mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

エリートとは鬼になることか

2015-10-16 20:34:37 | 日記

 「エリートはどこへ行った」と先日(10/12)に書いた。そのすぐ後、図書館の「新刊書コーナー」に9月末に刊行されたばかりの『財務省と政治――「最強官庁」の虚像と実像』(中公新書、2015年)があるのが目に止まった。著者は清水真人、日経の政治部、経済部の新聞記者。「最強官庁」という渾名がエリートの実態に触れていると思って読んだ。

 

 《第1章 「無謬神話」の終わり》から書き始めている。つまりエリート性の消失がどのように進んだかと読めば読めなくもない。その発端が、日本新党の細川政権、小沢一郎の自民分割、自社さ政権への推移の過程で、大蔵官僚がどのように翻弄され、政治家の確執と主導権争いが主導官僚への怨念に転嫁されて行ったかも、みてとれる。概要を目次で追うとこうなっている。

 

 第2章 金融危機と大蔵省の「解体」
 第3章 新生・財務省と小泉政治
 第4章 政権交代とねじれの激流
 第5章 アベノミクスとの格闘

 私の思い描く「エリートはどこへ行った」が、いかに概念的に「エリ

ート」をとらえているかが浮き彫りになる。もちろん遠望して、概念的にみてとることも重要でないわけではないが、実態を踏まえてたうえで遠望することをしてみないと、政治家の綱引きの泥をかぶせられて崩れていく「エリート性」を単純に打擲しているに過ぎなくなる。そうなのだ。私などは、けっきょくのところ、卑小な自分の枠の中から世の中を眺めて「エリートはどこへ行った」と慨嘆しているだけなのだ。そう思わせられた本であった。

 

 日本の命運を左右するという「神のような立場」からみれば、官僚だけでなく、竹中平蔵のような政権中枢の企画立案推進を担う学者たちも含めた、いわば日本の知的力量をいかに動員して行くかという課題としてみなければ、動的に「エリート」を俎上にあげることができないと思った。それほどに「官僚」たちは政治の決定力がどのような力関係で動いているかを「読み」ながら、「企画・立案・推進」の「着地点」を見据えて、手順を組み、工程を見通して提起して行っている。そこには、脈々と「根回し」する日本的な決定過程の伝統が脈打っていることもうかがえる。これも身体がそう反応してしまうことで、意識してそうできることではない。

 

 因みに、「エリート」について触れるきっかけを作ってくれたエマニュエル・トッドは、フランスとドイツの「文化」の違いを述べるときに、フランスがカトリック、ドイツがプロテスタントであることを失念している。フランスのエリートが庶民の反発や不満が起こることを当然として、それを組み込んで政策立案を行うという寛容さを持っているのに対して、ドイツは個々人が社会規範を完璧に遂行するべきこととして、市民にもそれを要求するという「文化の傾き」は、じつは、カトリックが蓄積してきた慣習的身体性であったのだが、それをトッドは、ネイションシップの違いのように論じているからである。岡目八目というが、外から見ている方が、案外的を射ているのではないか。

 

 私たちは単純に、自分の今いる立場から、モノゴトを眺め、その本筋というか本質をつかん(だつもり)で、あれこれと価値判断をしている。だが、モノゴトの「現場」にいる人たちは、その「現場」を左右している力関係を、そのときその場の「状況」を読み取って瞬時に判断し、自らの「現在位置」と「目標」との距離と「プロセス」の機微を読み取って対処しているのであろう。それが「エリート性」を持っているかどうかは、のちのちの行き着く先を見て「神のような立場」から裁定を下すのかもしれない。「エリート性」とは(自らの何かを犠牲にして)他の人々のために尽くす「知的・道徳的主導性(ヘゲモニー)」だと、むかしイタリアの言語学者が言っていたように思う。

 

 だが、「現場の状況」の渦中にいる人は、いつ知らず「わがままに」振る舞うものであるから、その「状況」から一歩逸脱してモノゴトを見て取る視点を手に入れなければならない。単なる「人のために尽くす」という道徳的な観念では果たせることではない。一歩、人間であることから抜け出して、ある時は鬼になり、あるときは慈母観音になるという離れ業を見につけなければ、叶うことだとは思えない。慈母観音になるというのは、聞こえもいいが、鬼になるというのは、なかなかできることではない。それと同様に、「論理的」にモノゴトをとらえることも、存外難しいことだと思う。


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