mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

独り生きている極限の身体

2024-01-13 07:11:31 | 日記
 言葉じゃないんだ実在は、と注目した田中泯であったが、作家・鈴木正興は第4節「面壁只管打鍵のグレン・グールド」で、転調する。

 あっ、田中の舞台と客席との間の一回的且つ存在論的な交感、何ぞと書いているうちに、だが待てよ、田中の言う「観客の感覚はこれから始まることに開かれている」中の「開かれている」を、逆に演者の方から「閉じて」しまった、更には一縮(いっそ)舞台から去って自ら「閉じ籠もって」他者との一回性行的交感拒否し、一方通行的な記録媒体を通じてしか外界とのコンタクトを持たない奇才にして天才肌の芸術家が一人いるのを忘れてはいけないと却って気が付いた。カナダのピアニスト故グレン・グールドである。原字はGlenn Gould、念のため。彼の場合はどう言おう。
 どんな分野であれ芸術家は究極の何物かを追求してその人なりの存在の仕方、投企の述法を有しているが、音楽家(演奏家)の場合、普通は今さっきまで語ってきた田中と同様に、舞台と客席との一回性的な「場」に置かれるのが習いである。グールドは史上最年少で音楽学校を卒業して後演奏活動に入り、その独自の解釈と卓越した演奏は各地で聴衆を魅了したが、専門家の評価は毀誉褒貶相半ばし、それも絶賛か酷評で振りが激しいものであったという。ところがその後暫くして二十代だか三十代だかの或る時から突然公衆を前にしての演奏活動を罷めてしまい、以後はレコード録音のみの人となった。要するに聴衆と「場」を共有することを能動的に拒否し、録音室という孤塁に籠もってバッハならバッハと対座するだけの道を選んだ。面壁何年にも似た狭い空間に於ける只管打鍵(しかんだけん)とでも称せようか。彼の実存は記録媒体としての音盤に痕跡を残しているのみ。「場」を閉じられてしまった私達は生のグールドに接することは結局できなかった。辛うじてレコードやCDで言わば一方向的に「聞かされる」だけである。ただ私にあっては彼の繰り出すそれこそ孤高の音を進んで「きかされる」ことにぞくっとするほどの愉悦を感じている。とりわけバッハにはぞっこんだ。『平均律クラビア』、組曲、パルティータそして『ゴルドベルク変奏曲』の録音風景を撮ったビデオを見る機会があった。彼の演奏姿態は深く静かにピアノに向かうのとはぜーんぜん反対で酷く奇矯で、なにーこれ! と言った塩梅のものである。宛(あた)かも手長猿かオランウータンさながらに大袈裟に身体をくねらせるは、感に酔ったように天を仰ぐは、空いた手を靡かせるは、吐息と共に背中を反らすは、愛惜(いとお)しげにピアノを抱くように見えるは、剰(あまつさ)え複雑な対位法でも小さく歌いながら奏するはで、本人は自分の世界に浸りきって自然そのような姿態となっちゃっているのだろうが、見ているこちらはその奇矯とも言えるスタイルに慣れるまで少しばかりながら時間がかかったもんだ。演奏後、演奏の具合をツーカーの技師と一緒になって録音の点検をする様はこれがまた打って変わって神経質なまでに尖った耳を以て細部にも逸々にクレイムを付け、ここが気に入らない,これはもちょうっとゆっくり目にすべきだな、この部分は弾き直しだ,何ぞと眉を顰め、実際その部分を弾き直してはまだ納得いかないとみえ再度三度鍵に向かいその数倍録音に齧り付き、言ってしまえば完璧な演奏、完璧な録音に狂句して止まない自己クレイマーぶりは異常と言うほかない。比較的若くして他界した天才音楽家には得てして奇矯な言葉やふるまいでも人の耳目を惹く人間がいるものだが、例えばモーツアルトはまあどちらかと言うと天然の奇矯人であったのに対し、グールドは少しく怪訝な表現を使わせて貰うと、「過哲学性神経症」的な非常人なのだ。神経症についてはその演奏姿態と自己クレイマーぶりから了解できるとして、その前に付随する「過哲学性」とはどういうことか。只管打鍵の人ならば哲学をも空(くう)に帰すべき筈だが,この人は楽譜を通じて世界や宇宙や人間について考えに考え抜いて独自の論立てをして色(しき)界を再構成しつつ音楽を音楽しちゃうという意味でどうにも過哲学的なのである。その過哲学への衝動は抑え難く自分のレコード盤のジャケットに付した楽曲解説まで自分で書かないと気が済まなくなる。因みに『ゴルドベルク変奏曲』のジャケットの一部を転写しておこうか。
「これは始まりも終わりも考えない音楽、如何なるクライマックスをも如何なる解決も持たない音楽、ボードレールの恋人たちの如く『そよ風の翼の上に軽やかに憩う』音楽なのである。従ってこの曲は、直観が感知した調和、技巧と吟味から生まれた調和を持っており、しかもこの調和は,卓説した技術的手腕によって培われたものであり、芸術の領域ではきわめて稀なことであるが、可能性の絶頂に欣喜する無意識的な構想のヴィジョンを通して私たちに啓示されるのである」

