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「希望」と「善意」が彼らを死地に追いやった

2020-01-05 23:55:36 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係)
  「希望」と「善意」が彼らを死地に追いやった

   今振り返る 北朝鮮帰国事業の開始から六〇年


 一九九一年八月。
 三池淵(サムジヨン)号の船内で二泊し、三日目に元山(ウォンサン)に入港した。
 船が着岸する前から岸壁からブラスバンドの音楽が聞こえる。歓迎の人たちも集まっている。
甲板に出て元山の町を眺めると、目につくのは低い山々の赤い地肌だ。そして市街地は・・・。いや、市街地と呼べるような景物があっただろうか? 殺風景というより、荒涼とした感じだ。
 「ここは時間が半世紀以上前で止まっている」。それが最初に訪れた外国の第一印象だった。
 ブラスバンド曲のメロディーは今も憶えている。その演奏の虚しいまでの無表情ゆえだ。曲名が『4号歓迎曲』ということは最近知った。

 われわれ約百人の旅行団は前々日新潟港の中央埠頭を出発した。
 一九五九年十二月在日朝鮮人と日本人妻たちが北朝鮮に「帰国」した帰国事業の第1次船が出港して以来、八四年まで九万三千人を超える人々が北朝鮮に渡った。その出発点がこの港だった。
 今、帰国者たちを待っていた「地上の楽園」の実態がどのようなものだったかは多くの人の知るところだ。彼らの中でその後脱北し、日本に戻って生活している人は約二百人ほどいるという。(韓国には二百人弱) 彼らの書いた手記を読むと、ほとんどの人が(元山よりずっと北の)清津(チョンジン)に入港した瞬間に「だまされた」という衝撃に襲われている。日本から持参した弁当は「捨てろ」と言われて捨てたが、代わりに与えられた食事は残飯のようなものだったりお菓子だったりしてとても食べられない。そして清津の町や人々を初めて見た時感じたことは私と同じだ。ただ決定的に違うのは、彼らの場合はほとんど自分の人生がその時点で終わってしまった、致命的に選択を誤ってしまったという絶望感に苛まれたことだ。
 私自身の「追体験」でさえも衝撃的だったが、多くの帰国者たちの衝撃に比べれば微々たるものに過ぎないことは言うまでもない。
 「衝撃」といえば、清津港で初めて彼らを迎えた北朝鮮の人々も驚いたという。在日同胞は差別と貧困の中で苦労してきたので乞食同然の姿で来ると思っていたら、自分たちよりずっといい服を着ているし、血色も良かったので。(彼ら北朝鮮住民のことも北朝鮮の人権をめぐる問題として同じように視野に入れるべきだと思う。)

 先週十二月十四日は、第1次帰国船が出港した日からちょうど六十年目の日だった。
 この日私は拓殖大学文京キャンパスで開かれていた<北朝鮮に自由を! 人権映画祭>で「キューポラのある街」(一九六二)と「未成年 続・キューポラのある街」(一九六五)を観てきた。前者はもちろん当時十八歳の吉永小百合主演の名作で、キューポラのある街=川口を舞台に、吉永小百合の演じる中3のジュンが困難な家庭環境の中で希望を失わず成長してゆく姿を描いた感動的な作品だ。この中でジュンや小学生の弟タカユキと親しい在日姉弟の一家が北朝鮮に行くという話が盛り込まれている。
 作家早船ちよが原作小説を刊行したのが映画公開の前年の一九六一年。当時は北朝鮮という国が輝いて見えた時代だった。半島の南では李承晩政権が一九六〇年四月の学生革命でやっと倒れたと思ったら、約一年後に朴正熙がクーデターで政権を奪取し、独裁を進めるという状況とは比べるまでもない。宮島義勇監督が北朝鮮を長期取材して作った『千里馬』を、高1だった私も徳島の映画館で観たのは一九六四年だったと思う。実際、六〇年代の経済水準は北朝鮮が韓国を上回っていたということだ。この時期、北朝鮮を美化して描いたことを今の誰が責められるだろうか?

 ところが、帰国運動のピークは最初の三年で終わる。つまり五九~六一までに七万人以上(全帰国者の8割以上)が北朝鮮に渡り、六二年になるともう激減するのだ。最初から日本に残るという人だけでなく、北朝鮮の実情がわかって渡航をやめた人もいたようだ。先に帰国する家族と事前に手紙の符丁等を決めておいて、たとえば「来るな」の意味で縦書きでなく横書きにしたり、「こちらの家は日本の〇〇のように良い所です」と貧民街や刑務所の地名を書いたり・・・。
 手紙は当然のように検閲されるし、思っていることを言うだけで場合によっては家族ともども命とりになってしまう、そんな体制だった。北朝鮮に着いて最初の頃につい「本音をもらして」収容所送りになった人も大勢いたようだ。ある脱北者は、父親から「口は本当のことを外にもらさないシャッターのようなものだ」と忠告されたことを語っていた。

