンチ=テーゼとして提起されたと高畑功監督のアニメ『火垂るの墓』を、「魂の還るところのない」物語として位置づけ、アニメの将来を心配するところは、何だか滑稽な感じがした。福嶋の描き出そうとする物語りの着目点にはまったく異議ないのだが、気遣いの焦点がどうしてこうもちっぽけなのかが、ヘンな感じであった。「魂の還るところのない」懸念は、今現在の日本が向き合いつつある現実ではないのか。シニックというのではなく、どん底に足をつけつつあるのではないかと、私は感じている。とても復興文化とは思えないのだが。


潜在し、あちらこちらに噴き出す疲れ

2014-09-14 12:56:06 | 日記

 今週下山したのは10日のお昼すぎ。そのすぐ後のビールは美味しかった。だが、家に帰ってから夕食の時に飲んだ焼酎のオンザロックは、ことのほかマズイと思った。新しい焼酎の封を切ったわけではない。おっ、これはうまいと思って重ねて買った銘柄である。にもかかわらずマズイと感じて、1杯でやめてしまった。

 

 その日、じつはよく寝られなかった。そう思っただけかもしれないが、輾転反側、何度か目を覚ました。もうタオルケットでは寒いのかと朝になって考え、11日に軽い布団を出してもらった。もちろん、翌日は良く寝ることができた。お酒は飲まない。

 

 そうして12日、昨日のことだが、膝のあたりに少し違和感を感じた。痛いのではない。じんわりと、疲れているなあという感触である。もしこれが、山歩きの疲れからきているのだとしたら、「3日遅れの疲れ」。都はるみの歌にのせて、あんこ椿でも歌いたくなるほど、久しぶり。うれしい。でもお酒はほしくなかった。

 

 もうひとつ、昨日までにあった気になること。雑誌を読むのだが、中身が頭に入ってこない。関心のないことではない。ほほお、面白そうと思ってページを繰っている。何を書いているかもわからないわけではない。だが、すぐに中身が揮発してしまって、頭に何も残らない。実務的なことは、ちゃんとできる。今週半ばと来月初めの山の実施手配とプラン、宿やレンタカーの予約、鉄道の時刻調べなどなど、これには頭が働いている。それにかかわる人とのやりとりも、難儀しているわけではない。

 

 あるいはまた、新聞を読んで気になったことをメモしたり、おや、ヘンだぞと思うことを文章にしてみることもできる。だいたい大げさに、文章にする、というほどのことを考えているわけでもない。思いついたことをタイプしているだけである。その程度にはアタマは動いている。

 

 でも、本を読んでも、アタマが働かない。これも、疲れだろうか。

 

 ふと思ったのだが、もう何年も前に、藤田省三という政治学者が「集中力が続かなくなったので、研究活動を引退する」という趣旨の発言をしたことがあった。60歳代の後半だったと思う。私より10歳年上の人だったので、そうか、私もあと十年かと思ったものだ。いま考えてみると、そんな同列に並べて云々できるような「活動」ではなかったと思う。彼には彼の、おおよそ私が思いもつかないレベルの「活動」のことを言っていたのだと思う。それくらい、己に厳しい研究姿勢をもっていた方だ。「集中力が続かない」というのは、こんなことかと、差異を勝手に超えて働かないアタマをかかえている。

 

 こうして今日やっと、復したろうか。山に入る以前のように目が覚めた。朝5時。この回復ペースで行くと、週1、2日間の山歩きが精一杯なのだろうか。昨年は4日間の飯豊山歩きをこなした。だが、間違いなく年々下り坂の途上にある。

 気候は良くなった。でも自分の力量を推し量りながら、プランニングしなければならない。


人は犬に食われるほど自由である」

2014-09-13 21:10:21 | 日記

「敬老の日」が近い。いまや「敬老」ということばの重みはほとんどない。年寄りが多くなり、行政的にも厄介者扱いだ。市場はもちろん懐を狙いはするが、孫くらいの若い世代を引き付けて、爺婆の財布のひもを緩めさせようという魂胆が透けて見える。

 

 私自身が古稀を過ぎて2年も経つ年寄りだから言わせてもらうが、年寄りの末期について、可哀想にというような同情は要らない。独り暮らしも、けっきょく自らが選び取った選択であった。もちろん本人がそう望まなくて、配偶者を先に喪うこともある。だがそれも、自由な社会ゆえの選好のひとつだ。

 

 ことに男は、ご近所との付き合い方が下手だ。私自身の感覚からして、そう思う。独りでいるのが、心地よい。もちろん人間嫌いではない。人と行き来をし、おしゃべりしたりお酒を嗜んだりするのも愉しい。だが、せいぜい月に1回とか2回、多くても週に1回程度というところだろうか。家族は別だが、それでも一緒にいて気にならないのは、カミサンだけかもしれない。子どもでさえ、すでに独立して20年以上たつ。別れて暮らしているから、平穏に関係を保っているが、毎日顔を突き合わせていると、たぶん、いさかいが絶えない(かもしれない)、と思う。

 

 要するに、好ましいと思って選びとったのか、そうなるべくしてそうなったかは別として、自分の選好で今のような暮らしがあるということなのだ。それが嫌なら、回避するために手を打っておけばいいし、手を打っても回避できないとしたら、不運であったとか、手を付ける時期が遅すぎたり、手を付けるには(財産や人的関係や知的資産という)蓄積が少なすぎたりしたのだと、諦めるしかない。いずれにせよ、人生の総集的な結果が現在を構成している。自由に暮らしてきたツケが回ってきているのである。

 

 そういうわけで、病院とか施設にいる場合を除いては、独り、死を迎える。その臨終のとき、どうやってほかの人にそれを伝え、あとの始末をみてもらうか、それくらいは自分でやっておかなければならない。お前さんはどうしてるのかって? 私は今のところ、カミサンがいるから算段はしていないが、場合によってはカミサンが先に逝って私が取り残されることもありうる。そのときになったら、しっかり算段しておこうと思っている。自由に暮らしてきた最後の帳尻合わせが、こういうかたちで来ている。文句は言ってもいいが、人のせいにするわけにはいかない。

 

 同情は要らないというのは、死に方まで社会的に指図してもらいたくないからだ。今日の朝日新聞夕刊に「老人クラブ 100万人増運動」とトップに掲げている。「孤独防止へ地道に勧誘」という。孤独が何か悪いことのようにみなされている。「敬老の日」の軽さに見合った軽い記事ですよと言えば、笑って済ませられるが、案外、記者は本気でそう思っているのかもしれない。

 

 冗談じゃない。「孤独の底」にひとたび足をつけてはじめて、私は現在の穏やかな平常心にたどり着いた。「孤独」とは何か。他人の心裡のことは(わかろうとしても)わからないし、私の心裡のことは(伝えようとしても)伝わらない。窮極のところそうなのだと肝に銘じることがあって初めて、人のことに思いをめぐらすことができるようになった。少し踏み込んでいえば、社会が人々のしぐさや振る舞いや言葉によって、いつ知らず伝えている「心の習慣」が、やっと読み取れるようになってきた。この「心の習慣」という文化が大きく変えなければならないところに、差し掛かっていると思う。

 

 もう何十年も前になるが、写真雑誌に「人は犬に食われるほど自由である」というようなキャッチフレーズがつけられて、騒ぎになったことがあった。藤原新也というカメラマンだったか、インドを放浪して、川を流れてきた遺体が犬に食われるところを撮っていて、衝撃的であった。このフレーズを肯定的に受け容れるセンスが、いまこそ必要とされている。自由に過ごすということは、そういうことであった、と。