mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人は犬に食われるほど自由である」

2014-09-13 21:10:21 | 日記

「敬老の日」が近い。いまや「敬老」ということばの重みはほとんどない。年寄りが多くなり、行政的にも厄介者扱いだ。市場はもちろん懐を狙いはするが、孫くらいの若い世代を引き付けて、爺婆の財布のひもを緩めさせようという魂胆が透けて見える。

 

 私自身が古稀を過ぎて2年も経つ年寄りだから言わせてもらうが、年寄りの末期について、可哀想にというような同情は要らない。独り暮らしも、けっきょく自らが選び取った選択であった。もちろん本人がそう望まなくて、配偶者を先に喪うこともある。だがそれも、自由な社会ゆえの選好のひとつだ。

 

 ことに男は、ご近所との付き合い方が下手だ。私自身の感覚からして、そう思う。独りでいるのが、心地よい。もちろん人間嫌いではない。人と行き来をし、おしゃべりしたりお酒を嗜んだりするのも愉しい。だが、せいぜい月に1回とか2回、多くても週に1回程度というところだろうか。家族は別だが、それでも一緒にいて気にならないのは、カミサンだけかもしれない。子どもでさえ、すでに独立して20年以上たつ。別れて暮らしているから、平穏に関係を保っているが、毎日顔を突き合わせていると、たぶん、いさかいが絶えない(かもしれない)、と思う。

 

 要するに、好ましいと思って選びとったのか、そうなるべくしてそうなったかは別として、自分の選好で今のような暮らしがあるということなのだ。それが嫌なら、回避するために手を打っておけばいいし、手を打っても回避できないとしたら、不運であったとか、手を付ける時期が遅すぎたり、手を付けるには(財産や人的関係や知的資産という)蓄積が少なすぎたりしたのだと、諦めるしかない。いずれにせよ、人生の総集的な結果が現在を構成している。自由に暮らしてきたツケが回ってきているのである。

 

 そういうわけで、病院とか施設にいる場合を除いては、独り、死を迎える。その臨終のとき、どうやってほかの人にそれを伝え、あとの始末をみてもらうか、それくらいは自分でやっておかなければならない。お前さんはどうしてるのかって? 私は今のところ、カミサンがいるから算段はしていないが、場合によってはカミサンが先に逝って私が取り残されることもありうる。そのときになったら、しっかり算段しておこうと思っている。自由に暮らしてきた最後の帳尻合わせが、こういうかたちで来ている。文句は言ってもいいが、人のせいにするわけにはいかない。

 

 同情は要らないというのは、死に方まで社会的に指図してもらいたくないからだ。今日の朝日新聞夕刊に「老人クラブ 100万人増運動」とトップに掲げている。「孤独防止へ地道に勧誘」という。孤独が何か悪いことのようにみなされている。「敬老の日」の軽さに見合った軽い記事ですよと言えば、笑って済ませられるが、案外、記者は本気でそう思っているのかもしれない。

 

 冗談じゃない。「孤独の底」にひとたび足をつけてはじめて、私は現在の穏やかな平常心にたどり着いた。「孤独」とは何か。他人の心裡のことは(わかろうとしても)わからないし、私の心裡のことは(伝えようとしても)伝わらない。窮極のところそうなのだと肝に銘じることがあって初めて、人のことに思いをめぐらすことができるようになった。少し踏み込んでいえば、社会が人々のしぐさや振る舞いや言葉によって、いつ知らず伝えている「心の習慣」が、やっと読み取れるようになってきた。この「心の習慣」という文化が大きく変えなければならないところに、差し掛かっていると思う。

 

 もう何十年も前になるが、写真雑誌に「人は犬に食われるほど自由である」というようなキャッチフレーズがつけられて、騒ぎになったことがあった。藤原新也というカメラマンだったか、インドを放浪して、川を流れてきた遺体が犬に食われるところを撮っていて、衝撃的であった。このフレーズを肯定的に受け容れるセンスが、いまこそ必要とされている。自由に過ごすということは、そういうことであった、と。