 「未成年 続・キューポラのある街」は今回初めて観た。いや、この作品は存在さえ知らなかった。内容も前作の三年後で、主人公のジュンは定時制高校に通いながら工場で働いている。しかし厳しい社会の現実を前に悩む場面が目につき、その分希望の光も少し陰ってきた印象を受けた。帰国運動関係では、サンキチの家族でひとり残っていたサンキチ母(菅井きん)=日本人妻のもとにサンキチ父が病に倒れたとの知らせがあり、やはり自分も北朝鮮に行くべきかと悩むのだが、ジュンは彼女に北朝鮮に行くことを強く勧めるのである。そしてサンキチ母は「二度と帰って来れないかもしれない・・・。私はやっぱり日本に住んでいたいんだよ・・・」と泣きながらも北朝鮮行きを決意する。
 この時点で、当初朝鮮総聯などが言っていた「三年経ったら里帰りできる」という言葉は反故にされている。サンキチ母はジュンに「私のことを思い出しておくれね」と言い残して別れる。映画では、この会話の後のジュンの表情になにか不安が兆しているように思えたが、それは六五年の時代状況をふまえた野村孝監督の演出か、私の後知恵に基づく主観に過ぎないのか、よくわからない。

 北朝鮮に「帰国」した在日朝鮮人のほとんどは元はと言えば韓国の南部や済州島出身者だ。それなのになぜ大勢の人たちが故郷というには無理がありそうな北に渡ったのか?
 日本社会での差別と貧困からの脱出ももちろんあっただろう。が、しかし・・・。何と言っても一番責任があるのは金日成をはじめとする北朝鮮政府と朝鮮総聯だ。在日朝鮮人への生活保護費負担とともに治安対策の問題の解消がねらいだったという日本政府も責任を免れないだろう。そして大きな(マイナスの)役割を果たしてしまったのが新聞等のメディアだ。確実な裏付けのないまま希望を持たせるような記事を大量に流してしまった。確かなことと不確かなことを見極めて伝えるという基本を踏み外してしまったのは、ジャーナリストたち自身も「見たかったこと」が「見えてしまった」のだろうか? さらに、60年代後半以降も後追い記事をずっと書き続けるべきだった。実態がわかった後、一般の人たちや、帰国者の家族の中にさえも「自分の意思で行ったんだから」と突き放す人がいるのはあまりに酷というものだ。
 とくに重い責任のある者たちや組織から反省や謝罪の言葉が聞かれたことはない。そればかりか北朝鮮と朝鮮総聯は「罪の上塗り」をしている。帰国者に限らず、戦後社会主義の理想を信じて「北」を選んだ多くの在日を含む朝鮮人たちがいた。北朝鮮建国当初のそんな理想は一体どこに行ってしまったのか、北朝鮮の指導者や総聯の関係者は自問することはあるのだろうか?

 今思うことは、考えてみればそんな不確かな情報しかないのに信じたい「希望」があれば人は死地への道を選択してしまうということだ。そして身近に信頼できる知人が「善意」で後押しをしてくれれば迷っていても決断してしまったりもするのである。
 「続・キューポラのある街」のさらに続きの物語のことを考えてみる。今、ジュンはサンキチ母との最後のやりとりをどう思い返しているのだろうか?

 帰国船の発着地・新潟港中央埠頭近くにボトナム通りという道がある。第1次帰国船出港の前月に帰国者たちが街路樹として寄贈したヤナギ三百五本が約二キロメートルにわたって植えられた道で、これに当時の県知事が「柳」の朝鮮語を通りの名としたとのことだ。(ポドゥナムと表記した方がより原音に近いが。なお平壌は「柳京(ユギョン)」ともよばれるほど柳で有名である。)
 六〇年経った今、ボトナム通りのヤナギはずいぶんまばらになってしまったようだ。

 ところが、始まりは六〇年前でも、この帰国事業の問題は今も続いていることを忘れてはならない。日本の国籍を持つ人は六七三〇人が北に渡り、亡くなった人も多いが、数百人(?)が彼の地で暮らしているという。しかし、拉致被害者に対する関心に比べると、政治家はもちろん日本人の多くも関心を寄せていないのではないだろうか?
 脱北して日本に戻った人の話を聞く機会が何度かあった。その中で、大きなマスクをしたりサングラスをかけたりして素顔を隠している人は何人もいる。北朝鮮側の人間の危険な接触をさけるためだ。日常的にも十分な公的支援もなくひっそりと暮らしているという。

 一方、朝鮮中央通信が伝えた最新のニュースによると、平壌で12月15日、在日朝鮮人の帰国実現を記念する報告会が行われた。
 報告会には朝鮮総聯のK顧問を団長とする在日本朝鮮人感謝団や、北朝鮮に滞在中の在日朝鮮人が参加する中で「在日同胞の社会主義祖国への帰国を実現して在日朝鮮人運動の全盛期をもたらし、海外同胞運動の世界史的模範を創造した金日成主席と金正日総書記の不滅の業績は祖国の歴史とともに子孫万代に末永く輝くであろう」といった内容の報告があったという。
 帰国者たちの生命や人生をふみにじったことへの憤りはもちろんだが、彼らがそれぞれに信じていた「希望」のことを思うといたたまれない気持ちにかられる。このような体制がここまで存続している現実を、われわれは直視しなければならない。

※三池淵(サムジヨン)号は、比較的知られている万景峰(マンギョンボン)号の姉妹船。ただし初期の帰国船はソ連船クリリオン号、トボリスク号が使われた。
※『4号歓迎曲』は→YouTubeで聴くことができる。
※いわゆる日本人妻の里帰りができないことは、北朝鮮住民が自由に国外に行けないこと等とも通底している。拉致問題も当然合わせて北朝鮮の人権問題中の重要な案件として取り組むべきだろう。