mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

算勘的実務と政治的振舞い

2015-05-28 08:14:15 | 日記

 昨日の「石田三成の条々」に関して、書き落としたことがあった。ずいぶん以前から私が抱いていた石田三成像とじつは一致しているのだが、岩井三四二の「条々報道」読むと、計数に明るい、算勘的実務家というイメージが出来上がってくる。算勘というのは、算盤勘定を指している。岩井はそれに加えて、人の心情の細々としたうつろいに無関心な三成像を提示する。

 

 前者は、太閤検地のやり方に力を発揮し、短期間に秀吉の影響の及ぶ地域の検地実施を推進する。それは、その地を支配する大名にとっても、自らの支配地域を生産高の側面から計数的にとらえる座標軸を提供してもいる。米を計量する升の統一をふくめて、太閤検地の計数的表現を用いれば、全国どこの地も「生産高」で比べる限り同じという「近代的舞台」を大名たちに提供することになる。三成は自らの所領の、農民たちの暮らしに気を配りながら、支配するものとしての矜持を保っている。

 

 その三成の近代的関係感覚は、伝統的に尊大な大名感覚と恣意的な気分と思いつきで政治を左右する、家康や前田や毛利ら五大老たちの「統治」センスといちいちぶつかる。五大老たちからみると、わずか20万石の奉行(小大名)が太閤の寵愛を利用して尊大・恣意的に振る舞っているとみる。彼らの多くは、戦で勝ち抜いてきた権謀術数の猛者たちであるから、三成の計数的な実務能力が力を発揮する状況が理解できない。とどのつまり、自分と同じ甲羅に合わせた「穴」のなかで三成をとらえようとするから、「三成の恣意」に思いを致す。それが疑心暗鬼を生む。家康は権謀術数を隠さないから、「同じ穴の狢」。三成の「近代的計数実務」は理解できない。大老の恣意を許さないという意味では、奉行という立場をわきまえない専横にみえる。関ヶ原の「模様見」はその現れであり、「裏切り」はその結果である。大老たち大大名と逆に(権謀術数に翻弄される)小大名は、「近代的関係感覚」で取り仕切る奉行・三成を「公正な方」と受け止める。

 

 岩井の描く「三成の不思議」は、大老たちの思い抱く「心情」と交錯することのなかった三成の心裡を取り出してみようとしているようである。三成の計数的実務性は、秀吉という後ろ盾にロジスティックを預けることによって成り立っていたという設定は、思えば現代、経済的関係が成立しているベースに社会文化と政治的関係が脈打っていることにつながる。そういう問題意識は、私たち自身の日ごろの価値判断が、三成的か家康的かと問う辺縁へと導く。その明快な答えの無さが不安であり、小大名の受け止め方が近代への希望をもたらしているという意味で、安心できるのかもしれない。


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