mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

家族って何って考えはじめて

2024-02-20 06:52:43 | 日記
 社会学者・高橋幸のイギリスと日本の家族を比較する論稿「生活の充実感をもたらすのは何か」に、オモシロイ指摘があった。イギリスは「相互独立的自己観」(いわゆる個人主義)があって、日本の協調的自己観と異なる。イギリスの場合、「私たち家族」という輪郭を明瞭にし、家族の所属観を定期的に喚起する家族ぐるみのホームパーティを定期的に行う。高橋の行った面談調査でも、イギリスの家族持ち女性の4人のうち3人はホームパーティを行ったと答えているのに対して日本の家族持ちの女性は4人とも行ったことがないと回答している。
 個人主義というと、日本の場合、戦後自由が行きすぎて個人主義になったと言われたり、韓国人がみた日本文化の気質として「日本は畳一枚を一人分とするという(空間を分割する)ことまで個人主義が徹底している(それに比して韓国は場を切り分けることなく人は仲良く共有する)」といわれてきた。ここでいう「個人主義」は自己中心的気性をさしている。イギリスでいう個人主義は社会的自律を意味する(自由と規律の関係として岡潔だったかを引用してよく論ぜられていた)。人の気性ではなく社会関係に於ける個別性の屹立を受け容れる動態的社会的共通感覚を意味している。つまり、イギリスにおいては、個々人の自律というにとどまらず、その自律がもたらす差異をすりあわせて社会的関係の維持を保つための手立てとして、ホームパーティなどを開いて来た社会習慣があったと推察することができる。日本の「個人主義」の場合は、一人一人の勝手気まま(な気性)を意味して、それらを社会関係に位置づけて動態的に見て取ることをしていない。じゃあ社会関係はみていなかったかというとそうではなく、集団への帰属と規範への従順とを要求する外的圧力と考えてきた節がある。
 一般的に集団への所属感を持つことは、個人の自尊感情を高め、アイデンティティの確立をもたらし、生活充実感を高めることがわかっていると、大塚久という(たぶん)学者が論文を書いているらしい。これは高橋幸の引用から推察したことであるけれども、たぶん、個人の社会的規範への規律判断が人の内側でなされているのがイギリスの個人主義、外側でなされるのが集団への所属感と(大塚久は)言っているのではないか。日本人は(個体の裡側は)「空」なのである。
 えっ、じゃあ一人一人の規律はどう育てられるの? と思うかも知れない。かつては育てるのではなく「個体は空」なのだから、身を置く場へ帰属する/集団の習俗に馴染む/郷に入っては郷に従え、というのが日本人の「規律」であった。
 明治維新の頃日本を訪れた欧米人が記しているが、「日本では子どもをほんとうに可愛がって自由奔放に放っている。にもかかわらず世に送り出され、働くようになるときっちり世の中に馴染んで暮らしていくようになる。これはすばらしい」と賞賛している。これは実は「個人は空っぽ」という自然感覚が身の奥にまで染み付いているからである。
 この西欧人の驚きは、子どもを(未開の)小さなヒトとみて(動物を躾けるように有無を言わせず)厳しくしつけるしかないと考えて来たのに対して、日本ではほんとうに気儘奔放に放ってあるだけなのに、どうして成人すると社会的規律を守るようになるのかワカラナイ不思議を感じた表現と言えるであろう。日本の社会に於けるその社会習慣は逆に、どうしても社会規範に馴染まない個体に対しては排斥する村八分へと向かう。
 日本は地域共同体や職場の人間原関係の論理が緩やかに浸透した家族関係のなかで「相互協調的自己」を確立していくことが文化的規範になっている。それに対しイギリスでは、「家族という単位」を個人に意識させるような慣習やイベントの数を数多くもうける。個体と社会との関係を常に意識の軸において、日常的に(人との関係を)気に掛け合う関係が無意識の染み付いている差異が、やっと21世紀になっていろいろなことに露わになってきたのであろう。
 つまり日本では、個体を包み込んでいた共同体性が大きく列島全体に広がり、国境に突き当たってついに、日本という国家性以外の社会性の拠り所を失ってしまって、蒸発してしまったと言える。家族と国家の間のコミュニティという保護膜がなくなったというのは、実は「空っぽのワタシ」を包んでいた社会関係がなくなったことを意味する。そこには商品経済的な(資本家社会的)関係だけが取り結ぶ関係だけが現れる。そこではヒトも需要=消費者/商品=供給という抽象記号に置き換わり、ヒトとしての実存の確証は失われてしまう。
 さて、ここまで考えてきて、ワタシはどうしたものだろうと立ち止まってしまった。どちらの方向へ向かって歩いていいのか、ワカラナイ。
「ワタシは空っぽ」と、つい先だって終わったお遍路の最後に実感してうれしく感じたからだ。自然と一体になった身の感触が、ワタシの実存を全部承認しているように思われるからだ。これは、空っぽである実感があるからこそ、何でも受け容れることがでることに通じる。ワタシ自身は何一つ判断基準をもっていない。ことごとく中動態だ。
 では、起きるデキゴトに何も判断を下さないかというと、そうではない。好ましいこと嫌なこと、危険と思うこと、暖かく受け容れることという選好・嗜好は、わりと鮮明に無意識に沈んでいる。ヒトの言説に対してそれは違うだろうと思ったり、そこは考えている次元が異なるなと考えたりする思考も、きちんと働いている。つまり判断は心身一如の「しこう(嗜好・思考・志向)」として無意識にも繰り出されている。だが「空っぽ」というのになんだそれは。出遭うひとつひとつの事象ごとに下される判断の根拠は何か。何をもってワタシは判断を下しているのであろうか。とりあえずは、それを意識することしか、打つ手はない。

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