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「新島襄」旧宅に行ってきました・・・ハンサムウーマン・「八重」について

 先月下旬(2012年8月)、群馬・安中にある「新島襄」の旧宅に行ってきました

群馬・安中市は、江戸時代の安中藩主板倉勝明によって基礎が築かれた「文教の町」として知られています

「新島襄」は1843年(天保14年)安中藩江戸詰めの下級武士の子として、神田生まれの江戸っ子だそうです

「新島襄(=幼名・七五三太(しめた))」 は13歳で蘭学修行を命じられ、その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学びました                                                                                                                                                この修行中、アメリカ人宣教師が持っていた漢訳の聖書を読んでキリスト教に感銘を覚え、21歳の折国禁を破って渡米し、約10年間近代学問とキリスト教を納めました

この間日本では明治維新という大きな変革があり、近代国家に変貌を遂げて行きます

「新島襄」は、31歳の時帰国し、江戸から移っていた父母の住む安中へ帰郷・3週間ほど滞在しただけで、キリスト教布教とその精神に基づく大学設立という使命達成のため神戸~京都に向います

安中にいたのは短い期間ですが、彼の伝道活動に衝撃を受けた人々の中から多くの文化人が育ち、この地の文化に多大の影響を残しました                                                                                                                 そんな安中の文化人の中には、湯浅治郎、湯浅半月、海老名弾正、柏木義円、千木良昌庵などが知られています

   「新島襄」旧宅 ;木造平屋かやぶき造りでした  (JR安中駅からバス15分+徒歩5分)

  旧宅裏は、古墳公園になっており、旧宅紹介、浅間山碑文、「襄」ゆかりの碑などもありました

 湯浅半月(治郎の4男)詩碑もありました  旧宅内には、遺品や関係書類、写真などが展示されています

    

「新島襄」は同志社英学校を設立し、47歳でこの世を去りましたが、彼の情熱・心情は多くの心酔者を生み、その志を継ぐ者は全国に広がって日本の教育思想に大きな影響を与えました

群馬県民かるたでは、 『平和のつかい・新島襄(じょう)』 と詠われ、郷土の偉人として幼児も知る人物です

「新島襄」の妻になった「八重(旧姓山本)」も男尊女卑の世情の中、時代をリードする"ハンサムウーマン"として知られています・・・“ハンサムウーマン”とは「襄」が云った「彼女は見た目は決して美しくはありませんが、生き方がハンサムなのです」から呼ばれた言葉のようです・・・ハンサムというと男性に対する言葉かと思ってましたが、違っていました    

2013年NHK大河ドラマは、「八重の桜」(山本むつみ作)・・・新島襄の妻・新島八重の生涯を描くそうです

「新島八重」は、幕末会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として生まれ、女らしくという母親の願いをよそに、男まさりに育ちました                                                                 戊辰戦争時は、会津・鶴ヶ城に断髪・男装して乗込み、家芸であった砲術をもって自ら銃を取って戦い、その姿は後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれたそうです

「ならぬことはならぬのです」たとえ「悪妻」と呼ばれようが、「不義には生きない会津の頑固女」を自称して、女は男に従うことが当然視された時代、豪放で周囲からは勝手気ままに見える「八重」の生き方は世間からは「天下の悪妻」とも映ったようです

群馬上州では、『かかあ天下』の言葉がありますが、生まれは会津でも、気質ではまさに上州といえるのかもしれません

来年大河ドラマが、始まったら、群馬・安中は観光の隠れ目玉になるかもしれませんね

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