mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

けちえん/結縁

2015-11-23 10:42:03 | 日記

 あいからわず暖かい日が続いている。21日には中学の同級生であった友人の油絵展を銀座の画廊に観に行った。このところ毎年この時期に「三人展」をやっている。1年間、この展覧会をめどに作品を制作しようと頑張っているのがわかる。私の友人は毎月1作品仕上げたのを展示するのだが、この一年に彼は二度も手術をした。にもかかわらず10作品を並べているところをみると、意欲はまだまだ衰えていない。

 

 年に何度か会っているから言えるのだが、昨年には杖を突いていた。つまづかないようにゆっくりと足を運んで、痛々しそうに見えた。ご当人はそう見せまいとジョークを連発していたが、体は「冗談じゃないよ」と言っているように思えた。その彼が一昨日は、杖もつかず画廊を出て新橋まですたすたと歩いてきた。驚く私たちに「(猫を)蹴飛ばすことだってできるよ」とすっかり手術がうまくいって回復したことを告げる。ジョークと体が一体になってきた。

 

 作品の中に一点、目をすうっと吸い寄せられるものがあった。はじめこれは抽象画かと私は思った。たとえば風景画でも、天地を逆さにしていたり縦横を違えてみていると、納まりが悪いというか、画面全体が落ち着きどころを失って浮遊しているような感触をもたらすことがある。かろうじて「画題」の「海底の美」というのがあって観る視点を定めてくれるように思うが、でも「美」と呼ぶには少し妙な、それでいて幻想的なふくらみを感じる。みている視線がどこに誘われていくのだろうと、不思議の国のアリスになったような、面白い気分だ。

 

 そういえば昨年展示されていた彼の作品にも、似たような印象をもたらした作品があったと思い出した。天を覆う雲間の下から朝日が昇る景色だったろうか。厚く薄暗い雲が朝日を跳ね返して赤く光り、それが乱反射して画面いっぱいを覆うような面白い構図であった、と思う。いま思うと、彼の術前の心象を描きとっていたのかもしれない。空一面を覆う暗雲、その向こうから曙光が現れ暗雲の彩をすっかり変えて行く「動き」が感じられて、彼の、写実に重きをおいた風景画から大きく作風が変わってきていると思えた。

 

 海に潜った「美」なのか。たしかに水に潜ると視界の遠近も左右の広がりも、まるで魚眼レンズを覗くように歪んで見える。パラオの空撮風景を描きとっている作品もあったから、麗しいパラオの海底を目の当たりにしたのであろうが、まさか、潜ったのか。脚腰が悪くても潜ることはできる。こんなふうに、観ているものの視線を揺り動かして定めがたくしてしまう「視点」はどこにあるだろうと考えていたのだ。聞いてみると「船から覗いた海底だよ」と応える。とすると、壁にかけてみているのがそもそもの間違いで、下において上から観るのがいいのかもしれない。ふとそんなヘンなことを想いうかべた。

 

 でも、この歪曲して浮遊する視線は、術前の肢体不自由の彼が感得した「超絶的人間」の感性であったかもしれない。もしそうだとすると、案外年を取って身体不自由となり、周りに厄介を掛けるようになっても、感じている世界は面白いかもしれない。

 

 もう一つ別の作品、「善峯寺の紅葉」を前にして彼は、「これ、(紅葉が)火事にみえるって思いはじめたら、どう手を入れても、ますます火事がひどくなるように見えてしまうんだよね」と笑って話す。善峯寺の堂塔の屋根の甍と(たぶん)カエデの紅葉と常緑樹の緑が相まって、なかなか見ごたえのある風景であったに違いない。その(製作中にであろう)それを「火事みたい」と奥さんが評したことから、彼は手を入れて紅葉であることを浮かび上がらせようとしたことを、自ら評して言ったのだ。人の視線は頑なに自己流を貫こうとしてしまう。だから「海底の美」も、彼の「美」視線と私の意識する「美」視線とが、くんずほぐれつ納まりどころを見失って浮遊しているのかもしれない。案外、この絵を足元において上から見下ろせば、観るべきものが見えるのかもしれない。そういうふうに考えるのも、面白いと思った。

 

 彼は、絵画展を機会に毎年、同じ昔の同級生たちが集まるきっかけをつくれればいいと思っている、と謙遜して話している。そう思うにしては多大な「尽力」をしていると思うが、彼の年の取り方とものの見方の移ろいを受け止めながら、自らのそれを対象化する機会ではあると思った。

 

 まさに「けちえん/結縁」である。