mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

異論を内部留保する組織論をもっているか

2014-09-12 19:38:43 | 日記

 今朝の朝日新聞は「吉田調書に関する虚報」の訂正とお詫びで紙面が埋め尽くされている。「従軍慰安婦に関する虚報」もそうだが、このところ朝日新聞は、「新聞がニュースをつくる」を、地で行っているわけだ。読んでいる方は、かなわない。

 

 新聞記者のいけないところは、客観的な立場があると思い込んでいるところではないか。客観的立場とは、超越的な視線をもってモノゴトを見ることを指す。平場からすると、いつも誰でも、なにがしかの立ち位置からモノゴトをみている。だから、超越的視線は(あるとしても)仮構しているにすぎない。それ自体が思い込みでもある。吉田所長の言葉を(取材記者やデスクが)読み飛ばしてしまったのも、読む者の「傾き」があったからだろう。そりゃもちろん、「命令に反して逃げた」ということならば、オモシロイにちがいない。(私が)記者ならばそう思う。

 

 「命令に従って、命懸けの仕事をした」というのよりも、なぜ「逃げた」方がオモシロイのか。

 

 「命令に従って」という前段がなければ、すでにフクシマが発生して以来、「命懸けの仕事をした」現場の「美談」として外国メディアが称賛をしていた。それはそれで、ひとつの物語りにうまく収まる。だが、「命令に従って」という前段のフレーズがつくと、「美談」ではなくなる。「社畜」と呼ばわった人もいるくらいだ。美しくもないし、情けない。

 

 同じ情けないのなら、「逃げた」という方が、身を護ろうとする実感に近く、フクシマの恐怖を感じているという緊急時の実感にそぐう。情けないがそりゃそうしたいだろうよと、我が身に引き寄せて共感するところも多い。記者自身がそれに共感する気分(緊急的恐怖)をもっていた場合、気づくのは難しい。たとえそういう共感性はなくとも、ことに取材記者の場合、トクダネという「異常ニュース」に対する狩猟感覚は(たぶん)鋭いに違いない。「やった。つかんだ」という快感は、アドレナリンを増幅する。それ自体が、読み取り方の「傾き」を生み出しもする。

 

 だからデスクがチェックする。ただ単に文章を縮めたり読みやすくしたりするのではなく、コトの読み取り方の角度まで「他者」になって吟味する。それによってまた、別の記者にウラ取りをさせたり、別の取材をぶつけたりさせるのではないのか。つまりデスクというのは、記者銘々が持つ「傾き」という性癖を、検証と別の取材と吟味という複数の視線によって「より客観的なこと」に仕立て上げるシステムである。

 

 だが「より客観的」ということと「公正」ということとは違う。「公正」とは、この場合、状況の中に位置づけて「事態を正確に読み取っている」ことを指していよう。「命令に反していたかどうか」「逃げたのかどうか」。現場の指示が混乱していたことも考えられよう。東電本社の発表と吉田所長の齟齬も考えられる。そうして、読み取る記者の「待避」を「撤退」と読み取る大雑把さ。というか、狩猟センス。我が胸に手を当てて考えても、じゅうぶんあり得ることである。

 

 じつはそれでも、それが「公正」かどうかは、定まらないことがある。大きなシステム全体の(構成員が)共有する規範が多ければ多いほど、組織全体としての「傾き」はますます見えにくく、感じとりにくくなるからだ。今回のことを朝日新聞は、「限られた人数で取材」と不行き届きを認めている。だがたぶん、それだけではない。記者たちの気分が同調していると、人数が多いか少ないかではなく、そのようなことは起こりうる。同調する(共有する規範が多くなる)ことは、経営者は(たぶん)歓迎する。伝統が受け継がれる社会集団では、そういう部分が多くなる。つまりOJTと呼ばれる現場教育が浸透しているとき、規範は自動増殖装置のように作動して機能する。だから魚が(たぶん)水を意識しないのと同じように、ほんとうに自分のことは、分からないものなのだ。

 

 事態を正確にとらえるのが、個々の記者の心構えや倫理性に依存しているのだとしたら、いつまで立っても「公正」は担保されない。一人一人の気の持ち方は、揺れ動くからだ。たぶん記者個々人の体調、個人的事情にもよるであろう。ましてフクシマという状況の大きな変動の中では、平常心が保てるかどうかさえ分からない。新聞社が、個々の記者の心もち次第に依存しているということは、よも、あるまい。

 

 「公正」を担保するためには、日ごろから、異論を内部留保する組織論をもっていなければならない。この、異論を内部留保しておくということが、日本の社会集団は苦手としている。いつでも皆、足並みをそろえなければならないという同調主義が肌身に染みついている。空気を読めというのもKYというのもそれだ。「人生いろいろ」と国会で首相が応答する時代が10年近くも前に過ぎているのに、社会集団は「いろいろ」のありようを上手にとりあつかいかねている。

 

 選挙で選ばれた首長の一声でいろんな現場の動きが斉一化されなければならないと、ひところ若い政治家が繰り返し叫んでいたのも、ほんの数年前のことだ。あれは施策を指示する指揮系統の「正当性/正統性」の問題を施策の「正当性」の問題にすり替えていた。現場というのは、いつだって「勢い」とか「気分」で、そういうすり替えがすんなり通ってしまうってこともある。異論を内部に留保するというのは、平場の現場員にとっても、いつでも黙って上からの指示に従えというのではなく、文句をたれる余地を残しておけということなのだ。

 

 新聞社というのは、案外そういう知的な合理性が貫徹している社会組織ではないかと思っていた。そういう異論がそれとしてあっても現場の仕事自体が混乱なく運ぶことこそ、近代的合理性だと言える。そこがまだ、行き届かないのだとしたら、トクダネの狩猟にまい進するよう駆り立てる経営の姿勢そのものを、あらためなければならないのではないか。そんなことを考えさせられた。


大切にされている飯縄山、不遇の黒姫山

2014-09-11 15:37:26 | 日記

 台風が南へ逸れるというので、戸隠の宿を予約、北信の山へ向かった。9日、大宮を出た長野新幹線の次の停車駅は上田。そこから10分で終点長野、1時間もかからない。長野の空は雲一つなく晴れわたっていた。

