mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

今の時代の「魔物」

2015-11-12 20:00:52 | 日記

 真保裕一『天魔ゆく空』を読む。この作者の時代劇は初めて。それも戦国時代、応仁の乱の後の細川政元(細川勝元の継嗣)を描く。「稀代の変人」と言われ、「将軍の首のすげ替え、比叡山を焼き討ちし、一揆を殲滅させて畿内を牛耳り、さらには家臣によって命を絶たれた」と織田信長に似た生き方をし、「武力に頼りがちであった信長とは違い、政元は知略の限りを尽くし、半将軍と呼ばれるほどの地位を手に入れている」と真保は記しているが、それほどの「天魔」であったほどの書き込みが為されているわけではない。

 

 「知略」について言えば、信長の楽市楽座や(のちに秀吉によって実現された)度量衡の統一といった「民生」にかかわる構想や対外文化に対する関心・親炙を持っていたかとなると、もちろん書き込みがないからわからないが、真保は信長のそれらを見落としている。折角面白い人物を取り上げながら、そこまで言及しないと、せいぜい家臣からみて「魔物」にみえたとしても、高々そこまでというほかない。つまりこの本における政元は、家臣の及ばない先を読む知恵と知略を用いて戦乱の世を終わらせ民の平安を築くことに専心した。その政元を「天魔」と呼んでいる。欲目に見ても、当時の常識に与せず、阿らなかったというにすぎないじゃないかと、思った。だとすると、織田信長と比肩する(以上の)「魔性」を持っていたように言うのは、ちょっと言い過ぎではないか。そんなことを考えた。

 

 真保裕一が時代物を書きなれていないせいもあろう。取材したこの時代のもののふの感覚を、今風にしか書き下ろせない筆力の弱さも影響しているかもしれない。自然のとらえ方も、今と比べればもっと不可思議な力によって動かされているとみていたであろうし、人の内面もまた、今の合理的なとらえ方ではない力によって、つくられていると信じられていたと思えるが、そのような人物造形にはまったくと言っていいほど失敗している。登場する人物はどなたもみな、現代風の合理性をもってかたちづくられているのだ。それを筆力の弱さと言った。

 

 真保が描き出す政元は、自らの裡側を他人に語りだすことなく、俗権力への追従を退けて行動する力を持っている。それが人智を越え、「天魔」のような「魔性」といいたいのであろう。それはしかし、今の時代の人物が自らの内面を語りだし自己実現と称して表現することを常とする習性を持っていることを前提としているから、言えることかもしれない。いま(の時代は)それほどに、秘するが花ではなくなっているのかもしれない。

 

 子どもの頃は、夜起きて便所に行くのも怖かった。電燈が暗かったこともある。闇が闇としてなにかおどろおどろしいものを蔵していると思える暗さを持っていた。読む本に登場する幽霊や妖怪も確かにいるような気がしていたものだ。今の子どもたちは、そのような「魔物」や「魔性」を感じたことも持ったこともないのだろうか。ただ単に自分たちの常識と違うセンスを持っているというだけで「魔物」扱いが行われるとしたら、違和感や異質性、異人や他者の許容範囲がう~んと狭くなっているのかなあ。「いじめ」が近年になって多くなったとは思えないのだが、もし他者を組み込む許容範囲が狭くなっているとしのだとたら、案外、「いじめ」と感じる範囲がほんとうに身に近いところにまで迫ってきているのかもしれない。