mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

節度ある庶民の態度――せめて「資料」にきちんと目を通すこと

2015-11-08 16:58:37 | 日記

 今日(11/8)の朝日新聞の書評欄に清水真人『財務省と政治――「最強官庁」の虚像と実像』(中公新書)が取り上げられている。10/16のこの欄で「エリートとは鬼になることか」で、とりあげたのと同じ本である。

 

 《本書は、首相主導型権力の確立を目指す「統治機構改革」が、「政」と「官」の関係を変え、「政」優位に傾けたと結論付ける。……これは「最強官庁」の落日を意味するのか。》

 

 と、評者の諸富徹が記しているのを読みながら、ふと、気になったことがあった。

 

 エリートと呼ばれてきた「官僚」たちは、日本最強のシンクタンクである。政治家がそれを駆使して方向付けをし、ノウハウをふくめて「官僚機構」のもっている力を最大限発揮させる。「首相主導型の権力の確立を目指す」というのは、それを意味すると私も考えてきた。それがちょっと違うんじゃないかと、安倍官邸のやり方を見ていて考えるようになった。

 

 エリート官僚たちの「力量」のベースは、積年の「流れ」と「情報」をつかんでいることにある。法的な整合性もあるし、ことの進展の筋道の一貫性もある。外交関係に関して言えば、条約や共同声明など外交文書の解読と解釈をきちんと押さえていることにある。あるいはまた、年次を踏んだ内閣の確認事項の齟齬がないように交通整理することも官僚たちの役割となる。

 

 ところが、安倍首相は、自らの内閣にとって耳当たりの良くないことをいう法制局長をすげ換え、「違憲」と指摘された法案を強行するなど、官僚たちの「積年の知性」を押しのけたばかりか、ないがしろにするようなことを推し進めている。「ポツダム宣言」を読んだことがないことも明白になった。じつは首相がポツダム宣言を読んだことがなくても、それで政権の切り回しが困ることはないと私は思っている。官僚がそれを熟知して、必要に応じて政治家を補佐するからである。ところが安倍官邸は、その官僚たちの「知的力量」の土台をないがしろにし始めた。官僚たちは、安倍官邸の気にいることは耳に入れるが、それに反することやそれから外れることは秘して口外しないようになった。つまり政治家は、「官僚」たちのシンクタンクが保っている「知的力量」を自分の甲羅に合わせて切りとりはじめたのである。その結果、これまでエリート性を保証してきた官僚内心の根拠(であるシンクタンクとしてのノウハウ)を、掘り崩してしまったのではないか。

 

 「反知性主義」が問題になったときに、科学的、客観的知見を尊重することが「知性主義」だと言われた。だがそれとはちょっと違うが、日本の領土問題を解析するときに白井聡は、ポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約や外交文書や外務省局長の国会答弁を丁寧に読み取って、じつは北方四島のうち国後択捉は南千島列島に含まれていて日本が領土としての返還を求めることができる条件がないことを明らかにしたり、尖閣諸島についてアメリカの「沖縄返還」の領域に含まれているとは必ずしも言えないことに言及しているのを見て、なるほど学者というのはこういう厳密な読み取り方をするものなのだと、大いに感銘を受けたことを思い出す(白井聡『永続敗戦論』太田出版、2013年)。

 

 この学者と同じ視界をもって読み取りをしていることが、(たぶん)エリートたちのエリート性の根拠なのであろう。だから、自分に都合のよいことだけを傍ら押しやって政権運営をするということは、単にエリートを使いこなせないというだけではなく、国民を馬鹿にした言説をふりまくことでもある。例えば、北方四島が「日本固有の領土である」ということも、ポツダム宣言を受け容れて「敗戦」したのであってみれば、国後、択捉についてはまったく戯言であり、国民を欺くものだとさえいえる、と白井は読み取っている。

 

 つまり「首相主導型」が行われている現実は、中央政府の一貫性を担保している官僚たちの保持してきた「言説」に代わって、政権が好ましいという言説をやたらに振りまく宣伝戦の様相を呈していると言える。まさにいつであったか、現在の財務相がナチスの宣伝術に学べと言った通りのことを、今政府は国民に対してやっているのだ。

 

 国民は、というより一人の国民である私は、実はあまり厳密に条約を読み取ったり、国会における局長答弁などを追跡把握したりしていない。条約を解説する新聞記事を読んでも、厳密に一字一句を読み取るような読み方をしていない。まさに、見出しだけだったり、語り手の惹句だけを勝手に解釈したりして、いわば、一知半解の読み取り方をしている。そういう意味では、首相の安倍さんと同じように勝手に印象を受け取って、自分勝手に解釈しているというそしりを受けても仕方がない。

 

 せいぜい、これからは、デマゴギーをそれとして腑分けできるようにしなければならないとは思う。でもなあ、国民みんなに、そんなリテラシーというか読解力を要求されても、困るよなあ。ちゃらんぽらんに生きているんだもの、そのほうだけ厳密に読み取るなんて、できるわけがない。ではどうするか。

 

 せめて(どんな政権であれ)、政権がいうことを鵜呑みにしない。政権の主張を慮って、お先棒をかつぐような振る舞いをしない。まずは疑ってかかる。自分の信じていることも(他人と向き合って論じているときには)疑ってかかる。そんなことが、節度ある庶民の態度と言えるか。