 

 駅前のバスセンターで聞くと、戸隠行きのバスは3路線、飯縄山の登山口に止まるのはそのうちの2つ、旧道周りとそうでないのと、ややこしい。一の鳥居という登山口(標高1120m)に降り立ったのは 10時20分。私以外にもう1人、60歳半ばのザックを担いだ方も飯縄山へ登るようだ。

 

 別荘地の間を抜ける舗装路を北へ向かう。樹林の路傍には秋の花が咲いている。ノコンギク、大きな黄色い花をつけたキクの仲間、アザミの仲間。ヨツバシオガマの花はもう終わりを告げているようだ。樹間から飯縄山の山頂が見える、と思った。あとで気づくのだが、見えたのは手前の飯縄神社のあるニセ飯縄。本物の山頂は、その先にあった。

 

 平屋の大きな建物と遊具を備えた庭のあるところがルンビニ幼稚園と看板を掲げている。人影はない。そうか、むかしは幼稚園を開設できるほど定住者がいたんだ、とそのとき思った。だが家に帰ってきて、検索してみると、同名の幼稚園は全国にたくさんある。長野市にも何カ所かある。ということは現在も、夏の間とか冬のスキーシーズンに使う幼稚園の別荘なのかもしれない。飯縄高原はリゾート地なのだ。

 

 舗装路の終わる辺りに登山道入口がある。案内看板はないが、車が5台ほど駐車している。ちょうど降りてきた人がいた。早朝登り始めて、今戻ってきたという。800m余を往復するのに4時間半。いいペースだ。

 

 標高1368mと表示されたところに「第一不動明王」と書かれた木柱と石仏がある。その傍らに「十三仏縁起」と見出しを掲げた看板が置かれている。「十三佛とは死者の七七にその三十三回忌を司る神なり」とはじまる、その看板には、ここから上に登るにつれて十三仏が置かれていたが、そのうちの二つが逸失していたので、誰某が寄進して設えた、と墨書してある。戸隠の高妻山にのぼったとき同じように石仏をおいて、何合目という表示にしていたのを思い出した。信仰の山というのは、死者を弔うように石仏を置き、そこを登りながら、死者の冥福とともに生者の平穏を祈ったのであろう。「第二釈迦如来」、「第三文殊菩薩」と標高差でいうと25mくらいごとにあり、「第十二大日如来」が「駒つなぎの場」に設えられていた。考えてみれば、今年弟を亡くし、先月母をなくした私が登るにふさわしいと、語り掛けているようであった。

 

 途中で登山道の補修をする人がいる。鉄杭を打って石が転び落ちないように止める。土を運んで流されてできた空洞を埋め、丸太を切って土留めにする。それを一人で黙々とやる。気づいて道をみていると、そちらこちらの大きな石が太い鉄杭で支えられている。木の土留めがしっかりと設えられている。どうもありがとうございますと挨拶をして先へ進む。

 

 ミズナラの林がつづく。暑さが気にならない。「駒つなぎの場」に11時半。少し早いがお昼にする。食べていると、バスで一緒だった60歳半ばが登ってきた。彼は来月、山仲間を案内する下見だという。そうか、私と同じようなことをしている人がいるんだと思う。来月と言えば、落葉広葉樹の多いこの山は、紅葉が美しいだろう。(山の良し悪しは)お天気ひとつですね、と言葉をかわす。

 

 標高1500mのジグザグの登路を登りきると、樹林を抜けササと潅木になる。オヤマリンドウやトリカブト、ヨツバヒヨドリ、シシウド、アザミの仲間、シャジンの仲間と、たくさんの花が咲いている。オヤマボクチの花がひときわ目につく。すっくと立ち、頭頂部に丸い坊主頭のようなのは花になる前、花は色づいてうつくしい。マツムシソウがそろそろ終わりだ。ハハコグサが今を盛りと花をつけている。ウメバチソウが輪郭のくっきりした白い花を際立たせる。ハクサンフウロが姿をみせる。アキノキリンソウが背筋をたてる。ノリウツギもまだ終わらないぞとがんばっている。ササと潅木の向こうに平らな山頂らしきところが見え、その上に白い雲と青空が映える。

 

 標高1840mの西登山口との分岐には、標柱が立っている。戸隠中社へ下るには、ここまで戻らなければならない。吹き抜ける風が涼しく気持ちがよい。1909mの飯縄神社の山頂は平たい。ここを下からみたとき、飯縄山の山頂と思ったのだ。どこかのガイドブックで「ニセ飯縄」と書いてあったのを思い出した。神社は登山路の下に置かれている。いかにも神社。木の朽ち果てんとするような鳥居があり、社の中に神棚があり鏡と榊が祀られている。他には何もない。

 

 そこから10分ほど、標高で8m高い飯縄山は、それなりに広い山頂部。丸い山名表示の石台が置かれ、富士山から北アルプスまで見えるとある。「北信五岳」と記されていて、「斑尾山、飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山」とある。「おや、高妻山がない。百名山だのに」と思う。10人ほどの人が石に腰掛けて休んでいる。こんな天気の良い日には、山頂でのんびりするのが、何よりという感じだ。一角に石仏がある。お地蔵さんのように、前掛けをかけている。これがひょっとすると、「第十三仏」なのだろうか。

 

 下山開始。13時10分。すぐに、朝から一緒の60歳半ばが登ってくるのに出遭う。彼は「登ったところに降りるんですか」と尋ねる。「いや、戸隠中社に降ります」と応えると、「道が違うでしょ。」という。そんなはずはない。「途中で、中社への分岐の標柱があったでしょう」と応ずると、「えっ、そんなものがありましたっけ」と答える。私が地図を取り出して、「ほら今、ここにいるでしょ。ここが分岐、ここから右へ行くと中社ですよ」というとやっと納得したらしい。でも、地図も持たないで下見なのかい、と思う。彼もまた、中社へ下るのだという。

 

 下山路ではやはり花に目がいかない。足の置場をひとつひとつ見ているから、わき見をする余裕がない。しばらくは石がごろごろとする急斜面。そこを越えると、なだらかな落ち葉散り敷くふかふかの下山路に変わる。両側はササが生い茂っている。30分ほどで「萱の宮」につく。ガイドブックにこの名があり、何だろうと思っていたのだが、社が置かれ鳥居があった。


