mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「かんけい」の始末(2)

2014-09-29 10:05:30 | 日記

 兄弟というのは、妙なものだ。両親や祖父母と同じように、生まれ落ちた瞬間から、自然に与えられた与件、つまり「先天的な(アプリオリな)かんけい」である。その感性、かかわり方、言葉、仕種、立ち居振る舞いなどなど、ありとあらゆることを、それと意識せずに身に着けてゆく「かんけい」の総体と言える。言葉を換えていえば、「生きる」ことそのものの与件である。兄弟がいないという場合も、「いない」ことを与件として生きているという意味では、社会的な「規範」の作用を受けながら育っている。

 

 それが「血のつながり」と、のちに言葉に置き換えられることによって、血縁として意識されるのであろうから、むろん、実際に血がつながっているかどうかは、それほど重要でない。むしろ、「与件的なかかわり」の密度が身体の記憶に刻まれて、のちに意識されるようになる。それをたとえば、慕わしくも懐かしいと思い出すか、呪わしくも忌まわしいと感じるかは、「のちの意識」が、現在の認識に跳ね返って受け止められていることである。つまり「与件的かかわり」それ自体がもたらしたことと認識されるから、「再帰的」と哲学する人たちは、言い習わすのである。

 

 親や兄弟との関係がどのように営まれてきたかが、成育途上の、あるいは成人してから、高齢者になってからの(家族)兄弟関係を左右するのは確かである。だが何か悶着があったからと言って、もはやそれぞれの(かんけいの)人生というほかない。ことに古稀を越える年になってみれば、いついつ、だれとだれが何にまつわってどういう関わり合いをもったかと、(過去のなりゆきを)論議詮索することでは、たぶん一歩も「かんけい」を改善するのには役立たない、。悶着そのものが、悶着の当事者(複数)の「かかわり」の、それぞれの具体的なケースに応じてみて、その複数の当事者の相互の、距離と心情がどのような「再帰性」の上にかたちづくられてきているかという、いわば認識を共有する以外に手の施しようがないのだと思う。

 

 思えば、私たち男ばかり5人兄弟の「かかわり合い」は、上手に母親にコントロールされていたと、今になって感じる。年上を敬い、年下に思いやりをかけるという構図は「儒教ですね」と言われれば、たしかにそうだが、そういう刷り込まれたイデオロギーという感触ではない。兄弟の「自然のあらまほしきかんけい」と受け止めてきた。そういう思いを、実際的な「かんけい」が裏切らなかったことが、ますます、その感触を確かなものにしていったのだと、あらためて思う。兄たちは弟たちを思いやり、弟たちは兄たちにつねに敬意をもって接することを忘れなかった。母がそのようにしつけたからであるが、単に「刷り込んだ」というのではなく、再帰的に当人たちも「そうあらまほしい」と思ってかかわり合ってきたからであった。

 

 そのような母親の養育がうまく運んだ結果、長兄も、次兄も、三男の私も、次々と実家を離れ、仕事に就き、結婚して家庭をもつという道を歩くことになった。これは、(長兄を大切に思う)母親からすると皮肉な結果であったかもしれないが、日本社会の近代化が着実に進展した社会の変容に即応していたという意味では、致し方のないことでもあった。

 

 その(兄たちが地元を離れるという)成り行きが、四男、五男の弟たちの去就に影響したことは間違いない。また、家庭を顧みない父親の振舞いもかかわりがあったとは思うが、5人兄弟の4人が地元を離れ、一人四男が長く地元の大学に進学し、地元で就職し、結婚し、実家に住むことになったのも、「成り行き」であった。それは同時に、母親との悶着をつねに我がこととして抱え込む「かんけい」のはじまりでもあった。

 

 「かんけい」は不思議なことに、身近にいてもっとも世話をしている人との「かかわり」に向けられる。母親と息子とが異なった世界に人生を築いていると認知することが「独立/自立」であるとするならば、たとえ息子と言えども「他者」であるという認識をもつことが「大人となった息子」に対する正当な態度である。だが、「子どもはいつまで立っても母親にとっては我が子じゃ」という言い習わしが通念であった時代に育った老母にとっては、たとえ嫁と言えども、我が子同然とみなすのが、当たり前だった。それどころか、嫁をも我が子同然とみなすことこそが、分け隔てなく向き合っている誠実な態度とさえ思っていたのである。

 

 そうした母親の振る舞いは、嫁にも弟にも「文化の衝突」と思われたであろう。母親もまた逆の側から、そう感じていたかもしれない。そしてしかも地元でそうであったがゆえに、地元を離れている息子たちは、それをそのように感じないで済む、「他者としてのかかわり」を母親と持つことができたのである。

 

 弟Kは30年ほど前に、ところを得て大阪へ仕事を移し、そちらで子どもを育てあげてきた。代わるように、近くに居を構えていた次兄夫婦が、母の世話をするかたちになった。だが、弟Kの一家が実家を継ぎ、私たち兄弟の「ふるさと」を維持してくれているという「かんけい」は残った。その「かんけい」が、老母の死によって浮き彫りになった。「母の49日」という「彼岸に行く日」を機に、「背負わされていた家の重さが軽くなる」と「喪主」である長男は挨拶をした。だが、実質上実家を継いだ形の弟Kにとっては、「なにも軽くなっていない」と「かんけい」の堆積に思いを致すことを期待する「憤懣」が、心裡に湧き起ってきた(にちがいない)。それは、彼と彼の一家の紡いできた「母とのかんけい」の集積を、「兄」として認知せよという、兄弟の根源的な「かんけい」から発する声のように響いた。

 

 私はいま、私たち兄弟の関係はうまくいっていると思っている。それが、つながりのかなめである「母」をうしなったとき、どうあらためて「かんけい」を紡ぎなおすのか、それを弟Kは問うていたのだと、受け止めている。