学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その3)

2018-12-06 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 6日(木)14時26分5秒

遥か昔の左翼学生運動の話など下らないといえばそれまでなのですが、中村政則氏のような「古老」の文章は、それなりの時代背景を知らないと理解できない部分が多いので、高村直助氏の回想の紹介も全く無駄ではないと思っています。
ということで、続きです。(p35以下)

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 事件のすぐ後、六・一八でした。法文一号館の25番教室で追悼集会をやった後、国会に向けてデモが東大から三千人出たのです。先導車には、宝月圭吾先生と伊藤隆さんが乗っていました。あの時責任者になったのでしょう。それで、威勢のいい連中などは、「こんな葬式デモでは駄目だ」などと文句を言っていた。
上山 伊藤先生はどのような立場だったのですか。
高村 よく分からない。その時はもう国史学科全員が、とにかく何か、愛する人を亡くしたような雰囲気になって。助手も含めてね。やはり、あんな真面目な人なのに警察はひどいと思ったのですね。当日の写真も当時の『国史研究室』に出ていますが、オーバードクターを含めほとんど全員が写っています。
 その後何年続いたのか、六月十五日に東大から追悼デモをやった。国史学科主催といっても、せいぜい二、三十人ですけれども。私は二年間、警視庁に許可をもらいに行きました。三年目は三鬼清一郎さんがやってくれた。僕が嬉しかったのは、石母田正さんが来てくれたことでした。弟が共産党から立候補している人で、当時党は「トロツキスト樺美智子」だったですからね。
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人情の機微を政治に優先させるところは石母田正氏の懐の深さを示していますね。
「共産党から立候補している」弟は石母田達氏で、政治家である同氏の回想には少し注意しなければならない点があることは以前書きました。

石母田正氏が母に海に突き落とされかけた?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f19bea7aac2b683a3883575c49695278
「石母田五人兄弟」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d21499ad28acdbaaa95fb037546497e
「札幌番外地」(by義江彰夫)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f20a8bf7cbd498a77b0b55bab2f3b09
緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f08b4cad02e087ba2b82da9e3792cf2d

ま、石母田兄弟はともかくとして、「反動」歴史学者の代表格と思われている伊藤隆氏が樺美智子追悼デモの先導車に宝月圭吾と一緒に乗っているというのは、今から見れば奇妙な感じもしますが、伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見たところ、伊藤氏は追悼デモを纏め上げるのにずいぶん活躍されたようですね。
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