自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆戦後賠償と国民感情

2012年09月23日 | ⇒メディア時評

 アサヒ・コムなど新聞系のウエッブページはきょうの夕方、中日友好協会が27日に中国・人民大会堂で予定していた国交正常化40周年記念レセプションを中止することを決めた、と報じている。確か、今月19日には、中国側は「予定通り行う」と日本側に伝えたと報じられていたので、相当の混乱が先方にあるのだろう。「開催日を再調整する」と中国側は伝えているようだが、それにしても異例だ。

 日本と中国は明治以降、日清戦争、日中戦争と戦火を交えた。戦後、中国共産党が政権を奪取して、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。しかし、日本はアメリカとともに、共産党との内戦で台湾に渡った中華民国の蒋介石政権を中国の代表とした。当時の国際情勢は、アメリカなど欧米や日本などの資本主義陣営と、ソ連や東欧、中国などの共産主義陣営に分かれて対立していた。しかし1960年代に入ると、同じ共産主義陣営のソ連と中国の対立が鮮明になり、中国の方がソ連に対抗するために、アメリカや日本との関係改善を望んでいた。米ソ対立を有利に進めたいアメリカは1971年7月、ニクソン大統領が中国訪問を「電撃発表」し、翌1972年2月にニクソン大統領の訪中が実現した。この間、71年10月に中華人民共和国が国際連合に加盟し、台湾から代表権が移った。

 日本もこの潮目に乗じた。ニクソン訪中の7ヵ月後、1972年9月29日、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印した。内容は、日本が国交のあった台湾と断交し、中国は戦争で受けた損害の賠償請求を放棄することで合意した。この「賠償請求の放棄」が問題含みではなかったか。諸説ある。中国はサンフランシスコ平和条約の締約国ではないが、同条約第21条の規定により、日本政府と日本国民が中国(東部内モンゴルおよび満州含む)に有していた財産、鉱業権、鉄道権益などを放棄し、中国は相当の日本資産を得たとされる。とくに、南満州鉄道を始めとした重工業施設、公共施設、軍事施設など。その上で、中国側とすれば賠償請求より「恩を売る」というカタチがよいとの判断だったとされる。その後、1978年には日中平和友好条約が結ばれ、日本は中国への円借款を始め、2007年度の終了までに3兆円を投じ中国の産業発展に貢献した。

 以下想像を膨らませる。どのような理由があれ、戦勝国の国民は「賠償請求の放棄」を許さないものだ。こんな事例が日本にある。1905年9月5日の「日比谷焼打ち事件」だ。日露戦争でかろうじて勝った日本側が最終的に「金が欲しくて戦争した訳ではない」と賠償金を放棄してポーツマス講和条約を結んだことで、当時の日本国民の多くは、どうして賠償金を放棄しなければならないのかと憤り、東京の日比谷公園で全権大使の小村寿太郎を弾劾する国民大会が開かれた。これを解散させようとする警官隊と群衆が衝突し、さらに数万が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅など襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した。「主張する正当性は我にあり」式の弾劾である。この時、ニコライ堂も標的になったが近衛兵の護衛で難を免れたが、講和を斡旋したアメリカにも怒りは向けられ、東京のアメリカ公使館やアメリカ人牧師がいるキリスト教会までも襲撃の対象となったとされる。東京は無政府状態となり、戒厳令が敷かれた。神戸、横浜でも暴動が起きた。こうした世論を煽ったのは新聞だった。

 さらに日本の群衆の怒りがアメリカにも向けられたことで、アメリカ国内では、アジア人への差別感を表現する「黄禍論」の世論が沸騰した。また、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が起こる一因となったとされる。このように国民感情は「悪のスパイラル」へと連鎖していった。 

 話を戻す。中国国民はいまだに「賠償請求の放棄」を許していないのではないか。「愛国無罪」というスローガンを根っこのところで考えると「賠償請求の放棄」の拒否にまで行き着くのではないかと想像する。中国では国を責めると反乱罪になるので、あえて日本と日系企業にその思いをぶつけ暴れる、そのような根深い国民感情があるのではないか。40年たった今でも、その思いは煮えたぎっているのではないか。

⇒23日(日)夜・金沢の天気   あめ

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