                                                                     
 快適な下山路をさかさかと歩いていて、失敗をしてしまった。右に外れて、林道に出る分岐を見過ごしてしまったのだ。家を出る直前に見たガイドブックには「(林道近道という標示を)見過ごしても大丈夫、林道に出る道は下にある」とあったから、地図を確認もしないで、調子よく歩く。ふと見ると、下に林道が見える。なんだこれか、とちょっと急な斜面を下って、林道に降りる。これが間違い。あとは林道に沿って30分、とコースタイムを想いうかべながら下った。と、大きな舗装道路にぶつかる。「奥社→」と記している。だとすると、中社は左かと左への道を下る。これも間違い。

 

 500mほど歩いて、蕎麦の花咲く畑や田んぼの手入れをしているお百姓さんに中社の宿への道を聞く。「これは反対側へ来てしまったね。中社はあちらよ」と指差すのは、私が今降りてきた方向。引き返す。この舗装路に降り立ったところに戻ってみると、左側の高いところに「中社1180m→」という小さい表示がある。これを見落としていたわけだ。ダメだね、それほど疲れているわけでもないのに。

 何を間違えたか。やはり、下山路の途中にある分岐を見落としてしまって、沢筋の一本南側の林道に降りてしまったのだ。地理院地図の25000図では、そこまでの地図をプリントアウトしていなかった。大きく下山路から林道へ回り込む道を私の地図には書き込んである。沢音が大きく聞こえたあたりで、このへんかなと思いながら下っていたのに、ガイドブックの「気づかなくても大丈夫」という記述が印象に残って、分岐を飛ばしてしまったわけである。気分良く歩くと、こういうミスをする。気を付けるべし。

 

 でも、まちがえたおかげで、林道沿いの花々をみることができた。ツリフネソウの群落をいくつも見た。サラシナショウマがきれいに咲いていた。ハギがみごとに季節を謳歌している。ツルマメだろうか、楚々と花開いている。

 

 それでも宿に着いたのは、予定より1時間早かった。戸隠に来たのだ。そばを食べない手はない。宿の主人にうまい蕎麦屋を教えてもらう。ご近所の「うずら家」。土曜日曜ともなると、1時間待ちは当たり前という行列のできる店、と宿の主人。もり蕎麦とお酒「夜明け前」を頼む。突き出しに白菜の漬物、キノコの胡麻和え、素焼きの猪口がお酒の口触りの味わいを深くする。そばもいい。こちらが「そろそろ」と頼んでから、茹で上げてサッと出してくれる。いま花が咲いているときだから、新そばが出るのは11月になるか。寒暖の差が大きいところでよく育つ蕎麦は、標高1200mという高地の戸隠中社ならではの特産品である。

 

 宿は、入口に古びた小さい山門がある。中に入ってみると、宿の建物も茅葺。これは維持するのに手がかかるであろうと思う。あとで聞いて分かったのだが、建物が140年、山門は200年経っているという。もとはお寺さんであったので宿坊を名乗っていたのだが、明治の廃仏毀釈でお寺さんが取り潰された。後に戸隠神社の「何やら」を受けて、旅館に名を変えて営業を続けているというのである。茅葺の葺き替えは、伊勢神宮のそれをやった職人(集団)に頼んでいるという。あとで知ったが、昭文社の地図にも、この宿の名が記載されていた。夕食のときになって、今朝一緒にバスを降りた登り始めた60歳半ばの人も同じ宿と分かった。軽く挨拶だけかわした。彼は下山路の「分岐」を見落とさなかったろうか。

 

 10日、やはり晴れ。早朝タクシーを頼めないかと話したら、登山口まで宿の車で送るという。ありがたい。これで6kmの道を歩くのが節約できる。朝ごはんは、おにぎりにしてもらっておいて、起きてから済ませた。

 

 大橋の登山口には1台車があり、登山者らしい人が準備をしていた。両側が広葉樹にかこまれた林道を北へと歩く。ほどなく、後ろから若い人があいさつをして追い越してゆく。黒姫山を往復するのだそうだ。林道が二股に分かれているところで、はてどちらにけばいいのかと一瞬迷う。なんと高さ5mくらいのところに「登山道」と表示がある。なんであんな高いところにと思ったが、たぶん、雪が3mか4mも積もれば、あの標示がちょうどよくなるのかもしれない。右に踏み込んで少し行くと、今度は太い木の幹の4mくらいのところに、「登山道」と掲げている。細い踏み跡が周りの潅木をかき分けるように入り込む。

 

 少し登ったところで、先ほど追い越して行った若い人が地図を広げている。分岐がどちらかわからないという。ちょうど別の林道と交差している地点。傍らに「北信五岳トレイルランニング110kmレース実行委員会」のコース表示が登山道を外れたところにルートをとっているのだ。私の25000図を示してこの上の「七曲り」を越えたところに分岐があると話すと、「七曲り」というのは、黒姫の町側から登ったところの名称だと昭文社の地図をみせてくれる。なるほど。でも、名称はどうあれ、ほらっ、ここの登山道の折れ曲がっているところ、とやり取りをする。

 

 「いずれ折り返すあなたとすれ違いますよ」と私が挨拶をし、彼が先行する。そこからは上り一方の道。おおよそ標高1180mの大橋から2053mの黒姫山頂。900m近い。コースタイムは4時間。ブナやミズナラの樹林であるが、下生えは全部ササ。「戸隠竹細工組合」の看板がところどころにある。なんでこんなところに? と訝しく思いつつ登ったが、「タケノコ取り厳禁」とか「ここは竹細工組合が伐採許可を得ている地区。筍の採取は禁止。見つけた場合は、組合証を没収」とあるから、ネマガリタケのタケノコを取りに入る人がいるのであろう。ササの生え延びるところは切り払われ、よく手入れされている。

 

