ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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[長崎と韓国・朝鮮②] 齋藤茂吉と朝鮮(+長崎) 

2012-10-26 23:54:03 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 このシリーズ最初の記事の末尾で「続きはその日本二十六聖人記念館について」などと記しておいて、早々に予定変更です。

 一昨日世田谷文学館に行ってきました。<齋藤茂吉と『楡家の人びと』展>を開催していて、10月24日は昨年亡くなった北杜夫の命日で入場無料になると聞いて友人の誘いに乗ることにしました。

 齋藤茂吉は、戦争と文学との関わりを考える点でも興味深いし、1930年に満鉄の招待で満州各地を旅行した際、帰路に朝鮮を経由している(往路は大連までの航路)ことも少し知っていたので、何か関連の展示物でもあれば、と若干の期待を持って・・・。
 実際行って見てみると、その2つの点については全然といっていいくらい収穫はなかったのですが、細かな字でぎっしり書かれた絵入りのノートや葉書(←これは齋藤茂太・北杜夫も同様)、加藤清正等が描かれた3枚の凧絵等々、興味深い展示物がいろいろありました。

 で、彼の年譜を見ていて目に入ったのが「1917~21年長崎病院精神科部長として長崎に赴任していた」ということ。
 「えーっ、そうだったの!?」と、長崎旅行の事前学習の不足がまたまた露呈。遅ればせながらネット検索してみると、「長崎・斎藤茂吉の歌碑をたずねて」とか<長崎・斎藤茂吉寓居の跡>とかの、写真入りの関係記事が見つかりました。

 また、1930年10~11月の満州旅行については随筆「満洲遊記」に、旅行中に詠んだ歌は「連山」(1950年刊)に収められていることを知り、さっそく横浜市立図書館で借りて目を通してみました。

          

 「連山」には、満洲各地と北平 (北京)を巡り、朝鮮を経て帰国するまでの歌705首が収められています。うち朝鮮での作歌は43首です。(奉天~安東間を除くと36首。)

 11月20日午後奉天を発って安奉線を南下し、車窓から本渓湖製鉄所の煙突から立ち昇る煙を見たりして、午後9時に安東(現・丹東)着。(※安奉線は安東と奉天(現・瀋陽)を結ぶ路線。現在の瀋丹線。)
 「安東にて時を一時間すすめぬ」と詞書。ここで時差を切り替えたのですね。翌朝から朝鮮に入ります。

 朝鮮のあかつきにして吾は見つ時雨のあめの過ぎつつ行くを
 うつせみのわれの一世(ひとよ)に幾たびかかかるしづけさ見むとし思(も)へや


 朝鮮に入って、最初に掲げられている2首です。
 はたして、茂吉は朝鮮が「静かな朝の国」といわれていることを知っていたのでしょうか? 詞書はありませんが、知らなかったとすればなんという偶然!
 その日21日午前京城着。 雨の中、朝鮮総督府や昌慶苑等を回り、講演も行います。
 茂吉は各地で歓待されます。この日の夜は南大門通の朝鮮料理店・食道園へ。
 6人の妓生が「歌舞音曲をほしいままにす」とあります。

 まをとめのうたへる聲はかなしけど寂(さ)びて窒(とどこ)ほることなかりけり
 ともし火のもとに出て來てにほえ少女(をとめ)が劍を舞ひたるそのあわれさよ

  (※「にほえ少女」とは紅顔の美少女のこと。)

