北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの救出活動を続けてきた父親の滋さんが今月5日亡くなったことがメディアで報じられた。横田めぐみさんのポスター写真があったのを思い出し、パソコンの画像ファイルを探した。
政府の拉致問題対策本部がつくったポスターだ=写真・上=。「必ず取り戻す!」。ポスターの右下には、横田めぐみさんが12歳のときに初めて母親の着物に袖を通し、新潟市の自宅前で撮った写真との説明がある。なんともあどけな少女の姿である。撮影者は父の滋さん、撮影日は1977年1月と記されている。赤と白の市松模様の羽織を着ているので、雪が積もった自宅前の風景にちょうどいいと滋さんが考えたアングルだったのだろう。めぐみさんが新潟市の海岸から拉致されたのはこの10ヵ月後だった。
1977年9月に拉致1号事件が能登半島で起きていた。9月19日、東京都三鷹市役所の警備員だった久米裕さん(当時52歳)が石川県能登町宇出津(うしつ)の海岸で失踪した。地元では今でも「宇出津事件」と呼ばれている。久米さんは在日朝鮮人の男(37歳)と、国鉄三鷹駅を出発した。東海道を進み、福井県芦原温泉を経由して翌19日、能登町(当時・能都町)宇出津の旅館「紫雲荘」に到着した。午後9時、2人は黒っぽい服装で宿を出た。
旅館から通報を受け、石川県警は捜査員を現場に急行させた。旅館から歩いて5分ほどの小さな入り江、通称「舟隠し」=写真・下=で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が船で姿を現し、久米さんを乗せて闇に消えた。その後、同行した男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんの警棒などが見つかった。
自分自身もこれまで何度か現地を訪れたことがある。そして、当時事件を取材した元新聞記者のK氏からこの事件にまつわる話を聞いた。K氏によると、この事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号の解読に成功したことが評価され、1979年に警察庁長官賞を受賞している。当時、この事件は単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな事件としてしか報道されなかった。警察は、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺など、事件解決が困難になるリスクもあると判断し、公開に踏み切れなかったともいわれる。
宇出津事件の以降、日本海沿岸部から人が次々と消える。この年の11月15日、横田めぐみさんが同じ日本海に面した新潟市の海岸べりの町から姿を消した。あれから43年、願いかなわず他界された父親の心情を察すると、言葉が出ない。拉致事件は終わっていない。
⇒7日(日)午前・金沢の天気 はれ
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