1年前(2022-08-22)の記事「エコロジカルでピュアな希望の源」は、私の希望である。こんなことを書いたこと自体、すっかり忘れていた。健忘症のお陰なのだが、たぶん、これを書いたときにわが身の裡にともった「希望」の灯りは、どこかに染みこんでいると、読み直して思った。ま、繰り返し想起することで染みこませていけってことかもしれませんね。読み返して改めて噛みしめているのは、次の言葉。
でも(ピュアって言ったからといって)著者は決して、モノゴトの純粋な形に目をやって、夾雑物をみていないのではない。/《(人との会話の中で)現代の「不気味さ」について語る。……サルトルの『嘔吐に』……本来隠されていたはずの「存在」そのものが露出する不気味さ。……コレまで常識とされてきた物の見方が崩れていくなか、不気味さに蓋をするのではなく、不気味さを直視していくこと。目眩と酔いの先にこそ、まだみぬ風景が開ける》/と、夾雑物にまみれることを厭わない姿勢を感知しながら、/《……ところがいまや、人間活動を支える環境は決して所与でないことが明らかになってきている。……あらためて自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」、……既存の枠組みが崩れていく酔いと目眩の経験の先に、新たな自己像を描き出していくのだ》/と、わが身と離れずに言葉を紡ぐ心持ちを記している。
この「不気味さ」から目を逸らさず、目眩と酔いの先に新たな自己像を描き出していく志。これこそがワタシの感じている「中動態の世界」だと思っている。プーチンやトランプのありように《本来隠されていた「存在」そのものが露出する「不気味さ」》が、サルトルの言おうとした「不気味さ」と同じとは思えないが、私はそこに踏み込むことを通して、八十路のワタシが積み込んできた「存在」の「不気味さ」と同じものを見いだし、それを克服した《自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」》を紡ぎ出したいと思う。それこそが、ワタシの人類史に対するオツトメと肝に銘じている。言葉は大袈裟ですが、やることは簡単。静かにわが身の裡を眺め、八十路実践人生批判を言葉に起こしていくことです。
やることは簡単なのに、容易に取りかかれない。日々出くわすデキゴトの一つひとつにあれやこれや感じることがあって、それを放っておけない。
どうして?
放っておくとすぐに消えて、忘れてしまう。1年前に書いた記事さえすっかり忘れているんだもの、それほど信用できないワタシと向き合うってのは、手間暇がかかる。ま、それが八十路の特性だ。バカだなあと、つくづく思う。思うけど、この歳でここまで来て、いまさら引き返すって、どこまで戻っていいかもわからない。そもそもどこから間違えてこうなってしまったかもわからない。間違えたかどうかもワカラナイ。
悔やんだりするよりは、そうだよお前、それでいいんだ。それがお前の人生さって、受け容れるってこと。そうちょうど、森田真生が「もりたのーえん」に大量発生する昆虫種(害虫)に向ける目のように、「不気味さ」を我がこととして見つめる。「無無明無無明尽」。尽くすことも、ない。それが人生さって肚をくくる。
あ、それならできる。
でも(ピュアって言ったからといって)著者は決して、モノゴトの純粋な形に目をやって、夾雑物をみていないのではない。/《(人との会話の中で)現代の「不気味さ」について語る。……サルトルの『嘔吐に』……本来隠されていたはずの「存在」そのものが露出する不気味さ。……コレまで常識とされてきた物の見方が崩れていくなか、不気味さに蓋をするのではなく、不気味さを直視していくこと。目眩と酔いの先にこそ、まだみぬ風景が開ける》/と、夾雑物にまみれることを厭わない姿勢を感知しながら、/《……ところがいまや、人間活動を支える環境は決して所与でないことが明らかになってきている。……あらためて自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」、……既存の枠組みが崩れていく酔いと目眩の経験の先に、新たな自己像を描き出していくのだ》/と、わが身と離れずに言葉を紡ぐ心持ちを記している。
この「不気味さ」から目を逸らさず、目眩と酔いの先に新たな自己像を描き出していく志。これこそがワタシの感じている「中動態の世界」だと思っている。プーチンやトランプのありように《本来隠されていた「存在」そのものが露出する「不気味さ」》が、サルトルの言おうとした「不気味さ」と同じとは思えないが、私はそこに踏み込むことを通して、八十路のワタシが積み込んできた「存在」の「不気味さ」と同じものを見いだし、それを克服した《自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」》を紡ぎ出したいと思う。それこそが、ワタシの人類史に対するオツトメと肝に銘じている。言葉は大袈裟ですが、やることは簡単。静かにわが身の裡を眺め、八十路実践人生批判を言葉に起こしていくことです。
やることは簡単なのに、容易に取りかかれない。日々出くわすデキゴトの一つひとつにあれやこれや感じることがあって、それを放っておけない。
どうして?
放っておくとすぐに消えて、忘れてしまう。1年前に書いた記事さえすっかり忘れているんだもの、それほど信用できないワタシと向き合うってのは、手間暇がかかる。ま、それが八十路の特性だ。バカだなあと、つくづく思う。思うけど、この歳でここまで来て、いまさら引き返すって、どこまで戻っていいかもわからない。そもそもどこから間違えてこうなってしまったかもわからない。間違えたかどうかもワカラナイ。
悔やんだりするよりは、そうだよお前、それでいいんだ。それがお前の人生さって、受け容れるってこと。そうちょうど、森田真生が「もりたのーえん」に大量発生する昆虫種(害虫)に向ける目のように、「不気味さ」を我がこととして見つめる。「無無明無無明尽」。尽くすことも、ない。それが人生さって肚をくくる。
あ、それならできる。
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