 この2首の歌には、2006年の「朝鮮新報」に文芸評論家の卞宰洙(ピョン・ジェス)氏が紹介して解釈を加えています。
 1首目は「これは朝鮮の少女の歌を聞いた時の感懐であるが、茂吉はその歌声に、なぜか悲しみを覚えている。乙女に宿る悲しみが亡国のそれであると解釈できなくもない、後の歌には「舞台はどこであろうか。明かりに映し出されて気品のある少女が剣の舞を踊る可れんな姿が、哀れに思えてならない」と解し「民族舞踊を舞う少女の美しさにひかれながらも、茂吉は哀れの感情にとらわている。それが〝芸人〟という身分に対してなのか、それとも、亡国の民への同情なのかその判定は読む人の受けとり方によるというほかない」とまとめています。
 この解釈に対して、「亡国亡国うるせーよ!!」とブチ切れているブログ記事もあります。
 「朝鮮新報」の記事では、本ブログでも「えっ、金素月の「つつじの花」も抵抗詩!?」と題して記事を書いたことがありました。「乙女に宿る悲しみが亡国のそれであると解釈」するのであれば、せめて1つでも論拠・例証を示してほしいものです。悲しさ・さびしさにもいろいろあって、齋藤茂吉にも万葉の昔から現代に至るまでの用例を基に考察した「『さびし』の伝統」という論稿があります。(→<青空文庫>に収録。) 2首目の歌にも「舞台はどこであろうか」と記していますが、詞書を読み、さらに全集に収められている彼の手帳を確認すればすぐにわかることなのですけどねー。これでは「解釈」というよりも「私はこう読みたい!」という主観的な願望のレベルに止まってしまっています。
 おそらく、妓生としての生活は大変で悲しいことも多かったと思います。私ヌルボはそのことを否定するものでは全然ありませんので誤解なきよう・・・。おっと、ついついムキになりかけたかな?

 茂吉は11月22日は朝鮮神宮・北漢山・冠嶽山・パコタ公園(←ママ)等、23日は東大門・清涼寺・本町通(現・明洞~忠武路)等々を見物し、24日の午前10時京城を出発して帰途につきます。

 以上が歌集「連山」を通して確認した茂吉の朝鮮での旅程の概略です。

 では随筆「満洲遊記」には何が書いてあるかなと「齋藤茂吉全集 第7巻」(岩波書店.1975)をひもといてみると、朝鮮での記述は全然なし
 しかし、満州の叙述がなかなかおもしろいのです。大連から旅順、遼陽、奉天、撫順等を回り、哈爾濱(ハルピン)からさらには満州里まで足を延ばしています。

 撫順の記録が興味深いので、ちょっと紹介します。例の露天掘りの炭鉱等を見学して、その夜は新市街の歓楽園に行きます。炭鉱労働者のための歓楽街で、劇場や飲食店があります。ここで茂吉たちも店をハシゴして飲食したようです。
 まず琴楽書館という店では、王克琴(ワンクーチン)という20歳の「小婦」が接待します。「連山」中に次のような歌があります。

 (詞書)わがそばに克琴といふ小婦居り西瓜の種を舌の上に載す
 わが體(からだ)に觸れむばかりの支那少女巧笑倩兮(こうしょうせんたり)といへど解せず

 元は「詩経」に美女への賛辞なんですか? そりゃあ中国人でもフツーのねーちゃんにはわからんわなー。
 一力という朝鮮料理店では、力彌と称する芸者がいました。茂吉は、丹念にメモを取っています。

 ワタチ、チユ八ゴザイマス。コマスミニダー。アンタサンダンナニモトオモツテヨ。ヌクイヨ。イカンヨ。アンタ、ドコデキタンデスカ。エーチガウ。トマテイラツサエ。さういふたどたどしい日本語を使ふ。さうして、撫順藝者は親切者ヨドツコイチヨ、雨が降らぬにコリヤ、傘かせるヨチヨイナチヨイナ、グンニヤグンニヤなどとうたふ。またアイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。チエビガ、ツヨゴト、カンノンマン、カンダオ。アイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。チヤンセカ、チヨゴト、アルマン、カンダオ。アイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。コツチヨガ、チヨゴト、メキマン、ハンダオ。アイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。ハルモニ、ソンジヤガ、ヅージヨ、カーオなどといふ唄をうたふ。哀調があつて聽くに堪えへる。何う意味であるか私には全く分からぬが、私はその調を愛して聽いた。彼女はまた、シザー、ギンセ、シザー、ギンセ、タンバコ、ターリャンイ、シザー、ギンセ、ヅーエ、グク、オトキエレなどともうたふ。

