第185回配信です。
一、『世尊寺殿の猫』について
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鎌倉時代末期、十六歳の足利高国(のちの直義)は、
書の名人・世尊寺殿の手蹟を入手するよう母に命じられる。
目当ての猫と引き換えに書を渡すと言う世尊寺殿。
高国は彼の真意を探るべく京に旅立つーー。
書をめぐる謎と静かな権力闘争の中、
若き日の足利直義が野望に覚醒する!
https://ronso.co.jp/book/%E4%B8%96%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E3%81%AE%E7%8C%AB/
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鎌倉時代末期、十六歳の足利高国(のちの直義)は、
書の名人・世尊寺殿の手蹟を入手するよう母に命じられる。
目当ての猫と引き換えに書を渡すと言う世尊寺殿。
高国は彼の真意を探るべく京に旅立つーー。
書をめぐる謎と静かな権力闘争の中、
若き日の足利直義が野望に覚醒する!
https://ronso.co.jp/book/%E4%B8%96%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E3%81%AE%E7%8C%AB/
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世尊寺行尹「文保2年(1318年)後醍醐天皇の即位に伴って従四位下に昇叙されている。しかし、それ以後鎌倉時代末から建武の新政にかけての約20年間の動向が明らかでない。文保年間に籠絡されて鎌倉に没落していたともされる(『入木口伝抄』)」
https://x.com/IichiroJingu/status/1842166491250352464
https://x.com/IichiroJingu/status/1842166491250352464
中院通顕が登場するのは、妻「明一」が白拍子だったからだな。『尊卑分脈』にも子の通冬の母としてその旨が明記されている。
https://x.com/IichiroJingu/status/1842169435475632616
https://x.com/IichiroJingu/status/1842169435475632616
『世尊寺殿の猫』読了。歴史小説としてもミステリーとしても完成度が高い作品。巻末の「主要参考文献」には四冊しか載っていないが、中世史研究者が見れば、膨大な史料をかなり忠実かつ巧みに利用していることが分かる。出典探しの楽しみもある。
https://x.com/IichiroJingu/status/1842165526229131441
二、『梅松論』における「後嵯峨院の御遺勅」のその後
建武二年(1335)、中先代の乱の終息後、後醍醐の命に反し、尊氏は上洛せず。
↓
「去程に数万騎の官軍関東へ下向するよし聞えければ、高越後守を大将として大勢をさしそへて海道へつかはさる」(『梅松論・源威集』p72)
これ以降、「官軍」と「将軍の御方」の戦いとなる。
↓
建武三年(1336)二月、赤松円心が西国下向と持明院統の院宣獲得を進言。
p94
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かゝるところに、夜深〔ふけ〕て赤松入道円心潜〔ひそか〕に将軍の御前にまいりて申けるは、縦〔たと〕ひ此陳をうち破て都へ責入といふとも、御方疲て大功をなしがたし。しばらく御陣を西国へうつされて軍勢の気をもつがせ、馬をも休〔やすめ〕、弓箭干戈〔かんか〕の用意をもいたして、かさねて上洛あるべきか。
をよそ合戦には旗をもて本とす。官軍は錦の御旗をさき立つ。御方は是に対向の旗なきゆへに朝敵にあひにたり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後、定て叡慮心よくもあるべからず。急て院宣を申くだされて、錦の御はたを先立らるべきなり。
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p98
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備後の鞆に御着ある処に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是によて人々勇みあへり。いまは朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を上〔あぐ〕べきよし国々の大将に仰つかはされけるこそ目出〔めでた〕けれ。
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「所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば」との認識は「後嵯峨院の御遺勅」に関する認識とかけ離れている。
しかし、『梅松論』の作者は何の疑問も抱いていないように思われる。
この奇妙な現象を合理的に説明した研究者はいるのか。
「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その1)〔2021-04-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1448ec9e316d69b160f02fd0a47257f2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c81d4b38849d8de315fc0f14258e8f9d
スピーディー過ぎる『梅松論』の日程〔2021-04-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cf438df2f963061f2b68d436b4dbc63
「この軍議の席で、謀臣、赤松円心は……」(by 清水克行氏)〔2021-04-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18f285e6cbdc07c4837e9845bc82df53
「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」(by 新田一郎氏)〔2021-04-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9acc75da763272180b216fc2020e4d2
二、『梅松論』における「後嵯峨院の御遺勅」のその後
建武二年(1335)、中先代の乱の終息後、後醍醐の命に反し、尊氏は上洛せず。
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「去程に数万騎の官軍関東へ下向するよし聞えければ、高越後守を大将として大勢をさしそへて海道へつかはさる」(『梅松論・源威集』p72)
これ以降、「官軍」と「将軍の御方」の戦いとなる。
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建武三年(1336)二月、赤松円心が西国下向と持明院統の院宣獲得を進言。
p94
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かゝるところに、夜深〔ふけ〕て赤松入道円心潜〔ひそか〕に将軍の御前にまいりて申けるは、縦〔たと〕ひ此陳をうち破て都へ責入といふとも、御方疲て大功をなしがたし。しばらく御陣を西国へうつされて軍勢の気をもつがせ、馬をも休〔やすめ〕、弓箭干戈〔かんか〕の用意をもいたして、かさねて上洛あるべきか。
をよそ合戦には旗をもて本とす。官軍は錦の御旗をさき立つ。御方は是に対向の旗なきゆへに朝敵にあひにたり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後、定て叡慮心よくもあるべからず。急て院宣を申くだされて、錦の御はたを先立らるべきなり。
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p98
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備後の鞆に御着ある処に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是によて人々勇みあへり。いまは朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を上〔あぐ〕べきよし国々の大将に仰つかはされけるこそ目出〔めでた〕けれ。
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「所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば」との認識は「後嵯峨院の御遺勅」に関する認識とかけ離れている。
しかし、『梅松論』の作者は何の疑問も抱いていないように思われる。
この奇妙な現象を合理的に説明した研究者はいるのか。
「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その1)〔2021-04-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1448ec9e316d69b160f02fd0a47257f2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c81d4b38849d8de315fc0f14258e8f9d
スピーディー過ぎる『梅松論』の日程〔2021-04-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cf438df2f963061f2b68d436b4dbc63
「この軍議の席で、謀臣、赤松円心は……」(by 清水克行氏)〔2021-04-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18f285e6cbdc07c4837e9845bc82df53
「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」(by 新田一郎氏)〔2021-04-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9acc75da763272180b216fc2020e4d2
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