日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
世界でも珍しい‘ 縁切寺’に行ってきました
世界で2つしかないといわれる「縁切寺」の一つが、群馬・太田にあり、その名も『縁切寺・満徳寺』と言います・・・(もう一つは鎌倉・東慶寺ですが、満徳寺の方が古いお寺です)
先日紹介した「世良田東照宮」から車
で5~6分の所に「満徳寺遺跡(群馬県指定史跡)公園」があり、公園敷地内に資料館、その他復元された本堂、駆け込み門が建てられ、往時を偲ぶ事が出来ます 
「縁切寺・満徳寺」の正式名称は『徳川満徳寺』で、徳川家康の孫・千姫(豊臣秀吉の子・秀頼の妻)が、入山したことに由来しているようです
このため「縁切寺・満徳寺」は江戸幕府の厚い保護を受け、寺役場や客殿まで建ち並ぶ大伽藍が造られ、繁栄しましたが、江戸末期火災にあい、多くの寺宝を失ってしまったそうです
その後一端再建されましたが、江戸幕府の崩壊により、明治5年廃寺になって現在に至っています

塀向う正面建物が復元本堂です・手前礎石跡は本堂跡です
男尊女卑的発想の封建社会で、女性からの離縁はなかなか難しいものだったようです
江戸時代においては、離縁は夫側からの離縁状交付にのみ限定されていました
唯一離婚制度として、「縁切寺」が妻側からの離婚請求を受付て妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められており、現代の調停裁判所の役割を果たしていたようです

復元本堂正面
本堂側からみた駆け込み正門
「駆け込み」の薀蓄~で~す!

離婚したい女性が縁切寺に入るのは大変な苦労があったようで、大抵は夫の眼を逃れて寺に駆け込む仕儀となり、「駆け込み寺」と通称されています
寺内は尼寺であるので、一歩も男性は入れませんので、駆け込もうとする妻を駆け込ませないように妻を連れ戻そうと、夫が追い掛けて来ると言う事も度々あった様子です
縁切を望む女性が、寺の敷地内にある「駆け込み正門」の内側に妻の体が一部分でも入れば、夫であっても連れ戻してはならない事になっておりました
厳密には体の一部でなく、履いていた草履を投げて敷地内に入った、もしくは投げた簪が門に刺さった場合等も、夫は妻を連れて帰ってはならない決まりになっていたそうです
「縁切寺」は日本で2ヶ所しかなかったのですから、ここ太田に日本国中からいかにしても離婚したいの思いを持って駆け込んできた女性たちの必死さが、そんな決まりの中に伝わってきます
史跡「満徳寺」に併設されている資料館の中には、寺に伝わる歴代の徳川将軍の位牌、縁切状(去り状、三行半)など、貴重な資料が展示されています
撮影禁止なので、パチリしませんでしたが、一見の価値ありますよ
先日紹介した「世良田東照宮」から車


「縁切寺・満徳寺」の正式名称は『徳川満徳寺』で、徳川家康の孫・千姫(豊臣秀吉の子・秀頼の妻)が、入山したことに由来しているようです
このため「縁切寺・満徳寺」は江戸幕府の厚い保護を受け、寺役場や客殿まで建ち並ぶ大伽藍が造られ、繁栄しましたが、江戸末期火災にあい、多くの寺宝を失ってしまったそうです
その後一端再建されましたが、江戸幕府の崩壊により、明治5年廃寺になって現在に至っています


男尊女卑的発想の封建社会で、女性からの離縁はなかなか難しいものだったようです
江戸時代においては、離縁は夫側からの離縁状交付にのみ限定されていました
唯一離婚制度として、「縁切寺」が妻側からの離婚請求を受付て妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められており、現代の調停裁判所の役割を果たしていたようです







離婚したい女性が縁切寺に入るのは大変な苦労があったようで、大抵は夫の眼を逃れて寺に駆け込む仕儀となり、「駆け込み寺」と通称されています
寺内は尼寺であるので、一歩も男性は入れませんので、駆け込もうとする妻を駆け込ませないように妻を連れ戻そうと、夫が追い掛けて来ると言う事も度々あった様子です
縁切を望む女性が、寺の敷地内にある「駆け込み正門」の内側に妻の体が一部分でも入れば、夫であっても連れ戻してはならない事になっておりました
厳密には体の一部でなく、履いていた草履を投げて敷地内に入った、もしくは投げた簪が門に刺さった場合等も、夫は妻を連れて帰ってはならない決まりになっていたそうです
「縁切寺」は日本で2ヶ所しかなかったのですから、ここ太田に日本国中からいかにしても離婚したいの思いを持って駆け込んできた女性たちの必死さが、そんな決まりの中に伝わってきます

撮影禁止なので、パチリしませんでしたが、一見の価値ありますよ

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