mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

魂の還るところは見えているのか

2014-09-16 20:39:17 | 日記

 福嶋亮大『復興文化論――日本的創造の系譜』(青土社、2013年)を読む。著者は1981年生まれ。中国文学者とあるが、「日中のサブカルチャーや演劇など幅広いジャンルで批評活動をしている気鋭の批評家」と著者紹介にある。

 

 文化を、それ自体のバイオリズムをもって呼吸しているようにとらえる。動乱期、安定期、復興期というふうに。そこにおける文化の「使命」を次のようにとらえる。

 

 《文化や芸術の重要な使命は、(戦争や災害など)「例外状態」のシミュレーションをやることにある……に留まらず、文化や芸術には本来、負傷した社会を立て直すという別の重要な機能もあったのではないか》

 

 「負傷した社会」。戦時中の動乱、戦後の混沌とか虚脱というというとらえ方は、内側から見た社会である。それに対して、「負傷した社会」というのは、社会を動態的な一体としてみている。そのとき「文化」は治癒や修復をどの次元で、何を対象に行っているかという指針として見て取れると、福嶋はいう。たとえば、「日露戦後」の「文明開化の達成」と多額の負債を抱えての日本社会の経済的停滞と「知的中間層の没落」が、夏目漱石の『それから』や田山花袋の『布団』などの「わたくし」へと向かったことなどを、的確に切り分けている。

 

 江戸の時代に各地にできた俳諧サークルが市民たちを結び合せ、知を交換し合うネットワークとなり、国家以外の場に公共的なものが満ち溢れていたと分ける。それが、明治維新から日露戦争へかけての日本の歩みによって、「公的領域は国家に一元化され、従来の社交ネットワークの機能が弱体化するしてしまった」とみる。つまり、近代化の一元的な変容ではなく、国家と社会を分離して社会の側に文化を継承する場を置き、それが動乱によって浸食されてきたと流れをつくる。以下にも、中国文学の研究者という出自を彷彿とさせる切り分け方である。

 

 「第二次大戦後の〈戦後〉は、惑星規模の〈戦後〉であった」とみる、先の大戦後も、これまでの「敗戦後」という日本の枠組みを抜けて、世界の〈戦後〉とみることによって、新しい視座を据える。「ヨーロッパや日本の〈戦後〉の民主主義は、高邁な政治理論によって支えられるのではなく、……経済や文化、行政のサービスの豊かさに寄生して何とか生き延びてきた」とし、「豊かさを社会の中枢に置こうとした時代」と位置づける。そうしてそれを代表するエンターテインメントによって、「民主主義の」理論的限界を適当にごまかし、やり過ごすこと」とみて、漫画やアニメに着目する。

 

 もちろん日本では手塚治虫であり、その原点ともいうべきディズニーの描きとる「自然」を汲み上げる。動物の擬人化、徹底的に衛生管理された手法を用いてディズニーがつくりあげた「自然」は、その物語性も含めて、衛生無害の人間中心主義を謳歌するものである。これが戦後世界の復興文化。

 

 それを覆す方向を目指したのが宮崎駿の諸作品だと福嶋は提示する。この展開が「自然観」の違いを剔抉して面白い。さらにその宮崎に対するアンチ=テーゼとして提起されたと高畑功監督のアニメ『火垂るの墓』を、「魂の還るところのない」物語として位置づけ、アニメの将来を心配するところは、何だか滑稽な感じがした。福嶋の描き出そうとする物語りの着目点にはまったく異議ないのだが、気遣いの焦点がどうしてこうもちっぽけなのかが、ヘンな感じであった。「魂の還るところのない」懸念は、今現在の日本が向き合いつつある現実ではないのか。シニックというのではなく、どん底に足をつけつつあるのではないかと、私は感じている。とても復興文化とは思えないのだが。


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