mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

アリガタ・メイワクな存在

2024-01-14 06:22:16 | 日記
 さて田中泯とグレン・グールドという屹立する存在を目にし、その、わが身との差異に於ける「孤高」と「拘り」に喫驚した作家・鈴木正興は、その二人の前に立ち尽くす己の受け止めた衝撃を独特の文体で描き出そうとしている。さあ、どうそれを結論づけるかとワタシは先を読んで急ごうとする。第5節「わかろうとする野暮」が、その出鼻を挫く。

 慥かに或る種断定的の哲学的表現で難解だよなあ。でも何言ってんだかわかろうとする野暮は止した方がいい。だって対象は音楽なれば百文は一聞に如かずだもん。彼の音盤を「聞かされる」のが一番。そこで何かを感じ何かを考えればそれでよい。わかるわかんないはその際どうでもいいことだ。作曲者のバッハでさえ「この若造、小難しいこと抜かしやがって」とソッポ向いていたのに、その若造の演奏を聴かされるに及んで「うん!?」と腕を組んで、「こいつなかなかやりおるわい」と考え直すかも知れないのだ。そういう場面を想像するのを許されてもよいのが実演芸術家の特権かも知れない。『ゴルドベルク変奏曲』、この曲をつくった人もスゲエが、それを実際の音として聞かせてくれるこの演奏家もスゲエ。ようするにスゲエ人はスゲエ。

 申し訳ない。今回は何か途中から自分でも何を言ってんだか分かんないような文章になってしまった。元々その傾向がないではなかったけど、愈々、なんだ、その、アタマもペン先も与太ってきたってこったな。(2023/11/15)

 ははは、見事に肩透かしを食らった。そしていつもの調子、理屈を考えている私のワタシを嗤う。長谷川平蔵に客演する田中泯は、その屹立する佇まいに観るものの畏怖と共感を誘う。そこには統治的正統性の抱く正義性とは別の、社会的というか世間的正義性が宿る。それゆえに鬼の平蔵は世間的に背負った正統性に世間的な正義性を組み込んで、一筋縄ではいかない取り締まりの腕を揮うことになる。つまり世の中は、統治権威的正統性と別の世間的正義性という二重の焦点を軸にして動いているという大きな構造を据え置いて、長谷川平蔵も客演の田中泯も踊るのである。それを観る庶民は、そのアンビヴァレンツな構造がわが身の体感を掬い取っていると感じて、平蔵にも田中泯にも拘りのない共感を覚え、この物語の御贔屓になっていくのである。
 ではグレン・グールドはどうか。この人が独りに閉じ籠もってバッハに興じ、その演奏が自らに跳ね返ってくる音の子細に拘り、解説書きまで自身で認めないではいられない姿に、ヒトが生きることの究極の幸いを感じるのかもしれない。作家。鈴木正興がつねづね、バッハとモーツアルトと都はるみとを同列において肌身に響かせて浸り、エクリチュールについても言葉の運びと音韻と(声に出して読む日本語の)リズムを大切にして、しかも、余白を余すところなく漢字を多々含む文字列で埋め尽くすという表現に技巧を凝らすクセを駆使して、近代文章技法が強調するわかりやすく平明にという新聞協会御推奨の作法に文章の身体性・文体をもって抗いつづけている、その特性が余すところなく繰り出されている。そして最後に、そうしている自分を突き放して、「愈々、なんだ、その、アタマもペン先も与太ってきたってこったな」と韜晦してみせる。彼の存在自体がワタシにとっては、大真面目な「批判」になっているのである。
 文字通りメイワクしている。だから同時に、アリガタイことです。

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