北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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南線神社

2023-10-16 20:26:35 | 石狩・空知地方

石狩市の住宅街、花川エリアのほぼ中心に、「南線小学校」という小学校があります。

どういうきっかけだったかは忘れたけど、小学校五年生のとき、この学校との交流授業があって校舎を訪問したことがあるのですが、この年(昭和59年(1984年))に札幌に引っ越してきて、札幌とその周辺の地理に興味を示していた私は、この「南線」という名前にも興味を持ち、自分なりに調べてみたのを覚えていました。

 

 

ということでというわけでもないけれど、学校ではなく神社へちょっと行ってみました。

住宅街の中にあって、地域を見守り、地域と共に歩んでいる神社だそうです。

 

 

まず読み方ですが、「なんせん」ではなく「みなみせん」と読みます。

この神社がある地域は、明治14年(1881年)に、十四戸の香川県人が入植したのが始まりとされていて、この神社は、同30年(1897年)に、「片山謙蔵」という人物が、郷里である讃岐の金刀比羅宮に参詣して御神札を戴いた後に北海道へ戻り、当時の「樽川村南6線」に小祠を建立したのが始まりとされています。

同35年に、樽川村は隣接する「花畔(ばんなぐろ)村」と合併して、双方の名前から一文字ずつを取った「花川村」となり、合併前の両村には共に「南〇線」という字があったことから、混乱を避ける意味もあって、「南線」という呼称が用いられるようになったそうですが、現在は、「南線」というと、札幌市手稲区と石狩市を結ぶ「道道石狩手稲線」のことを指すようになっているそうです。

 

 

現在の道道石狩手稲線。

 

 

「南線小学校」の位置。

「南線」と呼ばれる石狩手稲線に面しています。

 

 

境内に入ってみると、まずこの碑が目に入りました。

 

 

「町村農場」とは、円山公園地区の「マルヤマクラス」や、大通の「大通ビッセ」に美味しいソフトクリームの店を出していることでも知られる江別市の農場ですが、その始まりは、ここ石狩市でした。

現在の札幌市南区真駒内にあった官営牧場で生まれた「町村敬貴」氏は、札幌農学校へ入学した後、当時酪農先進国であったアメリカに留学。ウィスコンシン州の小さな農場で働いた後に帰国し、大正5年(1916年)に樽川村に牧場を開きました。

昭和3年(1928年)に、牧場敷地のうち2反歩(約2,000㎡)が境内地として神社に寄贈され、同年、町村牧場は現在の江別市へと移転しています。

 

 

 

 

これらの碑に刻まれている「町村金五」氏は、農場の創設者である町村敬貴の弟で、衆参両議員、北海道知事、北海道開発庁長官などを歴任した人物です。

 

 

この「開田之碑」は、地域の造田十周年を記念して、昭和33年(1958年)に建立されています。

この地域では酪農を兼ねた畑作が広く行われていましたが、干害や冷害による影響を受けて徐々に経営が行き詰まるようになり、やがて天候の変動に左右されることの少ない水田稲作が模索されるようになりました。

そんな中、後に町長となる「飯尾圓什」氏が造田を推奨し、昭和初期には、農民たちが自費による造田を行うようになりました。戦後になり、農民たちの粘り強い運動の成果により、造田には適さないと見なされてきたこの地に国や北海道の補助が受けられるようになり、造田事業が本格化するに至ったという経緯があるそうです。

 

 

 

 

 

酪農業によって開拓が進められたこの地において、労苦を共にした牛馬を祀るための碑だそうです。

 

 

 

この碑の表にも「町村」という姓の人物の名前が刻まれています。

町村金五氏の次男である政治家、信孝氏です。

 

 

昨日紹介した「樽川神社」にあったのと同じ。各面に神様の名前が刻まれている碑がありました。

 

 

 

穏やかに微笑んでいるような様子が印象的な狛犬の姿には、心和むものがありました。

 

 

 

南線神社は、昭和45年(1970年)に現在地に遷座し、平成5年(1993年)に拝殿と社務所増改築が竣工しています。

昭和52年(1977年)12月宗教法人登記をし、同8年(1996年)12月24日承認を得て神社本庁所属神社となり、今日に至っています。

 

 

境内の一角の広場。

例祭などの際に、様々な催しが行われているのでしょうかね。

 

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