 ・・・この中の朝鮮語の歌の意味、どなたかわかるでしょうか? 私ヌルボ、見当をつけてハングルで検索などしてみましたが、わからないままです。
 次の店が山陽楼料理店。小藤という酌婦が相手をします。
 「撫順よいとこ、一度はござれ、炭の中にも都ある」、「うちは歌ひきれまつせん」などと長崎縣島原あたりの方言を使ふ。
 ・・・とあります。長崎県の中でも、島原の方言とすぐ聴き分けられるのでしょうか? このあたりは、以前数年間長崎にいた茂吉だからわかったのでしょうか?

 ここでヌルボが思い起こしたのは「からゆきさん」のこと。映画化もされた山崎朋子「サンダカン八番娼館」でからゆきさんのことは広く知られるようになりました。そして<からゆきさんの小部屋>というサイトで説明されているように、彼女たちの出身地でとくに多かったのが島原・天草地方でした。また上記の映画を見て、彼女たちのが行った先は東南アジア方面という印象を持たれているようですが、実際は世界各地に及んでいて、旧「満州」にも多くのからゆきさんがいました。
 撫順の小藤さんも、そんな島原出身の「北のからゆきさん」の1人だったのでしょう。
 <からゆきさんの小部屋>には、「シベリア出兵の際は日本軍ともかかわりがあった」という天草出身の「満洲お菊」や、やはり「日本軍に協力しさまざまの功を立てた」という「シベリアお菊」という、名前の残っているからゆきさんの短い説明が載っています。「シベリアお菊」は哈爾浜(ハルピン)の日本人墓地で眠りに就いたということですが、それは茂吉がその墓地を訪ねたこの1930年の後の話なのかどうかわかりません。(茂吉は行く先々で日本人墓地に行っています。シンガポールとかでも・・・。)

 長崎に始まったこの記事が、やっと再び長崎(島原)に戻ってきました。ふー。
 ここでおしまいにしてもいいのですが、ことのついでに茂吉が訪れたロシアとの国境の町・満州里のことをつけ足しておきます。韓国・朝鮮とは直接関係はないのですが、ヌルボより上の世代が(たぶん)歌声喫茶で愛唱した「満州の丘に立ちて」という歌が好きだったもので・・・。今<二木紘三のうた物語>というブログの記事を読むと、日露戦争で戦死した兵士を悼んでロシアの軍楽隊長だったシャトロフという人が作曲したとか・・・。(日露戦争当時の写真入り動画→コチラ、本格的なクラシックの公演はコチラ。他にもいろいろ。
 (あれ? ロシア語のマンチュリアは満州の意で、満州里ということではないのかな? ・・・と、これも今考えたこと・・・。)

 ま、それはそれとして、「満洲遊記」によると、ハルピンには当時日本人が4,778名居留していたが満州里には217名。そしてここの宿にも「島原むすめ二人」がいたと記されています。
 茂吉は、ここの居留民会立満洲里日本尋常小学校、成美幼稚園を訪問します。生徒は小学生14名、幼稚生9名。母がロシア人の混血児が桃太郎の歌を歌います。また「ペチカ」の歌を聴いていると「いつのまにか私の眼から涙が出て来て為方が無い」という茂吉でした。

 國境(さか)ふ小さき町に稺(おさな)等の日本の歌を聞きつつ泣かゆ

 そしてここでも日本人墓地へ。

 いやはての國の境に住みつきてをとめの身さへ此處に終りき
 春になれば日本人墓地のほとりにも雲雀が群れて啼きのぼるとふ


 「わずか」217名と書きかけて消しました。少なくはないです。当時ここにいた日本人たち、とくに子どもたちは、その後どんな人生を送ったのでしょうか・・・?

 それにしても、昔の日本人はよくこんな遥か遠い異国の地まで大勢行ったものです。(何百年も前に東南アジアに行って日本人町を形成した人たちもオドロキですが・・・。)

 続きは日本二十六聖人記念館について書きます。(って、自分でも信じてない!?)