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マジックワードとしての「立憲主義」(その2)

2016-10-09 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 9日(日)10時50分18秒

>筆綾丸さん
>キラーカーンさん
「立憲」という言葉自体は明治時代から普通にありますが、「立憲主義」は昭和になってから、それもごく僅かの例外を除いて戦後の表現ですね。
そして石川健治氏によれば、「立憲主義」が「現在のように豊かな響きをもつマジックワード」として使用されるようになったのは、「七〇年代後半、樋口陽一の登場以降のことである。参照、樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、一九七五年)、同『近代憲法の思想』(日本放送出版協会、一九八〇年)」とのことで、比較的新しい現象ですね。

マジックワードとしての「立憲主義」

今回、『「憲法改正」の真実』を眺めて驚いたのは、樋口氏が、

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 民主主義、デモクラシーとは、人民(デモス)の支配(クラチア)、つまり人民の支配です。突きつめれば、一切の法の制約なしに人民の意思を貫き通す、これが<民主>のロジックですね。
 一方、立憲主義とは「法の支配」、rule of lawです。この law は、国会のつくる法律を指すのではなく、国会すらも手を触れることのできない「法」という意味がこめられています。
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と書いていることです(p40)。
ごく一般的な理解によれば、「法の支配」は英米法的な原理ですね。
ところが、樋口氏は、例えば江川紹子氏によるインタビュー<「立憲主義」ってなあに?>(ヤフーニュース、2015年7月4日)では、

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『立憲主義』はどこから出てきた考え方ですか。

「ドイツです。元々は、民主主義がスムーズに展開しなかったドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。ドイツは普仏戦争に勝って、ようやく1871年に統一します。憲法が作られ、議会も作られる。歴史の流れでは、王権はだんだん弱くなり、議会が伸びてくるわけですが、ドイツの場合は、イギリスやフランスのように議会が中心になるというところまでは、ついに行かなかった。けれど、もはや君主の絶対的な支配ではない。どちらも、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが『立憲主義』です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまりは、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは『民主』で、ドイツは『立憲主義』。明治の日本は、そのドイツにならったわけです。
ドイツはその後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗した。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作るわけです。やはり議会も手放しではよろしくない、ということで」


と答えていて、ドイツ法に疎い私にとってもかなり違和感のある議論です。
これって、一般に「外見的立憲主義」と揶揄されているものなのではないですかね。
そして、「法の支配」との関係はどうなってしまっているのか。
私自身は佐藤幸治の、

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一七八九年のフランスの「人および市民の権利宣言」は、「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない(一六条)と宣明しているが、われわれはここに近代立憲主義の心髄の簡潔な要約をみることができる。
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という理解に従って(『憲法〔新版〕』、青林書院、1990、p6)、何となく「立憲主義」をフランス法的なものと捉えており、樋口氏もそんな立場ではないかなと想像していたのですが、最近の樋口氏が「立憲主義」とは要するに「法の支配」だとかドイツで生まれた考え方なのだとか言われると、ずいぶん混乱してしまいます。
ま、このあたりも個人的には樋口氏の老化を感じる部分なのですが、これは単に私が樋口氏の学説の変遷を丁寧に追っていないだけなのかもしれません。
ただ、正直言って、私は樋口氏にそれほど知的関心を抱いていないので、これ以上追究するのはやめておきます。
フランスの歴史と思想への興味は尽きないのですが、別に樋口氏を介在させる必要など全然なくて、直接にフランスの歴史家・思想家にあたればよいだけの話なので。
それにしても「立憲主義」は本当にマジックワードですね。
様々な学者が様々な意味で「立憲主義」という表現を用い、中には樋口氏のように同一人物でも時と場所によって全く違う(ように見える)意味づけをする人もいて、「立憲主義」は虹色に輝く幻のようです。

立憲主義(ウィキペディア)

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

ビリケン 2016/10/05(水) 12:36:00(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0826-a/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3
田中耕太郎について言及できる知識がなくて、なんですが、『「憲法改正」の真実』に、以下のような箇所があります(37頁~)。
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樋口
(前略)
 意外な感じがするかもしれませんが、比較をすると、現代よりも明治憲法の時代のほうが、立憲主義という言葉は人々のあいだに定着していたのですよ。
 戦前期にどれだけ「立憲」「非立憲」という言葉が一般の人たちにも浸透していたかという例として、ひとつ紹介したいのですが、先生はビリケンをご存知ですか。
小林 大阪の通天閣に「ビリケンさん」の像がありますねえ。顔は浮かびます。幸運を運ぶ神様でしたっけ。
樋口 そのビリケンのニックネームをもらってしまった首相がいますね。
小林 ビリケン首相! 帝国議会を無視した超然内閣として批判を浴びた寺内正毅首相ですね。
樋口 ビリケンの由来は「非立憲」。「非立憲」をもじったうえで「ビリケン寺内」という言葉が、はやったんですね。ビリケンに顔つき、というより頭つきが似ていたからというのもあったのですが、ここでの話のポイントは、一般の人々のあいだで流行語になるくらい「非立憲」ということばが定着していた、ということです。
 では、なぜそんなに「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だったのか。
 天皇主権の明治憲法の時代には、立憲主義というものが、とても分かりやすく見えていたからなのですね。天皇が統治権を総攬していた、あるいは実質的には藩閥政府(のちに軍閥)が権力を握っていたという状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確でしたから。
(後略)
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恥ずかしながら、単にビリケンに似ていたから、と思っていたのですが、確かに「非立憲」を含意していなければ風刺にならないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E4%BA%AB
孫崎享氏は、失礼ながら、亡くなれば、たとえば、孫崎享享年七十七、とかなるのですね。

立憲非立憲 2016/10/06(木) 22:52:32(キラーカーンさん)
>>「ビリケン寺内」

当時、寺内は、自他共に認める「藩閥の権化」山縣の後継者でしたから、当然に「非立憲」側となります。
(桂は、その数年前に鬼籍に入っています。寺内も、首相退任後程なく、山縣に先立ちこの世を去ります
 つまり、山縣は桂、寺内と二人の後継者に先立たれました)

戦前の政党には「立憲○○党」というものが結構あります
立憲政友会、立憲改進党、立憲同志会、立憲民政党、立憲国民党・・・

注目すべきは、伊藤博文が自由党系と伊藤系官僚を糾合して設立した政党にも
「立憲」の二文字が入っていることです(立憲政友会)

立憲を「選出勢力(衆議院)」に基礎を置く政党内閣
非立憲を「非選出勢力(官僚・軍部・貴族院」に基礎を置く超然内閣

との二大政党制的政権交代構造(政治体制論としては、議院内閣制と大統領制との交代体制)
として描いたのが、坂野 潤治が「1900年体制」と名づけたものです
(1900年体制は事実上桂園時代と重なります)
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