mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

儒教的、あまりに儒教的な

2024-08-04 09:00:28 | 日記
 TVは、ひとつの局を除いて、どこをつけてもオリンピックの競技をやっている。こちらは食事をしながら観ているから、ま、野次馬よりももっとクールというか、第三者。へえ、こんな風にアスリートは競り合っているんだと面白がっている。スケボーとかアクロバティックな自転車乗りなどは、どこが良いのか悪いのか知らないから(雑技団の演技を観るのと違って競技としては)面白くもなんともない。だが、球技や格闘技は競り合う点数が目に見えるから、おっ、おっ、どうなるか、えっ、こうなるのか、と現場に居合わせるような臨場感を味わったりしている。
 そういえば、ニュースで女子柔道の阿部詩選手が二回戦で負けて号泣した様子も流れていた。そうか、それほどに重圧であったかとおもっていたら、何日か経って、東国原という元政治家が「アレは如何なものか」といったらしい。相手選手へのリスペクトがなくて「みっともない」という趣旨と見出しだけで読んでいる。するとまた別の米山という国会議員が「それは、如何なものか」と東国原を非難したと報道された。
 ははは、バカだなあ、二人とも。元現の政治家風情が庶民のスポーツに口出しをして喋喋するのは「如何なものかってもんだよ」と全くの外野から嗤っていた。
 すると昨日(8/3)だったか、どなたかがどこかで「お茶の間でクーラーを掛けながらいう台詞じゃないよ」と元現政治家風情の遣り取りを揶揄っているのを観た。そうそう、もちろんそれが、どういう趣旨でどんなタイミングで発せられた言葉なのかは、全く感知していない。
 何しろ近頃は、オリンピックの報道もそうだし、それに関するコメントもみな、切れ切れの断片ばかり。それも見出しだけとか、キャッチフレーズだけが目に止まって、うん、それで十分という心持ちで眺めているだけだから、ワタシの身のうちの関心も、断片だらけ。世界が皆、切れ切れになっている。
 えっ? 分断って、そういうことだったの? 
 知らなかったなあ。そうか、子細に及ばないというか、踏み込まない。そこまで関心の及ぶ範囲は広くない。そうなってきたってことか。「政治家風情」なんて馬鹿にした言い方と受けとった人もいるに違いない。そう受けとられて気分を害されたらごめんなさい、っていわないよ、わたしゃあ。
 そりゃあ、わたしゃあ、元も現も含めて、政治家を馬鹿にしてますよ。わしら庶民とは違うんだよ。お前さんたちは。偉そうにお説教するんじゃないよ。まして、「如何なものか」なんて、世間一般に同意を求めて問いかけるようなこじゃれた言い方をして、腰を低くして高飛車にモノを言うんじゃないよ。
 号泣が相手選手へのリスペクトを害してるって? 何だよ、そういう言葉が阿部詩選手というアスリートへのリスペクトを片鱗も持ってないじゃないか。元も現も、政治家っていうのは、相変わらずエリート、「お上」なんだね。
 オリンピックを持ち上げるわけじゃないが、日頃あまり目に付かない競技は、それこそお披露目のチャンス。しかも世界のあちらこちらから、毎日必死に研鑽を積んでいるアスリートが技と力を競う。たぶん、人が発揮できる能力の最先端にいる人たちだから、その技や力の差もほんの僅か。ちょっとした加減で勝ち負けにつながる。3年前とその後の世界大会のそれで最強と言われていても、そこはそれ、運不運も絡んで絶対王者が負けることだってある。そうやって観ていると、負けて舞台を降り、号泣するってこともあるわなと、市井の八十路老爺はおもっている。
 相手へのリスペクト? それは、柔道の場合、戦って畳を降りたところに結界があって、コーチにすがって抑えきれない感情が爆発したんだなあ、と当人がどう思っているかも知らず、勝手に推測している。
 ふとカミサンが、そのことに触れた。号泣した選手がうらやましい。これまでのワタシは我慢することを自らに躾けてきた。みっともないって、世の人たちに映る姿をわが身に戻して、振る舞うことを心がけなければならなかった。それを、ああいうふうに泣きはらすって、ウラヤマシイ。
 そうだねえ、その言葉を聞いて、阿部詩選手が号泣したことは、何だったんだろうと、考えるのも大切かなとおもった。彼女は、「オリンピック連覇」と期待されていた。あるいは「兄妹で連覇」とも煽られていた。兄妹は、全くの日本的なメディアのつくりごと。視聴者の勝手な思い込みであって、兄弟姉妹ってそうであるといいなあって、全く別件の期待に過ぎない。しかしアスリートは、「日本代表」って冠を被された途端、それに応えなければならない重責を背負う。もちろん個人競技であるから、そんなこと知らんわといえばそれで済むことなのだが、ここは欧米ではない。本人が口にすることは御法度だ。
 阿部詩選手が、その重責に応えられなくて号泣したかどうかは別として、私には、彼女の大泣きの涙が、そこまで背負い/背負わされていた「重圧」を洗い落としていくように聞こえた。いいなあと、闘いに敗れたわが孫の姿をみているように感じていた。
 そうおもうと、八十爺は、東国原や米山という元現政治家の「如何なものか」という遣り取りは、私より古い世代の儒教的な、あまりに儒教的な心根から出てきた言葉のようにおもえる。リスペクトとか相手に対する尊敬とか、「礼節」を説く人たちは、自らの立ち位置を省みず、「みっともない」と振る舞いの美しさを求める。それは(今、この場合)アスリートに、競技とは別の、「みっともない」と口にする人の好みに合わせた服装を着せようとしている。
 柔道が礼節の道であるなどと気取って言う人もそうだ。もしそう考えるなら、オリンピックになんて出なくても良い、柔らの道をひたすら歩くので十分、そう安倍詩選手にもいってやればいい。礼節の道に兄妹連覇なんて言葉が登場する余地なんてあるだろうか。
 そう考えると、元現政治家を含めたメディアを取り仕切っている世の偉い人びとは、自分の発する言葉がどれほどに生き物として、人間が大地に足をつけているかどうか。それを良く吟味して、言葉にしてもらいたいとおもう。
 と同時に、ひとつだけ八十爺の心根をお伝えしておきたい。
 この歳になって、世の中のありとある事象を、へえ、そんなこともあるんだと、受け入れるようになった。ひどいことも、おもわぬデキゴトも、人びとの反応も、へえ、そうなんだ。ヒトってそうなんだ。世の中ってそうなんだと、何でも受け入れる。もちろん、腑に落ちないことも多々ある。でも、腑に落ちないのはワタシの身の裡のこと。その事象のことではないと、まず受け止めて、保留することもあるし、中途までわかるけど、その先はわかんないねえと、思いを中断することもある。そうして、それが世の中ってもんよと、とりあえずの私流「仮説」を取り出しておく。歳をとるってのが悪くないとおもうのは、こういうとき。
 他人は「お前さんも丸くなったねえ」と揶揄う。だが、ワタシがマルクなったのではない。世界がどうでも良く、いい加減にできているんだと感じられるようになったってことですね。

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