mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

1630年のジャーナリスト

2015-05-27 20:48:11 | 日記

 岩井三四二『三成の不思議なる条々』(光文社、2015年)を読む。妙な読後感を残す。

 

 江戸の筆紙商いをしている町人がある依頼主の頼みを受けて、関ヶ原の合戦における「石田三成の条々」を、現場に居合わせた方々に訪ねて聞き歩いたまとめがきという体裁。合戦から30年も経ってという設定。なぜそうするのかは、物語りの動機づけであって、主題ではない。

 

 見る位置によって見えてくるものが違う。そこに登場する人間も、また違って見える。石田三成というわずか20万石の小大名がなぜ250万石の家康に対抗して、西軍の指揮をとり動かすことができたのか。「道理」はどちらにあったか。「裏切り」の真相、「大義名分」の実相、その人となりと、聞き語りの中で浮かび上がってくる。それは語り手の人生観を浮き彫りにしていく。「藪の中」のようにみえながら、じつは、関係的に関ヶ原をとらえようとしているのかと思わせる。

 

 30年も経ってみて、公に口にするのははばかられるが、みえてくることもある。作者自身が筆紙商いをする町人に成りすまして「取材」したことを「語り口調」に乗せて、「これはフィクションですので」と断りながら自在に展開している風情である。そうしてその口調の端々に、人生の、瞬間瞬間に人が選び取ったアクションが、一人ひとりの生き死にと利害が依拠する「かんけい」て展開していることを証だてる。そして、それを遠景に視座をひいてみつめてみると、価値的にはどうでもいいことになっていく音色を湛えている。

 

 同時に、恩義に報いる「作法」が基本だぞと一本の筋を貫くことによって、読者にある種の安心感を与えている、と思えた。どうしてこれが、妙な読後感をもたらしたのだろうか。最後の場面を読み終わるまでは、落ち着き先がみえないからだったのだろうか。とすると私は、読み終わって「ある種の安心感」を得ることによって、自らの小市民性にアイデンティティを感じているのだろうか。それとも、「落ち着かない気分」のなかに、「かんけい」的にモノゴトをとらえる天の啓示のようなものを感じていたのだろうか。

 

 江戸の時代にジャーナリストがいたら、きっとこのような企画ものをものしたであろうなあと、すっかり変わった世界に身を置いて面白がっている読者でした。


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