mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

いい体調はどこから来るのか(2) よしよし

2015-11-02 07:41:11 | 日記

 もう一つ、体幹を好調に保つことについて気づいていることがある。腸の調子である。

 

 身体の内部における水の循環と排泄の好調さが、じつは体幹を保つのに大きく寄与している。富士山より高い山に登ることを始めてから、私は体内の水の循環に気を配るようになった。はじめは高山病を防ぐために水を摂る「技術」として教わったのだが、やたらに水をとることが、その排泄に(体を)消耗させてしまって、体内の水の循環にマッチしていないと思うようになったからであった。

 

 若いころの登山において私は、「水はあまり飲むな」と教わってきた。水の摂取が体力の消耗をすすめるからであった。確かに、夏の暑い時期の山登りにおいてやたらと水を摂取すると、早くバテる。だから、体を冷やすために(ことに冷たい)水を飲むのは控えるようにしていた。だが、熱中症が心配になるほど、水を摂らないようにしたりはしなかった。若いころには(たぶん)水分が必要なときには、喉の渇きがそれを知らせていたように思う。ところが年を取るにしたがって、喉の渇きと水分の必要とが乖離してきたように思う。(たぶん)渇きを感知する感度が鈍くなったのだと、今ならば言える。ことに還暦を超えると、気づいたときにはもう遅いというほど、鈍くなってきた。意識的に飲むようにしなければ、ついつい水分不足になる。

 

 また、バテるのは水の摂取が多いからではなく、汗とともに流れ出てしまう塩分が多くなり、身体から力が抜けてヘタってしまうのだ。だから、スポーツ飲料が市販されるようになって、ずいぶんそのあたりは改善されたと思う。だが私の好みに従って言うと、スポーツ飲料は、せいぜい1日に500CCまで、それ以上は口の中が甘ったるくなって、不快感が残る。むしろお茶の方がよく、ことに夏場の午後になると、ただの水が美味しいと思える。お昼に、昆布茶やみそ汁、カップラーメンを口にするのは、塩分を補給するためと、今は考えている。

 

 むろん水分が絶対的に不足することもあるから、水の摂取を心掛けた方が良いが、じつは私は、行動中にあまり水分を必要としない。4時間行動中に500CCか1リットルあれば、たいてい事足りる。8時間行動をした一昨日も、歩行中に飲んだのは1リットルに過ぎなかった。だが、1日の摂取量はそれでは足りないから、下山後に(車の運転中とか電車の中で)ずいぶんと飲む。ことに下山後お酒やビールを飲んだときには、寝床に500CCをおいておき、夜中目覚める時に必ずと言っていいほど口にするようにしている。そうでないと、よく朝目覚めてから、脱水症状を呈したり便秘になったりして、かえって苦労することが多い。

 

 近頃は、自分の体内を経めぐっている水分の流れがなんとなく感じられているように思う。山を歩かないとき、ほとんど家に籠っているとき、外出して図書館へ行ったり映画を見たりしているときと、水の必要量は日によって大きな変動がある。だが、その差異を意識しないで適度に水分を保っていることができる。

 

 もう一つ腸の働きが大きいのは、栄養分とカロリーの摂取である。だがどれだけのカロリーを摂ったかは満腹度(と体重測定)でしかわからない。栄養分も、何を食べるかで左右されるが、あまりいろいろ珍奇な加工食品のを食べないことで、調子が保たれているように思う。それらが順調であるかどうかは、排便が毎朝ちゃんとあるかどうかで簡単にわかる。この習慣づけは、基本的にはカミサンの用意してくれる料理にかかっているから、私自身が何か工夫をしたりしているわけではない。ただ、長年の習慣で野菜の摂取が多いこと、どちらかというと肉より魚が多いが、どちらかに偏って好みを持っているわけではないこと、塩分が控え目であったり、発酵食品を加えたりしている。これも、カミサンのおかげというほかない。

 

 腸の調子がいいことで、山歩きがつづけていられるのは間違いない。むろん腎臓や肝臓などの内臓諸機能が順調であることによって、基本的な体調が整い、体力もそこそこ保たれている。もう古稀をとっくに過ぎている身なれば、親から授かったDNAのせいばかりとは言えないが、幸運をふくめて関わった人たちに感謝するしかない。

 

 最後の問題は、「精神の気力」である。また妙な言い方だが、ほかに的確な表現がない。登りたいという意欲、意思によってではなく、何日か山から遠ざかると、何となく体がむずむずしてくる。とりあえず山歩きしか能がないから山に向かっているにすぎないのだが、いまさらこの年になって、あらためて自分の好みを開発することは適わない。だから、昔取った杵柄でつづけている。だが、この山に行きたいという「むずむず」がどこまで続くだろうか。あるいはまた、「むずむず」が私の体調や力量をはるかにとびこえてしまうのも、心配である。「むずむず」が過剰になると、ほぼ間違いなく、山で遭難する。力以上の山に挑むと(高名な登山家のように援助組織も持たないから)、敢え無く山で行き倒れになってしまう。それはそれ、「あの人も好きな山で亡くなったんだから本望でしょ」といってはもらえようが(そうなったときは、そういうふうに言ってもらって構わないが)、そう言われたいために登っているわけではないから、うれしくはない。できるなら、自分の力量以上のことをして身を亡ぼすようなことは、したくない。

 

 そのぎりぎりのところで、山に登れたらいいなあと、願っている。そういう意味で、山への関心がどこまで続くか、どのように続くかが、もっぱらつかみたいところである。今のところ山の雑誌を読んだり地図を見て、歩きたいという気持ちが湧き起ってくるところが、何カ所もある。地図でその登山口に立ち、経路を歩いて、そのコースタイムを計算したり、そこから別の離脱ルートを探ったりする。それ自体がすでに山を歩いているような気分の高揚をもたらす。そうして、我が家からそこまでのアクセスを電車にしたり車にしたりして、これも時間を推し測り、何時に家を発つか計算する。

 

 「適応」は実はそれほど難しくない。前日に麓まで出かけて宿泊すれば、それだけで体は楽になる。場合によっては、山中の山小屋に泊まると、ロングコースが半減する。寝袋が必要なところも食糧を持参しなければならない場合も、力に合わせてコースを分割することによって、「適応」できる。むろん荷物を重くするのは賢明ではないが、荷が重ければ歩行時間を少なくするなどして、コースを体に合わせる。こうして、なんとかこれまでやってきた。これからは、もっとそれが必要になる。

 

 そんなふうに考えて、体力と体調のチェックをしながら、山との付き合いを続けていきたいと願っている。はて、いつまでできるか。そんなことを考えていた今朝方、寝床の中で、上肢の右太ももと下肢の両ふくらはぎに軽い筋肉痛があった。奥多摩湖の山を降りてから3日目。遅ればせながら「まだまだ歩けまっせ」と身体が訴えているようである。よしよし。