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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

負けるとショックなのは、なぜか。

2008年08月15日 16時38分51秒 | 思考試行
本命視されていて、敗退するとショックが大きいのだろう。鈴木圭選手はしばらく起き上がれなかったという。気持ちが、解るが、負けることは考えていなかったのだということだ。

それで、実際負けたときに、すごいショックとなる。

日常生活においては、全部が思うとおりになるとは考えないから、なんとか妥協して生きていけるという側面がある。全部自分の思うとおりに進むという考え方であれば、早晩、壁にぶつかる。

ところが、エリートとなれば、壁に当たらず、思うとおりの進行というのは、かなり続くとみえる。負けないものだから、自信もすごいのだろう。努力もしているということである。

そこで、前回のやる気の問題である。これには、いくつかのパターンがある。その回答は、準備不十分、まだ早い。やる気の源泉を、この際、集めてみたいと思っている。

紙一重 手順 所要時間 意欲 志 能力 やる気

2008年08月15日 09時01分59秒 | 思考試行
オリンピックを見ていて、感じたのは、トップクラスの差がないこと。そして、この舞台に上がるまでの段取り、コーチの重要な役割、そして、能力を育て上げる時間、もちろんやる気を起こす材料も必要であるし、源泉がどこにあるかは、それぞれ違うのだろうが、これらの要素が、微妙に塩梅されて、勝負は展開される。

そして、人生も同じであり、似たような構造になっている。今の所、競争原理を入れないことには、人間社会がうまく機能しないように思われていること、政治や物事のルールは基本的には、独裁ではなく、個人の基本的人権を尊重した、民主主義がいいとされている。

しかし、今でも独裁的な政権もあるし、企業でも社長が独裁、というケースは枚挙に暇がないであろう。間違わない決定をして、企業なり、社会なりがうまく機能していくための工夫は、今後も大事なことで、これからも、重要な問題であり続けるだろう。

能力があっても、やる気のないのは、宝の持ち腐れとなる。能力がなくても、努力するやる気のある者は、何事かを為す可能性がある。しかし、それが悲劇を招くこともある。能力があるのに、それを十全に出せないというのは、いかにも、かわいそうであるが、実は、紙一重で支障はなく、これ位の無駄は自然は平気であり、どんどん浪費している実態がある。小生の知人にも、多くいる。素晴らしい能力がありながら、埋もれている。そういう場がなかったとみえる。

となると、「やる気」が根本のようである。それはどこから起こすのか。これは、次回の課題としよう。

父の肖像(上)を読む。

2008年08月14日 09時14分37秒 | 思考試行
辻井喬氏の「父の肖像」(上)を今朝読み終えた。戦争への足音がきこえる時期をむかえて、政界、経済界、軍部、国民の動向が、時代背景にあって、読み応えのある作品である。

特に、小説の形を取っているが、資料を駆使して、書かれているから、これは、得がたい歴史の教科書でもある。そして、ここから、派生して、さまざまな、研究課題も産まれそうである。

いままで、無縁であったことが、残念である。早い時期に触れていれば、人生にかなりの影響をもたらし、より味わい深く、過ごせてきたかもしれない。そんな、感想をもった。広がりを生む作品なのである。

それは、主人公が、事業家であり、政治家であり、日本でも有数の成功者としての実像があって、通常は、その本質にはとてもせまることができない特殊さがある一方、他方では、生身の人間としての、日常生活における人間が描かれて、説得力のある教科書になっているのである。

今日から、下巻にはいる。昨日、DVDも借りてきており、お盆休みはこれで決まりといったところである。

人間関係は格闘技に通ずる。

2008年08月14日 08時54分53秒 | 思考試行
長年の付き合いで、ある種の秩序が、人間関係のなかにあって、そのまま行くのかと思うと、そうはいかないことがある。今まで、なんのトラブルもなく、きたのが、チョットしたミスで、というより、ミスにもならないことであるが、相手のこちらに対する認識もあるのか、相手がえらく立腹して、電話で、その口ぶりが一変した。彼は、その程度に人間だったんだ、と納得することになる。