 いやこれまた、面倒な展開に持ち込んだものだ。田中泯の身体論かと思えば、今度は神経論である。芸術家・グレングールドが如何程の実在的インパクトを持っているか私にはワカラナイが、鈴木正興はこう記す。《ただ私にあっては彼の繰り出すそれこそ孤高の音を進んで「きかされる」ことにぞくっとするほどの愉悦を感じている》。
 この「ぞくっとする」が、田中泯に感じた「田中にとって身体性とはただ単に身体だけではなく個的存在のありようそのものであるようだ」とどう連接するのだろうか。「開かれている」田中泯と「閉じられている」グレングールドは、屹立する個体としての存在感をもってどう鈴木正興に迫るのであろうか。その存在感を受け止める鈴木正興の感覚感受の微細さに心惹かれる。
 もう一度昨日の、第三節「一回的瞬間に耀く実存」を読み直す。そうか、一つ見落としてはならない一文があった。

《田中は十代の修業時代から今日までの六十年余その時その時の流行や傾向に左右されることなく一貫して一人に拘ってきた》

 この一文に続く「一人で生まれ一人で死んでいく」ヒトの生死のきびしさを見つめる視線の「拘り」こそが、田中泯とグレングールドに相通じることだ。グレングールドのそれを「閉じる」とみるのは、公演の場を持てない聴衆の目だ。創作者としては、たとえば作家もそうだが、たいてい独りである。グールドは創作している自分のオモシロサ(「可能性の絶頂に欣喜する無意識的な構想のヴィジョン」)に拘っていたのかもしれない。それを「過哲学的実在のもたらす」(聴衆との)断裂と悲嘆するのは、彼の音を聞いて彼の「拘り」が体現しているオモシロサを共有したいからにほかならない。
 そこに私は(一転して生活次元に場を移して)、昨日最後に取り上げた松浦武四郎の生きた時代のヒトの日常を重ねて考えている。北海道に何度か足を運び、全国の山を歩き、あるいは往還の旅をするにも、基本徒歩、食糧を調達しつつ野宿をしながら経巡る姿は、想像するだに「独り」である。その独りであることの醸し出すオーラの根源が、現下の社会で私たちが忘れているものだと、鈴木論稿の行間は訴えているように聞こえる。これは山歩きをする者の我田引水であろうか。
「開く」「閉じる」という田中泯とグレングールドの両者にみえる方向性の違いは、創造する場の波動が双方向的にあるのか一方通行的に所在しているのかによる。「開く」田中泯の場合、還ってくる観客とのコミュニケーションが一瞬の場を為して(それが一層創造を高めて)いるという感触を、演舞者・田中泯の胸中に醸している。それに対しグレングールドは、録音室に籠もって(聴衆の声を聴いていないのか、聞こうとしていないのか)「只管打鍵」だというが、ちょうど作家が書斎に籠もって只管面机しているのとおなじと考えると、創作を終えて自身の創作物が外界での売れ行きとか評判を気にするかしないかと似たようなこと。若い頃から独り、丹念に創ってきた田中泯の身体つくりが「閉じ」ていたか「開いて」いたかを問わないのと同じだ。もしその鍛錬過程から応答を必要として大衆的に「開いて」いたら、とうてい目下の田中泯の屹立する佇まいは目にすることができなかったろう。
 情報化大衆時代の現在、その創作作法も、発表演出も大きく変わっている。独りというありようそのものが、芸術商業化時代を錯誤した振る舞いとみなされる。だが、ヒトがここまで辿ってきた径庭の基本を踏まえていると見ると、独りの身体を作り上げていく原点を露わにした姿と、両者を見ることができる。それと同時に、時代批判でもある。
 こう考えてくると、ワタシのへなちょこぶりと、しかしそれが目下のタノシミであることが浮かび上がる。八十爺のワタシは、日々こうしてわが身の無意識を探検することをタノシミにして、死ぬほどの退屈を免れて、この歳にいたっている。
 ところが、ご覧のように、畏友・鈴木正興の論稿に刺激されないと、さて今日のよしなしごとは何だろうと思案し、ネットの記事を眺め、ときどき新聞を読んで記者の姿勢を批判し、やっとの事で綴り方を続けている。これって、「開いて」いるのか「閉じている」いるのか。そう自問すると、「一人で生まれ一人で死んでいく」ほどの覚悟に足を付けているのかどうか、いい加減だなあと思う。
 私は芸術家ではないし芸術を受けとるセンスにも大いに欠ける。田中泯やグレングールドと比べるわけにはいかない。だがワタシは空っぽ、人生は歩くことと見つけたりなどと感じる途上にいて、それなりに「我思う故に我あり」という実在を退屈することなく感じとっている。
 ま、門前の小僧としてはそんなもの。いい加減とかちゃらんぽらんは余白。そう思って、ゆっくり歩を進めている気分なのです。

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