起請文の研究史を振り返ると、最近の大きな流れとしては、「社会史ブーム」に乗った神秘的・呪術的な起請文研究から「機能論的」研究に移っていますね。
そして、前者の代表である勝俣鎮夫(東京大学名誉教授)・黒田日出男(東京大学名誉教授)・千々和到(国学院大学名誉教授)の三氏を熊野の「牛玉宝印」にちなんで「黒烏三人組」と呼ぶとしたら、後者の代表である清水克行・佐藤雄基・呉座勇一氏は「白烏三人組」と呼べそうです。
起請文の宗教色を全く否定してはいないものの、相当に脱色している立場ですね。
佐藤雄基氏「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4098ae9be11cbdecadb8c3b406031d3d
「白烏三人組」のうち、清水克行氏(明治大学教授)と呉座勇一氏(国際日本文化研究センター准教授の地位確認を求めて係争中、信州大学特任助教、ユーチューバー)は中世後期が専門であって、起請文研究も中世後期に偏っています。
これに対し、中世前期が専門の佐藤雄基氏(立教大学教授)は「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(『歴史評論』799号、2015)という論文を書かれていて、古代・中世・近世全体を見通しての研究史整理としては、現時点では最も優れた内容のように思われます。
この論文は、
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はじめに
一 八〇年代の社会史研究─「基層」へのまなざし─
二 起請文・一揆契状への機能論的研究─近年における「社会史」批判のうごき─
三 儀礼のもつ機能─古代史・近世史の動向から─
おわりに
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と構成されていますが、第一章では千々和到氏の研究について次のような指摘があります。(p35)
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起請文が本来神に捧げられるものであるという理解は、初期の起請文に「宛所」が記されていないという様式上の特徴から、これを(神仏に捧げられる)上申文書に分類した佐藤進一氏の研究に基づいている。千々和氏は室町期以降、大量に残されるようになる起請文が宛所をもっていることから、「残さないことが普通の起請文」から「残すことのみを目的とした起請文」への変化を指摘し、霊社上巻起請文から神々に対する人々の意識の変容、呪術性の希薄化と「起請文の死」を論ずる。千々和氏は、戦国期の「起請返し」という自らの誓約を破棄する手続きの存在を紹介し、近世には、「三枚起請」という古典落語にみるように、起請を破ることによる神仏の罰を人々が信じなくなると説明する。千々和氏はこうした事態を「起請文の死」と表現し、中世と近世の間に段階差をおく。
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現在、演じられている「三枚起請」は高杉晋作の都々逸「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」を素材にしていますが、近世の遊郭で、年季が明ければ客と一緒になる、という起請文を遊女が濫発していたのは事実です。
三枚起請
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9A%E8%B5%B7%E8%AB%8B
こうした「起請文の死」がいったい何時起きたのか。
佐藤氏は次のように続けます。
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ここでの千々和氏の議論には、二つの特徴がある。一つは、文書の世界の背景にある、より根源的なものとしての音声の世界への関心、もう一つは中近世移行期における転換を重視する歴史像である。
【中略】
第二の点について、この時期の社会史研究は、「基層」文化からみた古代・中世の連続性を重視していた。その背景には、律令国家の成立によって中国風の国制が導入されたものの、律令以前に淵源をもつ習俗(「固有法」)が社会の「基層」に生き続けるという、七〇年代の石母田正氏の議論があった。こうした長期持続的な「基層」が大きく変容するのは、中近世移行期であり、応仁の乱~戦国期が分水嶺となる。上から導入された「文明」と社会基層の「未開」という二重構造論は、社会史研究と連関しつつ、八〇・九〇年代の古代・中世史研究の大きなモティーフとなる。八〇年代には古代・中世史をこえた大きな研究潮流が生まれる機運が高まっていたように思われる。
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「長期持続的な「基層」が大きく変容するのは、中近世移行期であり、応仁の乱~戦国期が分水嶺」ですから、千々和説では応仁の乱が始まるまでは起請文は死んでおらず、「起請文の死」は戦国期に始まって近世に完成するという立場のように思われますが、後続の文章で佐藤氏が言及されているように、千々和氏の見解も些か微妙なところがありますね。
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