自分のミスにはあまく他人のミスには厳しいという人もいるが、自分はそうだとは思っていないのだが、チョットした口ぶりの変化にも、敏感に感じるものなので、それは、自分のことを棚にあげている可能性もある。要注意である。

そんなことが、今年になって、2度ほどあった。人間性というのは、単純なものではないから、いつも身近にいるもの同士でも、意思疎通は簡単ではない。ましてや決まった話の内容のことで、一年に一度話す程度では、人間性など、把握できるわけもないのだが、なんとはなしに、自分なりのイメージを作り上げているのだろう。それが、ガラガラと崩れるのである。

こうした、人間関係というのは、柔道のような格闘技に似ている。あまり、逃げ回っていると、減点の対象とされる。攻めと守りのバランスが大事である。しょうもないことで、値打ちをさげることのないように、修養を積んでいくことにしよう。

東条英機の手記に思う。

2008年08月13日 09時20分27秒 | 思考試行
昨日の日経に、手記が発見されたとあって、かなり、詳しく報じられていた。責任転嫁とか、言い訳とかあるが、読んでみると、トコトンやるんだ、の姿勢を貫徹しているように見える。

こういう姿勢は、恐らく欧米にはないのかもしれない。明らかに、展望がないのに最後の最後まで、戦い続けるというのだから、覚悟は、はっきりしている。戦争をやる以上、最後までやるというのだから、勝つ以外は、滅亡しかないのである。それを賭けて戦争をする、というのだから、悩んだりする余地はない。原爆を落とされようが、ソ連が参戦しようが、行く道は決まっているというのである。

殺されつくしても、なお、戦う、これは、意地のためには、命をすてるのも構わないという考え方である。

こういう人ばかりであれば、いずれは、滅亡しなければならない、と思える。利己的な、理不尽な相手が出てきた場合に、対決するしかないのであるから、わかり易いし、明確であるが、こらえ性がない。キレタラ最後なのである。

人間そんなに純になってはいけないのかもしれない。あるいは、ヌエのように、全体のことを考えるならば、相当シタタカなやり方があっても良いと思う。東条さんは、わかりやす過ぎる。

オリンピック種目に、人間社会をよくするアイデア競争をいれたい。

2008年08月13日 08時59分47秒 | 思考試行
柔道の谷本選手の金メダルは、アテネに続く二連覇ということだそうだが、腰を痛めて、一時は歩くこともできなかったという。よく復活したものである。それと、全試合を見たけれども、やはり、各選手みんな強豪であり、確実な勝利というのは始めから見込めるものではない、ということがよく解る。

勿論日頃の練習であるとか、能力の占める位置、要素は大きいだろうけれども、弾みというか、運の要素も大きいと思われる。解説者が、オリンピックに愛されている選手がいるように思う、と言っていたが、あながち否定できないなと思う。要は、あまり差がないのである。

オリンピックの最中にも、グルジアでは紛争がおこる。国の所属をめぐっての争いであるが、いつまで、こんなことをしているのだろう。人間というのは、まだできていない、というしかない。オリンピック種目の中に、難問解決技法の新しい種目を作って、困ったシチュエーションを出題し、その解決手段を争うというのはどうだろうか。体の能力だけではなく、具体的な問題を解決する能力もお互い磨きあうようにするのである。


「勝負脳」という言葉が流行りそう。

2008年08月12日 08時26分21秒 | 思考試行
オリンピックは、さまざまなドラマを展開する。スエマエが、俄然表面にでてきた。オグシオの影に隠れていたのが、中国に勝つことによって、新聞の一面に飛び出すこととなった。

それにしても、中国ペアの表情の固さが目立った。日本の二人に比べて、オシャレはしていない感じであり、そして、ユニフォームも、なんとなく洗練されていない。

スエマエの二人はどんなことがあっても、視線を交わしあうことを決めていたという。なるほど中国ペアは、視線を交わしていない。こうしたことが、最後に勝負を決めているのかもしれない。

北島選手も、「勝負脳」を鍛えたという。絶対に否定語を使わないというアドバイスをうけて、実行してきたという。これも、うなづける。たしかに、決勝の泳ぎ具合は、素人目にも、伸びやかで、焦るところがない。相手の伸び盛りの選手は、少しバタついて見えた。