 標高が1700mを越えた辺りで見上げると、山の上の方は雲の中に入ったようだ。いつしか陽ざしが消え、少し肌寒いくらいの冷気が漂う。足元は岩がごろごろした狭い道、土のところはぬかるむようだ。標高1900mで、外輪山に上がった。中央にあるのは、小黒姫山2046m。こちらが山の中央。黒姫山があるのは、その外輪山の一角ということになる。これらは地図で見て、そう思った。実際に上がってみると、樹林がずっしりと覆っていて、地図で見るような景観は得られない。外輪山の南側は笹原だから雲が取れればよく見えるのだろうが、中央部は木が邪魔をしてまったく見晴らしは利かない。

 

 岩が露出しているところに出る。シラタマノキが目に留まる。すぐに「しらたま平」と書いた表示が、岩の間につけられている。笹原の斜面に立つ針葉樹が雲の流れに見え隠れする。雲をみていると、風が呼吸をしているというのがよくわかる。外輪山の1998m地点に来たとき、雲が取れ、黒姫山がきっちりとした姿を見せた。山頂部に人が立つ気配がする。先行した若い人だろうか。少し下り、また少し登って黒姫山の山頂2053mに着く。例の若い人が休んでいる。雲が少し切れる。「北信五岳」と、若い人が話す。東を指さして、あれが斑尾山と野尻湖と教えてくれる。「どうして高妻山は入らないの?」と尋ねると「戸隠連峰と一括しているんでしょ」と応える。なるほど。三角点はこの黒姫山にある。見下ろすと、黒姫高原から飯縄高原へつづく高原地帯の住宅群がよく見える。測量をするには、外輪山の最高峰がよかったのだろうと、山の成り立ちとは別に人間の事情を類推する。

 

 彼は妙義山近くの富岡町の人だが、最近長野に単身赴任しているという46歳。週1のペースで、現在の住まい、長野に近い山を上りに登っているという。北信五岳の斑尾山もぜひ、と熱が入る。近くの温泉も紹介してくれる。黒姫高原へ下山した折の温泉を尋ねると、「ない」、「この山は古い山で、すでに火山活動も終わっている」と山の創成にまで立ち入る。私の齢を聞くので教えると、その齢でも歩けるようにするには何か秘訣があるか、と聞く。そうだなあ、バランス感覚かなあ、これが崩れるので持続力も持たなくなると、登山の生理学の話をする。

 

 彼はまだしばらくこの山頂を愉しんで、登山口へ下山するという。どこの温泉に入ろうかと、愉しそうである。遠くの景色は見えないが、陽ざしはあり、時間は10時にならない。30分ほどもいたろうか。私は先に、黒姫高原へと出発する。

 

 途中の分岐までは10分ほど同じ道を引き返す。その先の下山路はひどく荒れている。戸隠側からの登山路と比べると、こちらは歩かれていないことが分かる。ササも伸びるに任せ、道を覆い隠す。岩足をおく岩は苔むして滑りやすい。たぶん戸隠竹細工組合のような伐採権利をもつ団体もないのであろう。ここで初めてコースタイム15分の所に25分もかかった。私には草臥れてきているという自覚はない。下山の全コースタイムは2時間45分。その目算で歩けば、12時30分には下山できる。そのころに出発するバスに乗ってもいいが、近場に温泉でもあれば、14時40分発のバスでもいい。

 

 大池も水が7分方干上がり、周囲は草ぼうぼう。とても、小黒姫山のさかさ姿を映してみる、と書いてあったガイドブックの風情はない。荒れるに任せている。でも、これはこれで山の姿だ。戸隠側と対照して驚いている。歩かれていないからこうなるのであろう。地面も水が抜けず、ぬかるんでいる。七つ池に入る笹原は道をふさぐようにササが伸び、足元をストックで探りながらすすむ。点在する小さな池の周囲は広やかだが、脇へ逸れると湿原入り込みそうだ。一つの池の脇に立つと、小黒姫山がさかさに映って面白い。黒姫山は背の低い平らな高台のようにみえる。

 

 外輪山の黒姫乗越に上がる道はさらに歩きにくく、ぬかんるんでいる。踏み跡も分かりにくいところがある。木の幹につけられた、色あせた赤いテープがなければ、道を探すようになる。木が倒れて道をふさぐ。ある大きな段差をあがった時、体を持ち上げ重心を移しかけたとき、ごんと軽い衝撃が頭にあって動きが封じられ、もとへ跳ね返されてしまった。元の側の脚はすでに宙に上がっていたから、もんどりうってひっくり返った格好になる。ザックを背にして高い段差の下へと体は落ち、危うくその向こうのぬかるみにどっぷりと浸かるところであった。かろうじて押しとどめ、なぜ? と見上げてみると、ちょうど上に上がった地点の頭のところ、下からみると、2メートルくらいのところに、倒木の太い端っこがせり出していた。いやはや、危ない。ちょうど目に入らない位置だなと、改めて思う。

 

 黒姫乗越までの時間がコースタイム40分にプラス5分、その先黒姫台までが、やはりコースタイム40分プラス5分。道は崩れかかり、ササの根が伸びて滑りやすい。私が草臥れているのか、こちら側の下山路のコースタイムが厳しいのか。その途次で、登ってくる若い男3人連れに出遭った。大学生であろうか。岩の上を伝い歩くようなところで、脇へよけて交差した。「山頂までどのくらいですか」と一人が尋ねる。「ここまで1時間半くらい」と応える。ふと見ると、運動靴だ。ぬかるみがあるからねと、声をかける。ハア~イと明るい。

 

 黒姫台は、たぶん黒姫山をみる展望台という意味であろうが、山は雲の中に入ってまったく見えない。しばらくすすむと、スキー場の上部にいるようであった。ジグザグの下山路をたどる。周りは背の高さほどの草と潅木が生え何も見えない。ずうっと下の方にスキー場の施設があるのは何となくわかるが、はて、あそこまで1時間で行きつけるだろうかと思うほど、離れている。標高でいうと、ここは1500mほど、1000mとみえも、500mの標高差を下る。斜度は少なくとも30度あろうか。見る位置によっては、45度くらいにも見える。リフト乗り場が見える。壁に「上級者コース」と書いてある。下の方から、風に乗って音楽が聞こえる。

 

