mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

秩父槍ヶ岳――至福の滑落(3)

2021-05-22 07:40:02 | 日記

4,動けなくなる

 ザイルを首に巻いて、沢を下っていった。沢の下方を、サイトーさんが下って行くのを追っているが、速さが極端に落ちていることにも気づいていない。沢の末端まで(30分ほどで行けるところを)1時間以上もかかっていたろうか。5時に近かった(と思う)。途中、一度転び、沢水に靴をつけてしまった。
 沢の末端に到着した。下方に、下山口の川原が見える。直線距離にして200mほどか。でも、沢の末端は、滝になっている。ザイルをザックにしまい、左の稜線に上り、その向こうへ下ろうと急斜面の草付きを上り、トラバースした。
 そのとき、おっ、と思った。バランスが悪い。一度は、滑り落ちそうになり、おいおい、こんなところで滑ったら、滝の方まで落ちてしまうぞと思っていた。稜線に上り、後続するサイトーさんがトラバースするのをザイルで確保しようと取り出したが、ザイルを解くことが出来ない。手指が利かない。
 気付くと、サイトーさんはすでに私の上部を上っていた。そして、
「そちら、危ないから、こちらに来てくださあい」
 と声を掛けてくれている。もう一度ザイルをザックにしまおうとしたら、ザイルがどこへ行ったかわからない。視力も落ちていたのかもしれない。つかんでいたストックもどこかで失くしてしまった。
 バランスが悪く体がふらつく。上へ登ろうとライトを出して点灯したのに、手からこぼれ落ちて、急傾斜の草付きを落ちて行った。
 登ろうとして、力が入らないことにも気づいた。
「もっと上へ来なさい」
 と声をサイトーさんに掛けられ、這う這うの体でそこまで上った。
「もっと、上、うしろ」
 と細かく指示してくれたのが、鮮明に記憶に残っている。
 寒くなるぞと思ったので、ウィンドブレーカをつけ、ザックから雨具を出して重ねて着た。
「救助要請をしてください」
 と、サイトーさんにお願いした。

5,救助される

 時間の記憶ははほとんどない。
 サイトーさんが警察とやり取りしている声が聞こえる。時々地点の目安に口を挟んだ覚えがあるから、意識はしっかりしていた。警察が、GPSをみて緯度経度を言えと催促している声が聞こえる。ymapなら分かると思って、スマホを取り出したが、操作がまったくできない。
 沢の対岸の、同じ標高くらいの道路に車の灯りがいくつも見えた。赤色灯もあったから、警察車両だ。サイトーさんもランプをつけて位置を知らせる。警察は、スマホをきらずにしてというが、電池がなくなると困るなあとサイトーさんが呟いている。私のスマホもあるしザックに充電池もあると思ったが、口にすることが出来ない。
 カメラを入れたサイドバッグに山梨県警からもらったペン型の笛付き電池があったことを思い出した。取り出してサイトーさんに渡す。それを振っていると、「位置を確認した」と警察無線が叫んでいるのが、サイトーさんのスマホから聞こえる。沢の対岸からのアプローチは難しかったようだ。
 下山地の川原の方から来た警察の救助隊が、私たちのところにやって来た。
 私たちの様子を聞く。
「歩けるか」
「はい」。
 サイトーさんとのやりとりがキリキリと聞こえる。私には、体調とか年齢とか(何を聞かれたか忘れてしまったが)声を掛けてきて、もちろん返答をしている。私の気配をみているようであった。
 救急車の音も聞こえてきた。警察と消防の山岳救助隊と位置確認、何処で合流するかなどのやりとりが、私を運び出す手順を打ち合わせている。
 まず稜線の上へ移動して、消防隊と合流することにしたようだ。
 歩けないとみた私を背負って登りはじめた。
 背負うとき、ザックも肩から降ろしたサイドバッグも救助隊が持ってくれた。
「なんだエイト環ももってるじゃないか」という声が聞こえた。後でみるとサイドバッグがない。黒っぽいものだったから、ザイルワークややりとりに紛れて現場に忘れてきたのだろうと思っていた。
 だが10日も経って、それを思い出し、病院から荷を持ち帰ったカミサンに聞くと、サイドバッグありますよ、カメラも、と返信があった。良かった。これで、家に帰れば通過時刻がある程度わかる(と思っていたが、先述の通り、シャッターも押さないほど夢中になっていた)。
 最初のワンピッチ、亀が背中に親亀を乗せたように這いながら急斜面。ひとピッチで交代、少し緩やかになった斜面を、木を除け、岩を回り込んで上っていく。
 合流地点で消防とも交代した。その後また、警察の救助隊員に代わるというふうに、上手に連携していたようだ。何ピッチかで緩やかなトラバースに入り、だが滑り落ちそうで、他の隊員が下で私の尻を支え、サポートに入っていた。背負っている方の確保もあって、移動しながら次へとプルージックを架け替える隊員もいた。
 最後のところは、ザイルを持たずに、背負って降りて行った。川床に降り立ち、川原を歩き、流れを徒渉して救急車のところに着いたのであった。
 救急車のところで収容され、。同行者も同乗して病院へ向かった。

6,救急車の中でのこと。
 
 救急車の中で「どうしてこうなった」と問われた。
 私は下山ルートを説明しようとしたことを憶えている。
「そうじゃない。どうして?」とくり返されて、ああ見当違いのことを応えているんだと思っただけ。そのときは、滑落したことをほぼ忘れていたと、あとで思った。ぼーっとしていたんだね。
 1時間半かかると聞いていた病院へ少し早く着いたと言っていたが、すでに日付が変わっていたのではないか。
 怪我と打撲の手当てをし、レントゲン、MRI、CTをとり、私はすっかり身を任せていた。痛みも苦しさも、ない。それほどのけがをしていたとは、あとで聞くまで思いもしなかった。
 午前4時ころに処置が終わったように思う。病室へ行くことになり、サイトーさんは親鼻の駅で始発を待つと言って、病院を出て行った。

7,その後のこと

 サイトーさんがいてくれなかったら、たぶん私は、救助してもらうことが出来なかったと、いまも思っている。しかもサイトーさんは、家のカミサンさんにも連絡を取って、事態を話し、事後の長い入院の端緒を拓いてくれ、ずいぶん助かった。
 また、後日だが、山中に放置しておいた私の車と自転車を回収するのに、ミチコさん、リョウイチさんが動いてくれた。いま車は、病院の駐車場で私の回復を待っている。
 これからのことは、まだわからない。でも、この至福の滑落で、私の山歩きは、フィナーレを迎えたことは間違いない、と感じている。
 まさに、天にも昇る気持ちであったのに、昇り損ねた、というところか。
 いや、変な言い方ですが、ハッピーエンドだったとさえ思っているのです。


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