トップと二位とは、少ししか違わないのだけれど、体格差などからみて、相手がのびのび来たときには、これは、かなわないのかもしれないが、そうなったときは、双方ともベストを尽くした結果だから、風景はまた違ってみえるかもしれない。

今回は、明らかに、相手の未熟が見えた。おそらく能力的には二位のオーエンが上だろうと思う。テクニック、精神的な面、その辺が相当違いがあったということだろうか。

それにしても、勝負というのは、面白いけれども、オリンピックにでるような選手はみんなすごいのであって、差がないのが、真実であろう。このレベルで、一番、二番と言い立てるのは、あまり意味がない。

何でもありでもいいのではないか。

2008年08月11日 21時01分59秒 | 思考試行
世の中には達人と言われる人がいて、まったく動じることなく、自分のマイペースで生きておられる方が、明らかにいる。

それは、年齢だけでは、くくれない。二十歳を越えてそれほど、日が経っていないと思われる人に、とんでもない人がいる。

いわゆる、公序良俗から外れていると思えるのだが、それがそうともいえない。もともと、基準はいい加減なもので、よくよく考えれば、良いとも悪いとも言えるものではないのである。

この小生のブログにも、へんなコメントが届く。明らかに商売をしているようで、いわばトンでもない記事がのる。それでも良いではないか、と思えるようになってきた。

どうせ、たいしたことではないのである。いつまでも、このような世界に閉じこもるわけには行くまい。子供のいない世帯は、こどもをもつことを、普通とは思えない。しかし、それは、明らかに普通のことであって、そうでなければ、人類は百年もたたないうちに、滅んでしまうのである。

以前は、こうしたいかがわしいコメントに対して、規制をかけていたのだが、今はもう取りやめている。オープンでいいのではないか、と考え方を変えたのである。


広く大きな世界にふれる。

2008年08月11日 10時19分09秒 | 思考試行
辻井喬氏の「父の肖像」を読みかけている。財界有名人で、文学の方でも有名である。かつては左翼の活動家でもあった。

西武王国の主人公でもある。複雑な家庭環境、男女のこと、政治、経済、小説のスタイルをとるけれども、明らかに、事実に基づいての話であるから、中味は非常に濃いものがある。

いままで読んだ作品のなかで、現実の人間を描いた作品としては、最高の部類にはいるのではないか。常人では、為しがたい成功を収めた父と、息子。日本の政治的状況の変化。ぶ厚い、中味の濃い作品である。

この人の作品には、現実と歴史と洞察と、推理と、そして、事実にせまる誠実な学究の徒としての冷静な目がある。得がたい財産である。こういう作家の存在に、いままでふれて来なかったことが、勿体無い気がした。もう少し早くにふれていたら、人生観は明らかに、違っていたのではないかと思わされる。

それは、別にこれからでも良い。過去は戻らない。こういう作家にふれることができた幸せを感じていればいいのだと思う。

作家の名前は、相当以前から知っていたし、妻の友達からもらったと聞いていた文庫本が、書棚にあるのも見ていた。関心はあったのだが、手にとることはなかったのである。それで、ふれてみて、大きな世界がそこにあったということである。

さて、仕事を片付けよう。

2008年08月10日 09時29分06秒 | 思考試行
朝晩の空気が変わってきた。蝉のこえも今朝はない。うつろう季節の実感。それでも、遠くで蝉の鳴き声が、耳鳴りのように聞こえる。季節は、余韻を残しながら、退場していく。

義母が亡くなって、まる三日が経った。昨日は、家内と遺品整理もあって、一人住まいをしていた団地へ出かけた。家内と、家内の姉と、思い出話をしながら、遺品整理をしていた。家内は、姪達や、義母の妹、など、縁のある人のことなど配慮しながら、あれこれ言いつつ、整理をしている。

小生は、昨日片付けるつもりの仕事が、家内に付き合ったために、今日になってしまった。これから、着手の予定だが、うまくいくかどうか、以前ほど、決意どおりには進まないことがでてきているようにも思う。

