mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ハイ、ワンコ」のホーム・パーティ

2016-05-02 19:15:50 | 日記
 
 Kさん宅でホーム・パーティがあった。招かれたわけではあるが、私はホスト側に名を連ねているというちょっと妙な立場。というのも、2月に奥日光のスノーシュー・ハイキングをした方々。私がプランを建て案内する直前になって痛風を発症してしまったために、Kさんに丸投げしてガイドしてもらった。そのときにKさんが「蕎麦打ち体験」を約束して、ホーム・パーティとなった。つまり私にとってはガイドするべきであった人たちにお詫びする会であった。
 
 私の元同僚Hくんが、Kさんと相談して、このホーム・パーティの企画をつくった。そのHくんご夫婦と10か月になる娘さん。30歳代のHくんの日本人同僚二人、やはり同僚の外国人の男女4人。アメリカ人二人、イギリス人とオーストラリア人が一人ずつ、全員20歳代だ。合計9人がお客さん。Kさんと奥様はもっぱら裏方の面倒を見て下さった。Kさん宅は庭のある一戸建て。職人気質のKさんらしく、端正なたたずまい。余計なものを置いていない。ひとつひとつにKさん手作りの味わいがこもる飾り付けが、彼の暖かい人柄と、メリハリのついた立ち居振る舞いの輪郭の鮮やかさをあらわしている。
 
 Kさんは蕎麦の一部をすでに打ち終わって、客人たちが来てから、彼らに蕎麦づくりの過程を体験してもらおうと準備をしている。私は彼にいわれて、そばと一緒に飲むお酒と焼酎を用意していった。Hくんはやってくるとすぐに厨房に入って、てんぷらを揚げる。学生のころから料理に関してはなかなかの達人であったからか手際がいい。それをみてとると、Kさんの奥様は全部任せっきりにして、そのバックアップに徹している。カボチャやナス、マイタケやシイタケ、サヤインゲンをあげる。ついで、イカ、カジキマグロ、タラも揚げる。それを塩で食べることをすすめる。外国人は大喜びだ。彼らのおしゃべりを聴いていると、ふだんHくんがどれほど細かく気づかいしてお付き合いしているかを彷彿とさせる。
 
 Hくんは間合いを見ては、厨房を出て、彼の同僚たちにKさんや私を紹介する。エピソードを付け加えて、後を引き継いで私たちが話を切り出すほぐちをつけている。こういうもてなしの仕方は、彼が自前の劇団をもって、もう20年近くも運営していることに関係している。人の動きとその後の展開とが視野におかれて、火をつけて回るわけだ。動的平衡というか、人とのかんけいが次の関係をつくるHくん流の作法をみせてくれる。
 
 Kさんの蕎麦打ちは玄人はだしである。敬老の日にはご近所のお年寄りに蕎麦を振る舞う行事を取り仕切っている。外国人には、まずは蕎麦切りから手を付けてもらう。はじめKさんがやってみせ、包丁を持って交代する。平たく延べて重ねた蕎麦の上に当てた切り板に沿わせて包丁を降ろす。降ろしたところで、包丁の背を少し傾けて、切り板をちょっとずらし、そこへ刃をあてて切り下す。細い蕎麦切りをするには、そのようにして切り幅を調整する。その刃の背の傾きがなかなかうまく取れないから、切り幅が広くなり、「それじゃきし麺だ」と声が上がる。ワイワイ言いながら、切り手が交代して切りすすむ。片方で、粉を混ぜ合わせ水を少しずつ加えて、粉全体に水を回す作業が行われる。これは日本人の若手が取りかかる。なかなか手際が良い。しっとりしてくるとやがてダマになり、ダマが大きくなってくると、コネに回る。さすがにコネはKさんがやる。それを板の延べて平たくする。麺棒に巻き付けて押し付けながら回していくのが、要領をつかむのにムツカシイらしい。外国人は力が入らない。Kさんがやると、いつのまにか四角になっているのに、ほかの人がやると凸凹して形状が一定にならない。それをKさんが修正しながら、ほんとうに平たくする。日本人の若手は、蕎麦切りもなかなか上手であった。それをみていると、職人気質というのは案外天性のセンスなのかもしれない、と思う。
 
 蕎麦は、おいしかった。「こんなの食べると、コンビニのやつは食べられないね」と若手。お世辞ではない。私が打ってもこれほどの腰と味わいは得られない。やはり私の蕎麦打ちの師匠・Kさんだけのことはある。外国人には、そばを食べる伝統的な作法を話す。そばを注文して、それが打ちあがるまでの間酒を飲んで待つ、音を立てて食べるのがおいしいと伝える食べ方、天ぷらをいただき、食後に蕎麦湯を頂戴することなどを伝えるが、最初のお酒を頂戴してあとのことは、気分がよくなって、雲散霧消。作法などはどうでもよい、にぎやかにおしゃべりしながら、KさんやHくんの立ち居振る舞いをふくめた「日本文化」を堪能して、気がつくと5時間を過ごしていた。
 
 Kさんは英語をしゃべるわけではない。だが、彼の毅然として静謐なたたずまいと職人的な身のこなしは、そば打ちにせよ、写真にせよ、玄人はだしといってもいいほどの水準をもっているとみてとれる。その彼が、若手日本人のときどき挟む言葉に介在されて、ほとんど不自由なく外国人と言葉を交わしている。つまり言葉以外の、ボディランゲージというか、立ち居振る舞いのコミュニケーションが十分文化を伝える役を果たしている。
 
 そうそう、途中で、Kさんのお孫さんがちょっと顔を出した。小学2年生になる兄孫は、「ハロー」とあいさつし、外国人が「Nice to meet you.」とあいさつすると、パッと「ナイス・トゥ・ミーツ・ユー」と返した。その発音は、なかなかのもの。「英語をやってるの?」ときくと、「いいや、やってない」という。こどもは、耳がいいのだ。外国人の発音を耳で聞いて、すぐに返すことができるほど、聞き取りができる。だから後で柏餅をおばあちゃんから受け取って皆さんにわたすとき、外国人には「ハイ、ワンコ」「ハイ、ワンコ」と言っていたのに、私に渡すときには「はい、一個」といって、何を言っていたかがわかった。ワン個は、英語だったのだ。
 
  文化というのは、こうやって交わり、緩やかに混淆して同調空間を広げていくものなのだ。日本も、なかなか面白い時代を迎えているのかもしれない。

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