学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

H・カレーヌ=ダンコース『レーニンとは何だったのか』

2017-11-09 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月 9日(木)10時41分28秒

>筆綾丸さん
ご紹介の記事、グーグル翻訳で英語で読んでみましたが、私は最近のロシアではソ連礼賛、スターリン礼賛の勢力がもう少し強くなっているような印象を受けていたので、ちょっと意外でした。

『スターリン 青春と革命の時代』 は面白すぎて、本文だけで六百ページを軽く超える厚さなのに、あっさり読めてしまいました。
これでスターリンは一応押さえたので、後はレーニンとトロツキーかなと思って、とりあえずエレーヌ・カレーヌ=ダンコースの『レーニンとは何だったのか』(石崎晴己・東松秀雄訳、藤原書店、2006、原著は1998刊)を読み始めたのですが、最初の方に筆綾丸さんが言及されたレーニンの家系がかなり詳しく出ていますね。(p22以下)

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 伝説の語るところとは逆に、若きウリヤーノフの家は貧しくもなければ労働者階級に属してもいない。彼が育つ家は広々とした立派な家で、二階建であり、これは相対的繁栄の印である。何人もの召使が奉公していた。これはまさしく、数学の教師を経て、シンビルスク地方の公立学校の視学という、人も羨むポストに任命された一家の長としては当たり前の暮らし向きである。未来のレーニンの父親、イリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフは、長い間、十月革命の英雄を農奴出身とするための根拠とされてきた。確かに曾祖父にヴァシーリー・ウリヤノフという農奴はいたが、彼は一八六一年の改革〔農奴解放〕よりもずっと早い時期に解放されていた。【中略】彼は町に住むことになり、こうして始まった社会的地位の上昇を彼の子孫はさらに継承したのである。息子ニコライ・ヴァシーリエヴィチはアストラハンで仕立屋を営んだ。孫のイリヤ・ニコラーエヴィチはレーニンの父であるが、カザン大学で数学を勉強し、前述のごとく教授となり、総視学となり、とうとう国務院参事官の地位にまで昇りつめ、これにより世襲貴族の地位に到達した。農奴から勲章に身を飾る貴族へと、わずか三世代で昇りつめたのだから、まことに急速な上昇であった。
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アストラハンはヴォルガ川沿いの街ですが、ウラル海に近い場所で、シンビルスク(現ウリヤノフスク)とは直線距離でも千キロメートルくらい離れてますね。


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 このイリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフという人物は、ロシア帝国を代表するような顕著な特質を備えていた。つまりこの上なく異なる文明と民族の坩堝たりうるという特質である。彼はもちろんロシア人だが、その母親はカルムイク人であった。彼女はモンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。エカチェリーナ二世によって自治権が制限された後、ロシアに留まったカルムイク人の大部分は、仏教を捨てて、アストラハンに居住していた。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、特に切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。カルムイクの血を引くことは、父親が貴族に列せられる妨げにはいささかもならなかったのである。
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ウィキペディアの写真で見ると、レーニンの父親は確かに「かなり目立ったアジア系の風貌」をしていて、特に頭の形が独特ですね。
名前を隠して写真だけ見せられたら、何だか明治の元勲にこんな人がいたような感じもしてきそうです。

Ilya Nikolayevich Ulyanov(1831-86)

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 このイリヤはマリヤ・アレクサンドロヴナ・ブランクと結婚したが、これによって家系はさらに複雑になった。将来レーニンとなる人物の母方の祖父、アレクサンドル・ディミトリエヴィチ・ブランクはジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ商人とスウェーデン人女性との子供であった。彼は正教会に改宗し、それによって彼にはあらゆる門戸が開かれた。医学部、要職─彼は警察医、次いで病院医に任命された─、そしてとりわけ世襲貴族の門戸が開かれ、この地位に彼は一八四七年に到達した。彼はまた領地としてコクシキノ村を買うが、これは困難な時期にレーニンの母とその子供たちにとって収入源あるいは避難場所となる。ロシア帝国ではユダヤ人は原則として公職から遠ざけられ、土地の所有も不可能であったことを考えるなら、この驚くべき上昇は、ロシアの大歴史家、レオナルド・シャピーロが力強く主張していることの確証となる。つまりロシアの権力はユダヤ人がユダヤ人のアイデンティティーを主張すると直ちに敵意を持ったが、改宗するとなるとユダヤ人を対象とするあらゆる禁止が取り払われたのである。
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ジトーミルはウクライナ西部、キエフの百キロメートルほど西にある街ですね。
ただ、ウィキペディアによれば、レーニンの母はウクライナのジトーミルではなく、セント・ペテルスブルクで生まれたそうですね。

