mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

情報化時代の実在の承認

2024-03-26 09:33:14 | 日記
 昨日「いつだって転形期だったじゃないか」と書いたものですから、書架にあった『転形期の世界』(PHP新書、2021年)が目に止まりました。「パンデミックの後のビジョン」と副題が付けられています。この出版社の雑誌「VOICE」に連載された各界著名人の文書や対談を収録した本です。
 その中の森田真生の『「弱さの自覚」が開く生態学的紐帯』が、ちょうどワタシの心持ちに同期しているように感じました。
 森田は『人の発言を反復する「リツイート」は実際、かなり危険な行為なのだ』と記し、情報の急速度の拡散をウイルスの感染になぞらえて取り上げて「人の言葉を安易に反復する前に、自分の言葉を探す迷いと逡巡を挟(さしはさ)む習慣をつけていく」大切さへと思いを深めています。行間に漂う、静かな、柔らかい世界との触れ様は、人の存在を自然の水と大地の中から立ち上げて考えている、慥かな愛おしさと慈しみを感じます。そんな心持ちを私がしかと覚えたのは還暦に近くなってからではなかったろうか。この方は、若いのに凄いなあ。
 ちょうどⅠ年前(2023-03-25)に「seminarの心意気」と題した当ブログの記事で、傘寿の年寄りがこの世に残す言葉を探している姿に私は触れています。

《この世の中の当事者としての私たち庶民は、日常の立ち居振る舞いの中で良きものを残し、善きことへ向かうように日々の一挙手一投足を、誰にということではなく、身近な人たちとの関係に取り込んでいくことしかできません》

 と非力をベースに据え、「ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こす」というバタフライ効果を信じていると述べています。この存在へのささやかな肯定が「当事者」の軸なんですね。
 森田は腸内バクテリアもミトコンドリアも、ワタシが依存している無数のものたちとみる。COVID-19のウイルスにさえも、蝶の羽ばたき的に言えば、依存していると思っているような感触があります。これはありとある生命体史、ありとある人類史を受け継いで今ここにあるという原点に立つ意識を呼び覚ます。それを「弱さの自覚」と名付けています。つまり森田は、存在の元気がすべての宇宙の、地球の、生命体の、ヒトの、滅びていったものさえも含めたコトゴトを受け継いで来ている哲学的な起点から、生きている「紐帯」を感じとっています。
 「リツイート」に危険をみる彼は、情報をも、その原点においてとらえてこそ、単なる引用者ではなく、羽ばたきの伝わりとしてテキサスの竜巻に受け継いでいけると言っているのではないか。こうも言えましょうか。
 あるツイートは、誰かの羽ばたきの感知です。それはツイート発信者の実在の承認を求める通信。つまり、命、魂の呟き、ときに叫び、コミュニケーションです。ところがそれを、そのままにリツイートするのは単なる電気信号的伝わりにはなるが、命、魂が欠け落ちる。羽ばたきのもつ「存在の肯定」が欠け落ちてしまう。記号、信号の表示、伝達ではあるが、人が人に伝えるコミュニケーションにはならない。
 つまりコミュニケーションは送り手と受け手という、人と人との存在の相互承認です。にもかかわらず、リツイート的な情報伝播はもっとも肝腎な発言者の「実在」を抜きにしてしまう。現代の人びとはあたかもそれを客観的なコミュニケーションの広まりと錯覚しているのかもしれない。電気信号的なリツイートは、こういってる人がいるよ、こんな人もいるよと「情報事実」をあたかも客観的な事実として広めることです。ツイートは実在の発信・表示です。いつ、誰が、誰に何に向けて、なぜそういう実在を示しているかは受け手の心中に、あなたも当事者ですよと応答の責任性を生ぜしめます。そうしてこそ、コミュニケーションとなり、意味のある情報となる。
 ところがリツイートする介在者は、発信者の実在を消去してしまう。コミュニケーションが成立しない。「情報」はその伝達主体の実在が感じられるとき、受け手にも応答が求められているという感触を伴って受けとられる。リスポンサビリティが成立する。応答の責任性が伴われていてこそのコミュニケーションなのである。
 森田が言う「危険」とは、リツイートがもたらす人の実在性の喪失であり、ヒトが情報の大海に投げ出されて自らの実在性を感知しなくなっている証しです。森田が言う「開く」とは、己の実在を(世界に向けて)開くこと。その起点が「弱さの自覚」、つまり諸々のモノに依存してしか生きていけないワタシの自覚が、世界のすべてに対してワタシを開いていることを意味しています。
 情報化社会と言われる今の時代、人類はスマホ大陸に暮らしているとミドル世代のヒトから謂われるような時代に、実在の慥かさをつかめない人たちが自らの不安をどこかに預けようと、群れ、騒ぎ、ときに鬱憤を晴らすように攻撃的に他の実在するヒトを排撃し、消去しようとしています。まずはヒトとしての原点に立つこと。そこに足を付けることから出直してみようではないか。そう森田は呼びかけていると、ワタシは受けとっています。

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