明日は、医師の診療所や、介護してくれたセンターなどに、お礼の挨拶に行く。家内の弟からは、昨日あたりには、手続きの件で何度も電話があった。人が一人死んで、なにやかやと整理されていく。人生について、思いを新たにするタイミングである。

何もやることがないのは、寂しいようにも思うけれども、次から次へと、やるべきことがあるのも、どこか気ぜわしくて、落ち着かない。順序付けして、段取り良く進めていければ、いいのだが、最初の検討をするところが、どうも弱くて、無駄な動きを排除できない。しかし、なんとか、やるしかない。


新たな水準へ。

2008年08月09日 08時41分14秒 | 思考試行
オリンピック開会式を、最後まで、見てしまった。準備、段取り、国の威信をかけた取り組みの意欲が、痛いほど伝わる。中国の、底力を見せつけた。欧米文化と対極の、歴史。世界の五分の一を占める人口。現実の力が、展開される。

そのスケールは、たしかに、大きい。この力が、覇権にむかうのではなく、まさに、テーマになっていた「和」の方向に向かって欲しいものだ。

漢字文化が、世界の目にふれたことも大きい。広がりを持つ地球上の文明、歴史、そのなかで、より進化した哲学の可能性がでてくる。知らない、ふれたことがない、から、触れてみて、その深さ、良さが、アピールできたことは、東洋としても非常によかったのではないか。

一堂に、さまざまな人種、文化が集う。本当に、諍いをのりこえ、共存できるように心をあわせて、努力していこうではないか、という気分になる。

それにしても、あれだけのイベントを、支障なく、やりとげて、中国の評価は文句なしに高まった。順調に、世界が成熟し、新たな水準への高まりが、あらゆるところで始まってほしいものだ。

感謝と負い目

2008年08月08日 08時46分50秒 | 思考試行
重荷が去ったということか。昨夜はよく眠れた。家族の思いというのは、それぞれであるが、見事に食い違いを見せてくれた。今、辻井喬氏の「父の肖像」を読みかけているのだが、規模の違いはあるとはいえ、家族関係、人間社会というのは、なかなかタイヘンなものである。

義弟は、姉二人の援助をもらいながら、大學を卒業した。その恩義について、姉たち二人は、あまりそれを弟に吹聴したりしていない。義弟もそれを、まったく考えているようにはみえない。すっかり、忘れてしまっているようである。

それは、小生の場合もそうであった。弟の息子を、3年ばかり、預かったのだが、結果として、ある種の負い目を甥に与えてしまっただけになってしまったようにみえる。

うまく母親に立ち回られて、弟から、送金させた金は、母が取り込み、じっさいの経費や、労力は、家内に負担をさせて平気という実態であった。母親のヤリクチというのは、だいたいが、そういうことで、さらに、上から目線の姿勢は、根拠のない防御手段の一つとなって、こちらの不快感をあおる。

気持ちのいい関係にならないのは、評価をきちんとしないからであり、「感謝」ではなく、記憶から抹消したい「負い目」にしてしまうからのように思われる。

その負い目を、不当な扱いによって、糊塗しようとする。母親の場合は、他の兄弟にはそんな呼び方をしないのに、ことさら、小生だけを、特に人が集まる際に、「呼び捨て」にして見せた。そのことによって、自分の親としての名分を守るというタクラミを、本性として、持っていたようである。

このことで、弟妹は小生を軽んじることとなった。気付いて以降、母親に父の一周忌の機会には、そうはさせないために、この「呼び捨て」を禁じた。効果はてきめんであった。あるべき姿におさまることができた。

人間関係のなかで、この「感謝」と「負い目」の違いを、しることは、大事なことに思われる。ここまで、書いてきて、そのことに今、気付いた気がする。

葬儀は終わった。

2008年08月07日 17時31分45秒 | 思考試行
今日葬儀は終わった。ついに弟夫婦からは、なんのアイサツもなかった。子育てのときには義母は利用されるだけ、利用され、病気になれば、追いだされ、そして、老後はそれぞれ嫁いでいる姉たち二組の夫婦に、委ねた結果となった。