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Ulyanova was one of six children born in Saint Petersburg. Her father was Alexandr Blank (born Israel Blank), a well-to-do physician, who was a Jewish convert to Orthodox Christianity. Her mother, Anna Ivanovna Groschopf, was the daughter of a German father, Johann Groschopf, and a Swedish mother, Anna Östedt.
In 1838, Ulyanova's mother died and her father turned to his sister-in-law, Ekaterina von Essen, to help raise the children. Together they bought a country estate near Kazan and moved the family there.


そして、レーニンの母方の祖父、アレクサンドル・ディミトリエヴィチ・ブランクが領地として買ったコクシキノ村は、ウィキペディアの記述を見るとカザン近郊のようで、カザンでレーニンの母と父の接点ができたようですね。

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After marrying Ilya Nikolayevich Ulyanov, an upwardly mobile teacher of mathematics and physics, the couple lived in moderate prosperity in Penza. Later, they moved to Nizhny Novgorod and then Simbirsk, where Ulyanov took up a prestigious position as an inspector of primary schools.
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結婚後、二人はペンザ、ニジニ・ノヴゴロド、シンビルスクとヴォルガ川沿いの地域で転居を重ね、シンビルスクでレーニンが生まれる訳ですね。
血統だけでなく、レーニンの祖父母の代からの居住地を見てもなかなか複雑かつ広汎で、ソ連の雄大さを感じさせます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

百年の孤独 2017/11/08(水) 12:46:28
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95
ナージャ・アリルーエワの写真を見て、ヴァージニア・ウルフに似ているな、と思ったのですが、比べると、そうでもないですね。

http://www.rfi.fr/europe/20171106-octobre-1917-heritage-controverse-revolution-russe
フランスの国営ラジオ放送局 rfi にしては珍しいのですが、十月革命について比較的長い記事を載せています。閑古鳥が鳴くような百年記念の祭典だったらしく、本文二行目に、

Une centaine de personnes assiste à un spectacle son et lumière consacré à la révolution,

革命を寿ぐ音と光の祭典の参加者は百人位、とあって、centenaire(百年祭)に une centaine(百人位)の参加者というのは、符節が合いすぎていて笑いを誘いますね。革命について、肯定者と否定者の意見がバランスよく紹介されていますが、なかには、

entre 1921 et 1954, il y a eu 3 millions de personnes arrêtées, c’est vrai, mais il n’y a eu que 600 000 condamnations à mort.・・・

1921~1954の間、三百万人が逮捕されたのは確かだが、しかし、死刑宣告を受けたのは六十万人にすぎない(それは負の側面であって、スターリンの政治はソ連に多大の利益をもたらしたのだ)、とスターリンを肯定する若者もいて、場所がサンクトペテルブルクの冬の宮殿前広場だけに、『罪と罰』のラスコーリニコフのような青年は、現在も、ロシアにうろうろしているんだな、と思いました。要するに、理解するのが難しい国ではありますね。

http://www.rfi.fr/europe/20171106-video-revolution-russe-1917-destin-etonnant-statues-lenine
これは世界各国にあるレーニン像の栄枯盛衰物語です。

http://eumag.jp/questions/f1014/
欧州逮捕状に関して、簡単な説明がありますね。
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1 コメント

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どこのドイツ (ガーゴイル)
2020-12-07 07:43:23
ドイツからソビエトに入った人物は本当はスターリンである。
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