mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

庶民感覚との境目

2024-03-24 08:39:36 | 日記
 日銀がマイナス金利-0.1%から大きく+0.1%へ舵を切ったことに、元日銀副総裁の岩田規久男が「どうして日銀は焦って決めた?」と所感を語っている(東洋経済オンライン2024/03/22)。記者の西澤佑介は《「緩和に戻れば信用失う」と懸念する元副総裁》と記事をまとめている。
 要点を上げると次の3点か。
(1)大幅賃上げの動きはまだ大企業だけ、中小企業の動向をみるには6月まで待てばいいのに、何を焦っているのか?
(2)まずは慎重に-0.1%からゼロ金利に戻す形でも良かったのに、なぜ0.2ポイントもの利上げにしたのか。
(3)《昔、日銀のゼロ金利政策の撤廃基準に「デフレ懸念が解消するまで」というのがあったが、ああいったはっきりしないのが一番まずい。コミットメントは数字で明示しないと意味がない。この大事なことを、日銀はうっかり失念してしまったのではないか》
 上記3点を総合するとデフレを脱却したというサインを出すことを(日銀は)急いだのではないか。その背景には《経済見通しが下振れたら、もう一度緩和に舵を切ればよいと日銀は思っているようだ》が、そんなことをすると《「迷走」と見られて、信用が失われる》と記者はまとめている。

 この報道をどう読むか。日本では「失われた三十年」と呼ばれる「デフレ」が続いた。欧米の先進各国はこの30年間デフレにも(さほど)陥らずIT(AI)を組み込んで結構な成長を続けてきた。日本だけが取り残され、GDPの総額でもそうだが、一人あたりのGDPをみるともう先進国と言えないほどの為体だといわれて久しい。この苦境を脱したいという気分が日銀の「焦り」になったのであろうか。
 ちょっと裏側へ思いを馳せると、岩田規久男の感懐には、デフレ脱却に関する経済思潮の綱引きが反映されている。これは三派に分かれている。①財政均衡規律派、②リフレ派、③MMT派だ。①は財務省の立場、②が黒田日銀の採っていた道筋、③は、中央銀行が自国通貨の発行権を持つ限り、財政は破綻しないとして、完全雇用と適度なインフレを実現し、そのバランスを図っていくのを良しとする、最新の少数派。
 黒田日銀は2%インフレを目標としていたから、②と③は地続きとも言える。実際、国債の大量買い入れをし、日銀が資金を出して株を買うなどのことをしてきた。②③の連合軍が、目下の日銀を主導していると考えると、わかりやすい。わかりやすいのがいいかどうかには、疑問もあるが・・・。
 財務省が①を採ったことで「失われた*十年」が始まったと言われてきた。それを突破したのが、黒田総裁の任命をした安部政権である。2%のインフレ実現を期待して市場への資金供給をする。他方で安部政権は多額の財政出動を行って景気刺激をするというのが②のリフレ派であった。でもGDPは大きく動きださなかった。ここには、金利や財政では切り抜けられない産業社会の体質も宿っていると見極めなければならないのだが、ここではさておく。
 (3)は、いかにも日本の銀行という雰囲気が出ている。「デフレ懸念が解消するまで」という漠然とした規定で金利政策を動かす「昔の」古い体質を象徴している。《コミットメントは数字で明示しないと意味がない》という岩田の指摘は、アメリカの中央銀行(FRB)のやり方を指す。数値を示してコメントしないと信頼がないというのは、現今の私たち庶民の気分を反映している。直感を数値化して示せば、何だか客観化されたようで、正しく感じる。そんな気分。
 ①の財政均衡を固守する財務省のセンスは、昔日の私たち庶民の気分を残している。私が子どもの頃は、借金をするというのはナニカ罪を犯すような気分を伴った。もちろん日常的には「掛け売り」というのがあり月毎に集金/支払いするということもなかったわけではない。だがそれもおおよそ現金払いになり、堅実とは手元のお金で暮らすことであった。財務省の財政均衡派はその庶民の気分をそのまま引きずっている。
 それがいつの間にやら「月賦」が現れ、「ローン」が普通になり、高度経済成長の頃には「借金しないのはバカだ」とまで言われるようになった。数十%のインフレと賃金値上げが続くこともあった。それを経て後に私たちは、将来収入で暮らすのが当然という感覚に慣れ親しんでいった。つまりこの辺りで、漠然とした期待ではなく、数値化された見通せる将来を算入して現在の暮らしを立てる方向へ私たちのセンスは変わっていったのであった。それを岩田規久男は、FRB(アメリカ連邦準備銀行)の権威を借りて表現している。つまり岩田は、現日銀が②よりも③に傾いていることを(それでいいのか)と懸念し、ま、様子をみてまた必要なら修正すればいいという「迷走」は、「信用が失われる」と言っているのである。
 そう、まさしく私たち庶民は、漠然とであるが「信用できる/できない」と感じとって日銀という金利/景気判断専門家の動きを見ているのである。MMT派のリクツに対しても、WWⅠ後のドイツの、何万倍というハイパーインフレを思い起こしている。果たして金兌換でなくなったとは言え、国際関係に即座に左右される現代、円の信用が失せて紙くずになるんじゃないかと遠い昔を思い浮かべる。いやいや資産があるから大丈夫という声も、それって子や孫に残すべき資産を先取りして食い潰しているのじゃないか。それでいいのかいと疑問符が浮かんでくる。これまた、私たちの「期待」が(先の見えない)国際情勢に振り回されて行くような不安を、取り払えないのである。
 この日銀や財務省やMMT派の遣り取りを少し遠景においてみると、どこへ向かうか行方知れない(何十億人というヒトの)暮らしの活計を、意図的に操作できるような心持ちが経済の専門家たちにあるような気がする。これは、権威主義国家と批評される中国政府の経済運営センスと同じじゃないか。習近平キャプテンの操船する中国経済は、今や日本のデフレ時代の後を追うのではないかと心配されている。舟の揺れ具合をみて庶民の「期待」も揺れ動く。それは投資にも消費にも影響し、とどのつまり生産にも流通にも響いてくる。だから権威主義政府の思うように人心を動かしたいなら、情報を抑制し、政府の「期待」にそぐわない情報は遮断し、排斥する。
 日銀もFRBも内心には同じ衝動をもっているように感じる。ただしそれを実行に移す社会の構造的基盤がないだけ。そう言えばアメリカのトランプ政権は、我が意の通りに社会も統治体制をも動かすべく、政治体制を乗っ取ってきた。政権から外れた今も尚、選挙活動を通じて共和党をトランプ党に切り換えて、外から圧力をかけつづけている。これも民主的政治体制がなければ権威主義国家と同じようになってしまう。いやすでにそれを目指しているからこそ、民主国家の権威の正統性を保証する「選挙」を攻撃対象にして、トランプは活動をしてきた。プーチンの選挙も、今行われているインドの選挙もミャンマーも、トランプ同様に「選挙」にターゲットを絞って、敵対候補の立候補辞退を無効とする工作からはじめて、盤石の統治を志向している。
 「そんなことをしたら世間は信用しなくなる」という「世間」の一点で庶民は(岩田さんという経済専門家にも)存在を認められている。それに立脚して、経済情勢を読み取り、何を信用したらいいか/よくないか/どうだかわからないかを判別/保留して、そうだよワタシたちがポリティカル・エコノミーの「主体」なんだと、我が身の存在を認めてやらねばと思う。もっとも、金利が上がる/下がるが影響するほどの原資をもたない。せいぜい今朝の新聞折り込みのチラシを見て、値上がりした食料品に対応する買い物リストをつくるのですが・・・。

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