自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆ドキュメント「平成と私」~上~

2019年04月07日 | ⇒ドキュメント回廊

   「平成」から「令和」へと元号が変わるだけなのに、何か新しい、時代のイノベーションが訪れるような雰囲気ではある。「よい時代にしよう」という日本人の前向きな気持ちが込められる分、新元号の価値と意義はあるかもしれない。イエス・キリストの誕生年から始まる西暦だけだと数字が積み上がっていくだけで、100年ごとの新世紀しか話題は盛り上がらない。新元号まであと23日、平成という時代を自身の体感でまとめてみたい。

    ~平成初頭、テレビを通してかかわった松井秀喜と麻原彰晃~

    平成の時代が始まった元年(1989年1月)は新聞社の記者だった。その年の10月に系列のテレビ局に出向して、映像の世界を知ることになる。新聞社を辞して、新しく開局するテレビ局に入る。その北陸朝日放送が開局したのは平成3年(1991)10月だった。高校野球の中継番組が売りの一つ。当時星稜高校の松井秀喜は石川大会でも視聴率を上げた。なにしろ、石川大会で4本塁打を3大会連続で放った「怪物」だった。その松井が甲子園伝説をつくった。平成4年(1992)年8月16日、夏の甲子園大会・2回戦の明徳義塾高(高知)戦で明徳側が4番打者の松井を5打席連続で敬遠した。実況アナの「勝負はしません」が耳に残る試合だった。  

    そのとき、自身は金沢の本社で朝日放送から送信されてくる中継映像をチェックしながらニュース特集の構成をディレクターと考えていた。試合終了後の松井のコメントは「野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えないです」と淡々としたものだった。宿舎に帰った松井本人から、勝負をしたかったというコメントが取れないか、現地の記者に指示出しをしていた。この5打席連続敬遠が松井の名を一気に「全国区」に押し上げた。11月のプロ野球ドラフト会議で4球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を獲得した巨人に入団。背番号「55」。平成14年(2002)12月、ニューヨーク・ヤンキースと契約。平成25年(2013)5月5日、国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与された。 

    松井の生家は、甲子園大会歌の「栄冠は君に輝く」の作詞者、加賀大介が活動した同じ石川県能美市にある。松井の活躍と同じころ、その能美市で不可解なことが起きていた。プロ野球ドラフト会議の前月、10月に同市に本社がある油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長にオウム真理教の教祖、麻原彰晃が就いて記者会見を開いた。同社の社長が信者で、資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。すでに社員には信者が送り込まれ、取材でも「教団に乗っ取られた」と地元の評判は良くなかった。ほどなくして会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県上九一色村の教団施設「サテイアン」に運ばれた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    翌年の平成5年(1995)3月20日の地下鉄サリン事件。実行犯の一人だった林郁夫(医師)らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の貸し別荘だった。4月、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかとなる。麻原が逮捕されたのは林の逮捕から38日後の5月16日だった。

    平成初頭はまさしく宗教ブームだった。オウム真理教が盛んに信者を獲得していた。平成3年9月に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」では「激論 宗教と若者」と題しての討論に麻原彰晃が生出演した。部下だった上祐史浩、村井秀夫らの論客も出演し、他の新興宗教と激論を交わした。無名に近かったオウム真理教が一気に注目されるきっかをつくったのはテレビだった。

   平成30年(2018)7月6日、法務省は坂本堤弁護士一家殺害事件(平成元年11月)、長野県松本市でのサリン事件(平成4年6月)、東京の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚らの刑を執行した。このニュースをテレビの速報テロップで知った。

⇒7日(日)午後・金沢の天気     くもり

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