 標高1000mほどに下ったところで、リフトが動いている地点に着く。登山道はその下をくぐってさらに下方へと向かうが、もう歩く気がしない。時間はちょうど12時30分。リフトに乗れるかと聞くと、チケットを出せという。山から下りてきたのでもってないというと、下で払えばよいと乗せてくれる。これで標高差200mほどを10分くらいで下る。500円。12時40分。予定のバスが出る時刻だ。

 

 ところが、バス乗り場に行くと、黒姫駅へ行くバスは1時35分。インターネットで調べたのとは全然違う。バスの経路も二通りあって、一つは路線バス、200円、20分くらいで駅に着く。もう一つは観光路線バス。野尻湖へ寄り道をして1時間くらいかけて駅へ向かう。風呂はあるかと尋ねると、しばらく下へ降りないとない。冬ならばシャワーを浴びる施設もあるが、そちらで聞けと、大きな施設の案内所を指さす。そちらで聞くと、シャワーはない、更衣室はあるが、入園しなければならない。結局600円払って入園、更衣室の鍵を開けてもらって、着替える。それだけでずいぶん気持ちがすっきりする。時間があるので、レストランでビールと蕎麦を頼んでお昼にする。この施設、黒姫高原へコスモスを見に来る客で利用するそうだ。なるほど、リフトから見えたが、一面にコスモスが生育っていた。来ている人の数は決して少なくない。リフトも動いているくらいだから、利用者はいる。観光バスやマイカーで来る人が多い。

 

 バスに乗る。私一人。経めぐりながら、運転手が話しかける。山を歩く人のことは、なんとなく眼中にない。もっぱらスキー場として維持されているのが、この高原地帯。この土地全体がそうだとすると、山岳道の荒れようも納得がいく。黒姫山は見るもの、歩くものではないってわけか。

 

 せっかくの北信五岳も、トレイル・ランニングとスキーに占められ、歩くのは野暮というものらしい。拗ねているのではない。野暮が気持ちよく生きる施設がちょっとあるといいのにと、思ったのだ。信仰の山として大切にされている飯縄山に比べて、黒姫山はちょっと不遇だという気がした。


家族になぜこだわるのか

2014-09-08 19:04:05 | 日記

 東日本大震災以来「絆」ということばが多用され、「家族」を見直す動きが強まっていると言われる。「見直す」と言うのは、もう一度「家族」の持つ意味を再評価してみようということだ。ということは、それまですでに、「家族が崩壊する」とでもいうような形骸化が進んでいたことを示している。いつから? たぶん、1970年代後半から80年代を通じて、日本の社会が劇的に変わった時期、別の言葉をつかえば、産業社会的大量生産の時代を終えて高度消費社会に移行していった時期である。

 

 「大家族」が見直されたのは、たぶんもっと古い時代であろう。wikipediaによれば(専門家でもない私にとっては手軽な調査検索サイトだが、検証できない)、「1920(大正9年)に核家族は55%」とある。半数を超えている。日本の産業資本主義段階の大きく進展した時期、つまり都会化が進むのとあわせて「核家族化」がすすんでいる。農村の大家族から次三男が都会に出てくると考えればわかりやすい。「(核家族化は)1960年代に急激に上昇し1963年(昭和38年)には流行語となった。その後1975年(昭和50年)の約64%を頂点としてその後は徐々に低下し始めている」とwikipediaはつづくが、こちらの方が、私などの実感的にみあっている。大正から昭和初期の大きな社会の変容の時期に、「家族」の意味は問い直されたに違いない。それはたとえば、映画「東京物語」が描くように、「家族関係」の変化を通して近代化していく様子を浮き彫りにする物語りに紡がれていたのであろう。ちなみに、映画「東京物語」は大家族を問う物語ではない。すでにそれを通り越して、核家族化の進展が、都会化と相まって人々の間に引き起こしている「かんけい」、つまり「人間」の変容である。そういう謂いで、この映画は人間と社会の深いところにまで視線を届かせる奥行きを蔵していたと思う。

 

 3・11以降の「家族を問いなおす」視角は、(津波によって)「家族」なるものが崩壊している眼前の状況が、じつは(震災に襲われたわけでもないところにおいても)すでに日常化している事態を踏まえて、「家族とはなにか」を再考し、その「かんけい」を内実において再編成する方向を探っている。それは、「家族」という中間集団が解体され、一人ひとりがササラ状に孤立している事態を浮き彫りにして、それでいいのかと問うている。では、いったいなぜ「家族」にこだわるのか。それを突き詰めて考えてみようという小説に出逢った。重松清『ファミレス』(日本経済新聞出版社、2013年)である。

 

 いうまでもなく重松清は、「突き詰める」というほど主題に焦点化するような小説の書き方をする人ではない。巧みに、軽々と関係設定をしながら、人間の色々な要素を配置しておいて、その「かんけい」が動き出すのを軽快に俯瞰している。しかし浮かび上がる状況は、筆致の軽さに比して重い内実を提示している。「平穏に過ごしてきた日常」にいつしかできている亀裂、亭主はそれに思い当たらない。気づいた妻本人も驚き、それをどうしてよいか思案する。これはちょうど、私たちが日常的に繰り返している自己確認の作業ではないか。そうして「答え」が出ない。そのことまで、そのまんまである。

 

 これは、「家族」や「家庭」が人と人とを日常的に結びつける求心性を失っていることを意味する。かつてはその求心性があった。食卓を囲み、大皿に盛られたものを争って小皿にとって食べる、あるいは、銘々のお膳に盛り付けられたものを、一緒にいただきますと挨拶をしてから箸をつける。それだけである。だが、それだけで「家族」がなんであるかを指し示す「協働の作業」としては十分であった。ああ、ここで「かつて」と言っているのは、「三丁目の夕日」の昭和30年代でも思い出してもらえばいい。それが「家庭」から消えた。食事の時間はそれぞれ、何を食べるかも好き好き、いつしか作るものさえも別々、勝手がってになっていった。商品交換に浸食されてきたのである。

 

