自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆能登に息づくモノトーンの美学

2008年01月03日 | ⇒トピック往来
  新年明けましておめでとうございます。年末年始に北陸地方で心配された大雪も幸い大事に至らず新年を迎えることができました。私は楽観主義なので、雪の季節を迎えると、「冬来たりなば、春遠からじ」と自らに言い聞かせ、気楽にやり過ごしています。では、2008年の最初のブログを。

 去年から能登通いが頻繁になった。いろいろな専門の方とお会いし、見聞きするうちになんとなく能登の感性というものを大づかみながら、心得た気分になっている。それはモノトーンの美学である。昨年暮れ、あるお宅に招かれ座敷に上がると、珠洲焼に一輪の寒ツバキが床の間に活けてあった。黒と赤の締まった存在感があり、しばし、見とれてしまった。そういえば、玄関にもさりげなく珠洲焼の一輪挿しがあった。「お宅にお茶やお花を嗜(たしな)まれる方がいらっしゃるのですか」と無礼を承知で尋ねると、「いやおりません。先代からこんな感じで自己流で活けております」と主は笑った。「流派などかまわん、家の構え(雰囲気)に似合っているかどうかだ」といいたかったのだろう。

 珠洲焼にはグレイのものも多いが、黒が真髄とされる。還元炎でいぶされ、艶やかになるまで焼き締められた黒は、能登の荒々しい気候風土の中でどこか厳粛さを感じさせる。それでいて、自己主張せずにどっしりとした能登の家構えに合う。これが、彩色豊かな加賀の九谷焼だったら、なんとなく浮いた存在になるのではないか。

 珠洲焼に似た感慨を同じ能登で味わった。昨年夏のことだ。能登の山中にそば屋を営むT氏を訪ねた。店内のガラスケースに陳列されてあった、古くからある土地の椀、合鹿椀(ごうろくわん)だった。朱色の椀もあったが、黒の椀にまだ艶が残っていたので手に取らせてもらった。おそらく古いもので400年。一度塗りのものらしいが、すり減り欠けた部分もある。代々使い込まれた生活の跡が胸にしみた。律儀に土地を耕し、命を繋いできた人たちのけなげな姿が今にもこの漆黒(しっこく)に映し出されるかと思った。どっしりと存在感のある用の美だ。

 輪島の漆芸家、角偉三郎(かど・いさぶろう)さん(05年10月26日逝去)がその合鹿椀に注目し、同じ地名の合鹿の在所(現・能登町)に工房を構え、合鹿椀の再興に心血を注いだ。華奢(きゃしゃ)を笑うかのようなたっぷりとした椀の形状、そして黒のモノトーンに珠洲焼と共通する、どこかこの土地を生き抜く精神性が伝わるような気がした。角さんが「合鹿椀、合鹿椀」といいながら、手塗りに熱中した訳がぼんやりとながら想像できた。

 黒といえば、お手軽な高級感を演出するため、最近流行だそうだ。黒い色のトイレットペーパーまであるとか。動機はどうであれ、一度能登に来て漆椀の漆黒というものを見ればいい、デザイナーだったらその表現方法が変わるかもしれない。それほどショッキングな色、それが漆黒だ。

⇒3日(木)午後・金沢の天気  くもり
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