自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★文明論としての里山21

2010年04月11日 | ⇒トピック往来

 生物多様性、あるいは自然環境の再生、里山と文明論などさまざまな観点から考えてきたこのシリーズを突き詰めれば、「持続可能な社会」とは一体何かということに突き当たる。人が人らしく、地球という自然が自然らしくあり、それを次世代に伝えていく、そんな社会システムとはどんな姿なのだと問いかけている。「未来可能性」と言っていい。

            持続可能社会と「地域主権」

  政権交代で、「地域主権」という言葉がクローズアップしてきた。前政権では「地方分権」という言葉だった。分権という言葉は「分け与える」というお上が権限を払下げるというイメージがあり、現政権では「地域のことは地域で」というという意味合いなのだろう。言葉遊びのような感じもするが、それはどうでもよい。中央政府が「分権だ」「地域主権だ」と言いながら、これほど有権者レベルで上がらない議論もない。なぜか。それはすでに国のミクロなレベルではすでに「自分たちでやっている」という意識があるからだ。つまり、この論議というのは、中央政府と県や市町村との間の権限をめぐる駆け引きの話である。一方で、すでに地域では自治会や町内会で自主的に暮らしにかかわるさまざまな議論をしている。その論議は、「行政に頼ろう」や「国に頼ろう」という論議ではない。いかにしてこの地域をよくしていくか、コミュニケ-ションを絶やさず、お互いを気遣って、どうともに生きていくかの論議である。そんな論議や現場の話し合いの姿をいくつも見てきた。

  能登半島の先端に珠洲(すず)市寺家(じけ)という地区がある。地域振興策として原子力発電所の誘致をめぐって25年余り論議をしてきた。失礼な言い方かもしれないが、実にタフな人たちである。昨年の夏、この地区の伝統のお祭りである、キリコ祭りの「キリコ絵」制作をめぐって、製作者と住民との意見交換の場をつぶさに見せてもらった。長年見慣れてきた伝統的な「キリコ絵」をそのまま制作するのか、あるいは新しいイメージを吹き込んだものにするのかをめぐって繰り広げられてきた話し合いである。原図を担当したのは日展で特選を獲得した日本画のプロである。本来なら、そのような権威のある画家に「お任せ」となると私自身は思っていた。ところが、寺家の住民はキリコ絵に対する思い入れを述べ、伝統的な図柄である観音絵の色使いや線の描き方、背景まで意見を述べる。その言葉に真摯に耳を傾ける画家。地元と画家とやり取りを重ね、ようやくこの4月に完成した。地域の文化を地域が担う、あるいは住民の共同体意識の発露。冒頭に述べた「人が人らしく」とはそういうことなのだろうと思う。

  この能登半島の先端の人たちは記録に残るだけでも万葉の時代から、ずっと地域社会で命を繋いでいる。748年、大伴家持は「珠洲の海に朝開きして・・・」と詠んでいる。持続可能な社会というのは、歴史や伝統文化に裏打ちされ、あるいは新たな歴史や文化を創造していこうとうする「心の遺伝子」が人々に伝えられてこそ可能なのだと考える。それは行政や国家の仕組みとは別次元のものである。

 ⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ

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