 「家庭」は、玄関を入るかたちだけ。同居しているから「家族」である。なら、思いもよらぬ居候が同居する羽目になったら、それは「家族」か? そこへ何年も不在の「いるはずの妻」が戻ってきたら何が起こるか。重松はそういう設定をする。そうして巧みに、趣味が料理であることで結びついたアラウンド・フィフティの男3人のつながりを梃子に、話を展開し、さまざまなかたちをお披露目してみせる。

 

 本書のタイトル「ファミレス」とは、よく言ったものだ。和食であれ、中華であれ、イタ飯であれ、洋食であれ、それぞれに人が銘々に好きなものを注文して、食べる。いわば「同居しているかたち」をレストランに、銘々が食べるものの違うことを、個々人の生き方に置き換えて、現代の「家族」を象徴させる。そうして見事に、商品交換の場として交通が行われていることを、指し示す。つまり、「ほんとうの家族」とは、それとは違ったところにあるんだよと、暗示しているわけだ。

 

 どこにあるのか?  日々の営みの中にあり、その総集的な「かんけい」こそが、それだという。その場が持つ気配も、一人一人のアイデンティティとして内面化されていっている、と。それは気持ちを引き立てることもあれば、気が滅入ることでもある。生きるということがかかわるありとあらゆることが、「かんけい」をつくりだし、「家族」をつくりだす。しかしそれは、かならずしも「イエ」というかたちを固定的に必要とするとは限らない、と。

 

 商品交換の場としてのみ機能する「かたち」の家族とは、養育と介護という生活保障装置として「かたち」を保っている、それであろうか。親が子どもを育てるのは生んだ責任を取るから? 老親の介護をするのは養育してもらったという債務の支払い? 重松の目はそこに深入りしてはいないが、「形骸化する家族」の現実態は、法制度によってかろうじて支えられているにすぎないようにも見える。

 

 豊かな社会に生きるとは、それぞれの自己を実現するためであってみれば、自己中心的にモノゴトを考え、関係を紡ぐのは致し方ないことだ。だが積み重なる「かんけい」は、断片的なものならば、着替えをするように脱ぎ捨てることもできよう。だが、「家族」のように、長年をかけて築き上げ、その人のアイデンティティの一角をなしていることだとすると、自分の振る舞いだけで「かんけい」から離脱することができるとは限らない。かかわってきた人々にも、その「かんけい」の崩壊を強いる振る舞いとなる。だから、バツイチとかバツニというふうに、気軽に語られる離婚歴の「家族」は、もはや「かたち」をもつ制度としての強度をもっていない。もしそれが(重松の作品にみられるように)現実態であるのであれば、養育と介護という生活保障的要素の主力としても保持しようとすることも、再検討した方がよいのではないだろうか。

 

 思えば、家庭内別居とか家庭内離婚が話題になったのも、もうずいぶん昔のように思える。もともと「イエ」の存続を第一とした江戸以来の「家族制度」も、養子縁組を公然と行うことが定着して、血のつながりも、だから何? というほどの意味しか持たなかった。ところが「核家族化」してみると、イエの存続さえほとんどモンダイにならない。さらに「核家族」が形骸化し個人主義化が進行した今となっては、イエは個々人の保護装置としてさえ機能していないともいえる。

 

 「イエ」という制度を維持するよりも、重松清の提起する「家族という仮想集団」の生き方を深めるという方向へ舵を切ってはどうだろうか。そんなことを、軽~く考えさせる本であった。


山と人生

2014-09-07 10:40:19 | 日記

 
 昨日、私の主宰する山の会の会員の一人から「8月の山行をもって会を卒業させていただきます」という手紙をもらいった。先月の火打山・妙高山を歩いて、(1)自分で自分の身体がコントロールできなくなる怖さを覚えた、(2)会の山行レベルについていくだけの体力と気力がない、という。

 

 山行後の記録にも書いたが、8月の山は、2日目の行程が8時間半に及んだ。ゴロゴロした岩を下る行程も行動時間からいっても、「中級の山」であった。60歳代後半の彼女にはきついかなと思いながら、ガイドをしたものであった。

 

 考えた末、彼女に以下のような返信を送った。

 

*****
Mさま

 

 お手紙拝読しました。驚くと同時に、とても強い衝撃を受けております。

 

 もちろんひとつは、「山歩講を卒業させていただきます」というあなたの決意です。

 

 あなたもお書きになっていることですが、「何より月に一度皆さんに会えるのが楽しみ」ということは何につけ言えることです。わずか2年とは言え、あなたが欠席されたのは、お犬様介護のための一度、7月の木曽駒・宝剣岳のときだけ。三浦さんあなたが来ないというのは、それ自体がニュースでした。何かあったのか、というわけですね。だからあなたからのお手紙を皆さんにお見せしたのです。

 

 まず何よりも、あなたの磊落なおしゃべりが、山行中の皆さんの気持ちを軽くしていました。飾らない率直な物言い、感じとったことの素直な表現、適切なことば。自分を低みにおいて繰り出すジョーク、それを反転させて「お説教」に転じて笑いをとる技。どれをとっても、山行が愉しくなる欠かせない要素でした。もちろん楽しいことばかりでなくていいのです。苦しいことも含めて、山を歩くということは、そこに加わる人の「かんけい」のすべてが合わさったものです。そういう意味で、あなたが「卒業する決意」というのは、私たちが見限られたのかと思いました。

 

 もうひとつ、山歩きのペースが違うということについて、私がつねづね考えていることです。

 

 あなたは、みなさんの歩きから遅れることをいつもたいへん恐縮していました。ですが、いつかもお話ししたように、山行で遅れる人がいることは、他の人の援けなのです。自分より遅れる人がいることで(自分の)気持ちが少し軽くなり、(私は)がんばらなくてはと自分を励ますのです。あるいは、弱った人を援けようという(優越的な)気持ちが、少しばかりその人の力を引き出すともいえます。そのような心情がいいかどうかは別として、そういう意味では、あなたは山歩講の救世主でもあったわけです。人の肥やしになるのはいやだと思うかもしれません。でもそれを突き抜けてこそ、人と人との「かんけい」は意味を持ってくるのだと思います。

 

