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松村敏「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面」(その3)

2018-11-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)09時29分7秒

「表4 岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工のうち非再入場者の状況」の数字は不可解ですが、「また資料には、「逃走」などの理由の記載とともに「見込ナシ」「止」「他へ移動」(他工場へ移動の意)、「不従事」(他の製糸工場にも不就業の意)など追跡調査の結果が記されているものもある(表4)」(p34)となっているので、逃走者の合計から再入場者数を引き算した51名のうち、「追跡調査の結果が記されている」16名だけを集計した、ということですかね。
とすると、残りの35名、全体の約69%については工場側は特に追跡調査をせず、放置したのかな、という話になります。
そうであれば、表4は松村氏の説明とは逆に、「実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査」が行なわれなかったことを示すものとなりそうです。
さて、松村氏は「逃走」の時期について、

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 「逃走」の時期をみると(表5)、4~5月と7~8月が多く、9月以降はかなり減少している。この意味するものは何か? 6月は「逃走」だけでなく全体として「帰国」する者が少なく、これは実家の養蚕・農事手伝いで帰省中の者が多いことで説明できよう。
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とされていて(p36)、ちょっと意味が取りにくかったのですが、これは5月のうちに「養蚕」51名、「農事」1名、更に「本人病気」15名、「家族病気」22名等で合計128名が「帰国」しており、その多くが6月には工場に戻って来ていなかった、ということですかね。
5月の「帰国」128名は合計480名の約27%で、突出して多いのですが、その反動が6月に現れているということのようですね。
松村氏は続けて、

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9月以降の減少に関しては、『生糸職工事情』(1901年調査)に、女工が他工場に転じようとする時期は募集の時期から「旧盆の頃」までで、その後はほとんど「争奪の弊害」は止むとある。その理由は「旧盆の頃には工女の収得すべき賃金は幾分か已に積れるが故に工女は容易に転場をなさざるによる」という。1918~20年頃の岡谷製糸でも、賃金支払い方法は実質的にはまだ年末払いの慣行が続いていたはずであるから、同様の事情があったといえよう。「逃走」するなら早い方が得なのであった。
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とされており、「賃金支払い方法は実質的にはまだ年末払いの慣行が続いていた」は、月払いが常識である現在からは少し分かりにくい話ですが、これは、注(2)に説明があり、

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(2)賃金支払い方法は、年末払い慣行が続いていたが、工場法施行により1919年9月以降は毎月払が義務づけられた。岡谷製糸でも、1919年度の本社工場の雇用契約書(市立岡谷蚕糸博物館蔵「橋爪家資料」)には、賃金について、「毎月壱回御支払被下候事但シ大正八年八月迄ノ分ハ年末閉業帰宅ノ際御清算ノ上御支払ヲ受クル事」と記されている。しかし寄宿工の場合、1919年9月以降も実際には直ちに貯金に振り替えられ、実質は変わらなかったといわれており(桂皋「本邦製糸業労働事情(三)」『社会政策時報』42号、1924年、115頁)、岡谷製糸本社工場も同様だったであろう。
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ということですね。(p49)
従って、会社側から見れば、「逃走」した者に対しては既に働いた分についても賃金の支払いを免れて得をする訳で、それは「逃走」時期が遅ければ遅いほど良い訳ですね。
また、「解雇」する必要がある程ではないにしても、細かい作業が求められる製糸労働に向かない人、寄宿舎での団体生活に向かない人は、会社から見ると早く出て行ってくれた方がありがたい訳で、特に3~5月くらいに「逃走」した人に「実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査」が行なわれたかは疑問です。
「北部工場」の場合、雑に人を集めて「逃走」した人にも雑に対応し、それなりに有能な人は調査したけれど放置も結構多かった、くらいが実情だったではなかろうかという感じがします。
とにかく「北部工場」は168釜程度の規模なので、どこまで一般化できるのかという不安はつきまといますね。
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