ただ、倹約と蓄財のうまさで、お金はたまっているという。しかも、夫婦で別会計なので、お互いどれ位あるかは知らないのだという。そして、弟はその金で、それなりに義母に対しては、貢献してきた。それでも、イラクの事件のときに、日本は多くの金銭的な貢献をしたにも関わらず、無視されてしまった。なんだか、それに似ている。

われわれ夫婦の場合は、それはそれで、評価しているつもりである。それでも、介護に関わってきた、我々夫婦にたいしては、なにか一言でもあればと思うが、そういうことができないからこそ、利用だけして、放り出すこともできるわけで、それは、それなりに、辻褄があっているので、不思議ではないともいえる。

弟としては、悪意があってそうしているわけではない風情もある。肉親かそれ以上という風に思っているのかもしれない。それでも、ある程度、キメゴトのような言葉のやり取りでも、なければ、ナンダコイツということにもなりかねない。

まあ、いろんなことがある。お金を使って、評価されないのも、チョットした配意ができないことに起因する。さりながら、そういう当方も、多分、相当に、疎いほうであるから、それこそ、メクソハナクソの世界である。

これで、また、事態が変わる。人が一人死ぬと、いろんな影響が出てくるのだろう。

家内の家族の遺産分割や、事情のあれこれ。

2008年08月07日 07時38分16秒 | 思考試行
昨日直ちに、お通夜。家内の弟が、葬儀をとりしきることとし、すべての費用をこの弟にもたせることで衆議一決した様子である。

弟の嫁と、義母の折り合いがうまくいかず、何度も同居、別居をくりかえした結果今の状態になったわけであるから、家内としては、あんた金持ちやから、お葬式の費用ぐらい、全部持ちなさいと言って、決まったらしい。

姉一家は、義母に「タカッテ」きた事情がある。生活自体がくるしいものだから、義母を連れ出しては、すべての払いをさせてきたという。それを義母から、家内はずっと前から、きいていたが、ずっと知らん振りを続けてきた。

したがって、昨日のうちに姉に、義母の通帳、印鑑をわたしたという。今まで、たかりにたかって、ほとんど、残高はなく、80万ぐらいといってたが、一時は400万ほどあったという。義母は、姉とわけてくれと言っていたという。家内はそんな気はなく、そうしたと、帰りの車なかでそういった。

それにしても、頭がしっかりしていた義母は、言うべきときに、チャントものをいい、逃していない。小生にも、それなりに、お礼の言葉をのべ、家内にも、これ以上はないというぐらいの、賛辞をおしまなかった。それも、本当にシンドクなる前に、キチントいってるのである。なにしろ、小説をヤマほど読んでいるから、その表現力というのは、タイシタものなのである。

今日はこれから、家族葬の葬式である。

義母死す。

2008年08月06日 06時14分41秒 | 思考試行
義母が、午前2時35分ごろ死す。昨夜から、目のひかり具合が変化していた。直感的に、もう危ないと言う感じはあった。

寝付いて、丸4ケ月と少し、どんどんと衰弱が進み、呼吸は荒くなり、ついに回復の兆しはなかった。

消耗しつくして、生涯を終えた。

小説、ドラマがすきで、こちらへ来た当初は、ビデオ大会と称して、ツタヤで借りてきた映画をよく見た。テレビドラマもよくみていた。

そのせいか、発言がしっかりしていて、感謝の言葉や、気づかいにヌカリがなく、必要なときにキチンと対処しておられた。生活そのものが、ドラマのようであった。みんなそれぞれに、「キメ台詞」をもらっている。

家内も、介護に慣れて、いくらでも対応できるようになっていたから、あとで、寂しさを感じるかもしれない。終わってみれば、短かったということである。

家内の弟、姉に連絡。今日の夜には、お通夜、明日は葬儀と決まった。

今、6時をまわった。介護センターの看護師に確認してもらったが、医師に連絡が取れないので、正式な確認作業は、まだ終わっていないのだが、段取りは進められていく。医師は、昨夜往診にきたばかりだったので、様子から、まだ、余裕はあると思っていたのかもしれない。

蝉が、先ほどから鳴きだしている。

広島に原爆が投下されたこの日が、義母の命日となった。