 集団で山を歩くことは、そのようにして人を元気づけ、「やむなく(ついていく)」とは言え、人のや自分の歩く気力を引き出してくるものです。「迷惑をかける」というのは、人が人として存在する限り、付きまとう感覚です。人が独りで生きているのでないということの証明のようなことですね。迷惑をかけないようにしたいが生きている以上仕方がない、と受け止めることによって、他者にも寛容になる気持ちが生まれてくるのだと思います。

 

 もう一つ衝撃的なこととは、「山歩講のレベルについていけない」ということです。

 

 これはまったく私のプランニングの問題です。これは私も気にしていました。高谷池ヒュッテの夕方のコーヒータイム(ビールタイムや焼酎タイムの方もいましたが)に私がお話ししていたことと関連します。「月例会がきつくて参加できない人が出てきている。その人たちも参加できる例会を月にもう一度設定してみようかと思っている」と、提案ともつかないことをお話ししました。

 

 いつかも申し上げましたが、私は、みなさんの力量ギリギリのちょっと上を設定するように考えてきました。なぜちょっと上か。たいていの方は、ご自分の力を少なめに見積もり、余力を残して歩けるようにして山行に臨むからです。齢をとると、年々力は衰えてきます。日常歩くことができなくなるとますます、持続力だけでなくバランスや回復力は着実に低下します。これは齢をとるということに伴う必然的なことです。私たちはその進行をできるだけ遅くすることしかできません。本人が考えている力の少し上を狙うことで、現在の力を保持する、と考えていたわけです。

 

 ですが、みなさんの年齢も違えば、体力もバランス感覚も、意欲も違います。ですから、どこにスタンダードをおいたらいいか、いつもプランニングのときに迷っていました。実際に、Mzさん、Otさん、Odさんといった方々が、「お休み」なさっています。それぞれ腰や膝などの不調部分はあるでしょうが、それらはいずれ、だれもが通らなければならない[障害]だと考えています。それが、高谷池の宿での「提案まがい」になっていました。

 

 こんなことを書いていましたら、今朝(9/7)の朝日新聞「読書」欄に、「自分を取り戻す登山の魅力」と見出しを付けて、北村薫著『八月の六日間』(KADOKAWA)という本の書評が出ていました。評者は佐々木俊尚というジャーナリストです。そこにこう書かれています。

 

《他の登山者と出逢って言葉をかわし、そして別れていく。歩きつづけてようやく山小屋に着いた主人公はこう書く。「夕食の支度がすすむ家に帰ってきた、子どものときのようだ」。まるで人生の縮図をなぞっているようなこういう感覚は、登山を好きな人ならだれにでも理解できるだろう。》

 

 そうなのです。「人生そのもの」という感覚があるからこそ、私は、一つ一つの山歩きの後に(今では)、それを振り返って文章にしているのです。あなたの、「卒業します」ということばが衝撃であったのは、「人生を卒業します」というのと同じように響いたからにほかなりません。あなたにそう言わしめた私自身のプランニングをもう一度振りかえって、高谷池ヒュッテの「提案まがい」をした直感は、当たっていたとも思った次第です。

 

 むろんいつか山を歩けなくなるときは来ます。そのときは、(たぶん)人生そのものに終わりを迎えていると強く確信しはじめるときだと、思っています。そういう意味で、まだ若いあなたが「卒業する」などとおっしゃらず、今後の新しい展開にお付き合いくださるようお願いします。

 

 「人生は一番勝負なり 差しなおすこと能わず」という菊池寛の言葉を墨痕鮮やかに描いた色紙が、我が家の一部屋に飾ってあります。もう30年も前になりますが、書を趣味としていた私の父が、私の息子が高校生になった年に書き送ってくれたものです。山のトレーニングは山歩きをするに限る。人生のトレーニングは人生を生きるに限る。それぞれが、一回しかないその一時を大切に生き続けることを諭しています。ぜひ、ご深慮のほどお願いします。    不一


愚民社会か選良の条件か

2014-09-06 14:33:46 | 日記

 何かの本を読んでいて、宮台真司×大塚英志『愚民社会』(太田出版、2011年)があるのを知った。図書館に予約しようと検索したら、小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、2007年)もあったので、2冊とも予約して借りた。

 

 宮台たちの方は、最初の対談に「すべての動員に抗して――立ち止まって自分の頭で考えるための『災害下の思考』」と見出しと袖をつけている。「動員」というのは、世の中の大勢に流されて動くことを指している(あとの対談2本は、2003年のものと004年のもの)。彼らはいずれも、日本の社会を変えたいと願っていて、変えられないことに苛立ってきた。変えられないのは、日本の大衆の根っこに底流している「気質」であると見て取る。それを宮台は、〈任せて文句を垂れる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ、〈空気に縛られる社会〉から〈知識を尊重する社会〉へ、〈褒美をもらって行政に従う社会〉から〈善いことをすると儲かる社会〉にシフトすることを願っている。この、〈 〉の中のシフトする主体が「愚民」である。つまり、角度を変えていえば、丸山真男が近代的市民への変容を希望しながらついに果たせなかった「自然(じねん)観」を受け継いできた「大衆」に、「自律/自立せよ」と呼びかけているのである。

 

 そうしてついに二人はアンソニー・ギデンズに倣って「社会を変えられないにせよ、何が起こっているのか理解したうえで死んでいこう」と考えて、対談に臨んでいる。そのシニカルとも思えるようなスタンスに、私は好感をもつ。「何が起こっているか理解」する姿勢は、超越的な視線をもたなければみてとれない。それには自身に何ほどの力があるか限定する視点がなければ、優越的な目線の見下した「愚民」しか浮かんでこないからだ。シニカルに見える地点に立つことによって自身をも対象化するベースが余地を残す。というか、自分たちが拠って立つ足元をみつめることが担保される。だから彼らは、あくまでもプラグマティックに語ろうとする。そして切歯扼腕している。それが読む者には、我がことのように感じられる。

 

 宮台が「まえがき」に、次のような見出しをつけている。「なにもしない大塚英志と、何かをする宮台真司の差異が、さして意味を持たない理由」と。これは、たぶん自らを「選良」と思っているこの2人が、自らを「愚民」大衆の一人であると知覚していることを意味している。この、プラグマティックさが、語られるモノゴトの具体的なときとところを限定する。「愚民」という表現も、したがって、私たちの身体性に塗りこめられ、受け継がれてきている「ネイションシップ/お国柄」ともいうべき、愛おしさをたもっている。モノゴトを普遍的に語って「愚民」を貶めて「選良」である自分を保つスタンスとは違った、モンダイの提起の仕方と言える。

