mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

比翼連理の不安の発生源

2024-05-13 08:13:28 | 日記
 ささらほうさらの月例会で、もう一つおもしろいことがあった。例会が終わって1時間半ほど軽食を取りながらお喋りをした。
 マサオキさんが、どうミユキちゃんの様子は? とサトルさんに問う。
 喜寿を迎えそうなサトルさんと同年代の奥方を八十路の年寄りがちゃん付けで呼ぶのは、何とも滑稽かもしれないが、何しろ半世紀以上前、20代前半の頃からの知り合いだから、それも致し方ない。笑ってやってください。ふふふ。
 う~ん、波があるんだよね、とサトルさんは思い巡らすように、言葉を選びながら答える。
 いろんな受け応えがしっかりしているときと、何だか少しも覚えていなくて不安なのか、何度も聞き返すときがある。奥方から目が離せない、と
 おっとりした奥方も、サトルさんと同じ職種の仕事を定年まで勤めあげ,退職後に歌を詠むことを趣味にして闊達な活動をしてきている。その奥方が、少しずつ物忘れがひどくなってきたと話してから、もう1年以上になるか。
 買い物に行って、何を買うつもりだったか忘れてしまう。メモをとりなさいよとメモをもたせる。そのメモをどこかへ置き忘れてしまう。スーパーへ行くときも心配して付き添う。あっ忘れてたと何かを取りに行く。持ってきたものは、もうすでにカートに入っていたりする。サトルさんが出かけるとき、何処へ行くの? と何度も聞く。放っておかれるのが不安のようだ。
 そんなことが重なり、少しばかり認知気味かな、とこぼしたこともあった。
 医者に診てもらえよという声に押されて連れて行った。
 医師は、大したことはない、高齢化の自然現象、軽度の物忘れだと診断。買い物も料理も、できるだけ自分でやる方が良いともいう。サトルさんはできるだけ付き添い、自分でできることは、時間がかかってもやるように面倒をみている。料理も、一つつくっていて、別のことを手がけると、先にやっていたことを忘れる。火に掛けたままで放っておいて焦がしてしまう。サトルさんは火の始末を心配し、目を配る。ときには畳の上にこぼしたままにしている汚れを黙って拭き取ることもする。
 何かの話が間に挟まってから、タケシさんがサトルさんに尋ねる。
「奥さんのつくった料理に、美味しいって言ったことある?」
「う~ん、余り言わないね」
「そりゃあ、言ってあげた方がいいよ。ハリが出るよ、奥さんだって」
 リョウイチさんが、何か思い当たったように言う。
「あのねサトルさん、あなたって、どちらかというと、きっちりと仕事をする人でしょ。だからね、ミユキちゃんはね、すっかり頼り切ってんだよ、あなたに。でも頼り切ってるってのは、ひょっとすると置いておかれるんじゃないかという不安と張り付いているよね。あなたの顔色を窺って、大丈夫かなと不安に思うのよ、きっと」
「……」
「できるだけ自分でやらせるって言ってもね、あなたが付いていてくれるってのは、安心でもあるけど、別様にみると監督されてるようでもあるのよね。頼っていい。大丈夫だよ。だけど、そこから身を剥がしていくってことがね、優越者サトルさんと被保護者ミユキちゃんてことじゃない。対等にしてなお、少しずつ一人でやれるようにやってくってのが、いいんじゃないの」
「うん、うん」
「ひとつずつ、言葉にしてね、おいしいも、ありがとうも、今日はご苦労さんでしたも、何もかも言葉にして投げかけてご覧よ」
 そうか。よく仲の良い夫婦のことを比翼連理と言うけど、サトルさん夫婦もそのように過ごしてきたと私はみてきた。今も実際にミユキちゃんのことをサトルさんは気遣う。医師の指示もあって、ミユキちゃんがうまくやれないことをすぐとって代わってやってやるというのではなく、自分でやりきるように世話をする。
 互いに信頼して半世紀以上もやってきた夫婦にとって、食卓に並ぶ手料理の一つひとつに「おいしい」と言うことがないのも、不思議ではない。日常のこと。できて当たり前。できないと心配ってことになる。
 高齢化に伴う認知症のような病は、そういう日常を見直せって合図なんだよ。意識して取り出してみろって。ことに日本の夫婦は、いちいち言葉にしない、身体的振る舞いが心を表すという習慣に長く親しんできている。空気を読む。斟酌する。もの言わぬ間柄の関係こそが何よりという身体的文化を築いてきている。
 男社会の慣習もあって、力のある優位な男と付き従う従順な女という優劣関係を言外に含んでしまっている。身体が無意識にそういう振る舞いを刻んできた。だから、もの言わぬ「沈黙の信頼」というのは、うんと狭い世間で睦まじく過ごしてきた夫婦に当てはまる。
 現代のように、広い世間の、かなり荒っぽい情報が激しく流れすぎてゆく世界に身をさらしている年寄り夫婦にとっては、家庭のなかで交わす言葉も、つねに激しい世間の雨風に吹きさらされるように揺れ動いている。「沈黙の信頼」というような固定的な岩盤かどうかは、じつはよくわからないことだ。そう、リョウイチさんは指摘しているように思えた。
 リョウイチさんはつい最近81歳になった。このままボーッと過ごすと、いずれ奥さんに迷惑を掛けるようになるというので、自分の無意識に過ごしていることを一つひとつ書き出して、意識的に暮らすことを決意したと文章にしている。それは自分のことだけでなく、夫婦の関係を意識的に言葉にして、改めて考えてみる視線を呼び覚ましている。
 現役時代の社会では、きっちり仕事ができることは、相互信頼を築く上で必須のことであった。それと共に、言葉だけで関わり合う関係を超えて、結びつきを強めていく大きな要素ともなる。でも実はその間に、おっとりと向き合う人柄がストレスを和らげ、とげとげしさを解して、関係を穏やかにつくっていく作用をしていることは、しばしば忘れられている。無意識のかかわりである。そのことへの心持ちを言葉にすることは、それに気づき、意識したときにしかできない。だがそのときには、言葉にする相手はいないということが多い。
 夫婦という間柄においては、無意識と沈黙の度合いは、いっそう大きい。暮らしにおいて依存し合ってきていることが大きく、身に染みこんだ無意識に定着している。それゆえに、何かが壊れたとき、相互関係の〈不安の発生源〉をも深めてもいるのではないか。長い夫婦関係だからこそ、年老いて、物忘れや認知症などをきっかけにして、些細なことが〈不安の発生源〉の蓋を開け、事態をひどくしてしまうこともある。そう、話しているように聞こえた。
 思えば、こういう会話が交わせる関係を、ささらほうさらの会はつくってきている。サトルさんもタケシさんやリョウイチさんのことばを、うん、うんと、一つひとつ腑に落とすように聞いている。半世紀ほどのつき合いと、ここ8年間の集まりがこうした関係に実を結んでいる。そう感じたことが、なによりうれしい。

コメントを投稿