学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「江戸時代の最初の百年間は、むしろ凄まじい「環境破壊の時代」」(by 磯田道史)

2017-07-19 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月19日(水)09時37分5秒

速水融編『歴史のなかの江戸時代』(藤原書店、2011)は、速水氏が1977年に東洋経済新報社から出した同名の対談集に、その後行なわれた若干の対談・座談を付加して仕立て直した本ですが、末尾の磯田道史との対談を読み直してみたところ、非常に良い内容でした。
実は去年3月、ちょこっと否定的なことを書いてしまったのですが、これは言い過ぎでしたね。

速水融氏とエマニュエル・トッド
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b239c22e2246c22f0345a734821afb09

ミズタニ名誉教授やカルベ教授の著書を読んだ後では、例えば次のような箇所に注目してしまいます。(p414)

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 江戸前期は環境破壊の時代

〔速水〕いま日本の論壇は、一種の「江戸時代ブーム」が真っ盛りです。江戸時代というのは、少なくとも初めと終わりを除けば、何かとても幸せで、平和で、日本古来の文化にあらゆる層が浸ることができた時代であった、と。とくに文化史では、そうした面が強調されがちです。しかし、歴史人口学の立場から言えば、江戸時代がそう語られるほど幸せな時代だったとは決して言えません。
〔磯田〕そうした通俗的江戸論については、僕自身も、いくつかの問題点を論じています。もちろん立派な面もあったけれども、環境にしても、識字率にしても、過大評価されすぎている。
〔速水〕たとえば平均寿命。諏訪地方の例で言えば、十七世紀前半で平均三十歳未満です。それが幕末になると、おおよそ三十歳代後半くらいまで伸びる。明治期になると、四十歳前半というところです。実際は、もっと長く生きた人もたくさんいたわけですが、平均寿命がこうした値になるのは、疫病などで働き盛りの二十代、三十代の死亡が多かった一方で、一歳、二歳といった乳幼児の死亡がとくに多かったからですね。諏訪藩の宗門改帳を見ても、一組の夫婦が八人から一〇人の子供を産んでも、多くの場合、その半分は二歳、三歳で死んでいる。こういう事態を、当時、生きていた人々はどう思ったか。当たり前だと思って、悲しみもしなかったのか。自分たち夫婦が産んだ子供が生まれてすぐ死んでしまえば、やはり悲しかったはずだと僕は思うんですよ。現に、子供を弔う小さな墓が東京にもたくさんある。そういうこと一つとっても、江戸時代は決して幸福なだけな時代ではない。ある限定的な意味では、「江戸時代にすでに近代は始まっていた」とは言えるにしても、もっと注意して江戸時代史像をつくっていかなければならない。決して、バラ色一色にしてほしくないと思います。
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ミズタニ名誉教授やカルベ教授は、単に地域差に鈍感なだけでなく、専ら文化史に着目したために「バラ色一色」の江戸時代史像を描くことができた訳ですが、宗門改帳のような史料を地道に分析している歴史人口学者から見れば、こうした江戸時代史像は虚像に近いものでしょうね。
この後に続く磯田氏の発言は、まるで武井弘一氏の『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか』(NHKブックス、2015)の要約のようです。

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〔磯田〕「江戸時代は環境に配慮した時代だった」といった議論もよくなされますが、少なくとも江戸時代の最初の百年間は、むしろ凄まじい「環境破壊の時代」です。山の植生を調べても、荒れに荒れている。それこそ、速水先生が経済社会の誕生を支えるものとして、耕地面積の拡大を指摘されていますが、耕地がわずか百年ほどで二倍近くに増えるというのは、一体何を意味したか。肥料をとるために、山も、八合目、九合目より上の方だけ、やっと木を残して何とか治山するような状態です。だから洪水が何度も襲ってくる。日本の十七世紀は、まさに環境破壊の世紀だった。自然とさんざん戦って、環境を破壊した後の一七〇〇年頃にようやく、人口増加も落ち着き、ある意味で「閉鎖系」としての日本列島の中で環境と折り合いをつけるところにまで達した、というのが、実は正確なところです。
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