 

 他方、小谷野の方の書名は、皮肉を込めた「すばらしき愚民社会」である。むろん彼は自らを「愚民」とは思っていない。大衆(「庶民」と小谷野はいう)をそれとしては、敬して遠ざける位置においているようにも感じる。では、小谷野にとって「愚民」とはだれであるか。小賢しい、生半可な知識人とでもいおうか、文学も科学も歴史も、たいして(確かなところを)知りもしないのに、訳知り顔にコメントするプチ=インテリである。彼らは、TVに顔を出し、雑誌やメディアの「論壇」を占拠して、大衆に贅言をまき散らしている、という。

 

 小谷野自身は、自らを「学者」と位置づけている。そして、宮崎哲也、中沢新一、梅原猛、香山リカ、鷲田小彌太、野口悠紀雄、、斎藤孝、宮台真司、大塚英志などなどに、片っ端から当り散らしている。彼らは古典を知らず、歴史的な位置づけをせず、ウケのいい言説を吐いて、間違ったことやいい加減なことを、思いつきだけで言っているにすぎない、とでもいうように(それぞれの人に応じてだが)。

 

 読んでいて、いやになる。どうして小谷野は、これらの人たちの言説がウケル理由とか根拠(あるいはメディアという場)を探らないのだろうか。あるいは、その言動に違和感を持つ自分の根拠に深く入らないのであろうか。間違いであるにもかかわらず、それが(大衆に)受け入れられているのだとしたら、それは何を意味しているか、と踏み込めば面白いのに、と思う。他者との差異は、自己の輪郭を浮かび上がらせる機会でもある。何に自分は執着し、何を忌避し、何を嫌悪しているのか、それはなぜか、と。

 

 小谷野がそのように攻撃的である理由が、同書の中にあった。小谷野は、《「どんな差別表現も反人権的記述も一切自由」だが、「批判を受ける義務がある」》というジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)をまとめた呉智英の言葉をまた引きして、つづけて次のように言っている。

 

 《ローチは、批判し合うことは自ずと傷つけあうことになるが、傷つけあうことのない社会は、知識のない社会だといって、こともあろうに日本の例を挙げている。日本には、公の場で堂々と議論するという伝統がなく、日本では「批判」は「敵意」とみなされるから、人々は相互に批判することを避け、その代償として日本は教育のレベルが高いのに、諸大学は国際的基準からすれば進歩が遅れている、と述べているのだ。》

 

 私は、彼のローチを引用しての記述に賛成である。「人々は相互に批判することを避け」るばかりか、疑義を呈することすら「攻撃」と見て避けようとする。大学という場でのことであるが、学生たちの多くは、教室で発表したことに対して反論や疑問が提出されることを嫌がった。「人間関係を壊す」というのである。小谷野からみると「バカが大学生になった」からというであろう。だが私は、学生のそうした反応自体が、「今どきの若者の関係」を象徴することと思えた。なぜそう受け止めるのか、どうしてそう教室で発言して、怯みがないのか。私などの若いころとまるで違うという感触が、私の疑問の出発点にある。「バカが」と言ってしまうと、そこで思考は停止する。もちろん小谷野には、「バカにかかづらう暇はない」かもしれない。だが、この学生の感性の根っこには、匿名を好み、実名で発言しようとしない(私を含む)日本人の心性があるのではないかと思う。どこかで、宮台のいう〈任せて文句を垂れる社会〉〈空気に縛られる社会〉を担う「日本の人々の気質」につながっているように感じる。

 

 もちろん断るまでもなく私は、大衆(庶民)の一人だ。雑誌やTVや新聞と言ったメディアに登場する「プチ=インテリ」の発言を、ある時は面白いと思い、ある時はまゆつばだと思い、たいていは、へえそうなのかと、ちょっと疑問符をつけつつ受け容れ、機会あればそれを「確認する」ようにしている(でもたいていは、忘れてしまって、そのまんまにすることが多い。それは年のせいだが)。疑問や同意や保留というのは、私自身が内面に抱いている感性や感覚、思考や価値に照らして、ヘンだなという感触をもつかどうかに、かかる。ときには、私は同じように感じているが、そういえば、なぜそう思うか根拠を確かめたことがないと、自分の内面に踏み込むこともある。

 

 どうしてそうするのか。世の中のいろんな人の立ち居振る舞いや言説は、とどのつまり、自分の輪郭を描きとるために行っていると思うからだ。それが、私の「世界」をつかみ取ることであり、私が生れて以来これまでの間に、通り過ぎてきた「人間の文化という環境」から身に着けた感性や感覚や価値や思考を、あらためて対象として掴みだし、一つ一つその根拠を(あるいはそういうふうに身体性をもち来った由来を)自ら確認するためである。それが大衆の自己意識形成のかたちであると、私自身が思っている。

 

 むろん「学者」である小谷野が、「自己確認」のためという大衆次元の目的で満足すべきでないことは、当然である。彼は「選良」であり、「大衆」を領導する責任を感じているであろうから、先端的なことに言及しなければならないと考えているに違いない。軽々に政治にかかわったり、政治的な発言をしたりしないように心しているのかもしれない。だが、それは、宮台ではないが、「どちらにしても、さしてその差異が(現実過程では)意味を持たない」としか思えない。小谷野自身の、確固として持っている(と考えている)「知性」が、どの場面に位置づき、それがどのように「庶民」を「国民」にすることに影響しているかということを、関係の絶対性においてとらえ続けることが必要なのではないか。小谷野敦という方を知らないから断定はしないが、たぶん、いまの社会の彼に対する遇し方が気に食わないのであろう。だが、そういうことを言ってしまうと、せっかくの批判が、「人格攻撃」になってしまう。そういう(議論の)矮小化を避けて通るためにも、発言の場面を限定し、論議のポイントを「選良の条件」とか何とかに絞って、やり取りしてもらいたいと思った。