投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 2日(水)09時09分39秒
林健太郎氏は「石母田正氏の思い出」(著作集第4巻月報)において、「(石母田)氏が国史学科の前に哲学科にいたこともあってドイツ語をもよくし、殊に西洋中世の社会史の基本をよく捉えていることを知って益々敬意を深くした」と書かれていますね。
そして、次のように続けます。
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その頃石母田氏は冨山房に勤めていて、私はよくここを訪れて彼と世間話をした。昭和十六年、独ソ戦が始まり、ナチス・ドイツ軍がソ連領を進撃していた頃、我々はもちろんソ連の最後の勝利を疑ってはいなかったが、このドイツの強さは予想外であった。(中略)
やはりこの頃のこと、ある日彼が、自分はかつてゾンバルトの Der moderne Kapitalismus を買って持っているのだが、もうこんな本は要らないから古本屋に売ろうと思っているというので、それなら私が買おうと申し出た。そして私が一〇〇円と買い値をつけたところ、いやその半分の五〇円でよいと彼は言った。私の一〇〇円は口から出まかせであったが、彼の五〇円もその場の拍子だったろう。その頃の古本屋の相場は知らなかったが、私はともかく五〇円でこの大著を買うのは得なような気がした。そこで早速商談が成立し、数日後私は彼から全二巻四冊の大冊を受け取ったが、その後に会った時、彼はこの話を奥さんに話したところ学者が本を売るという法がありますかと大へん叱られたと言った。その時私はよほど、それなら本を返そうと言おうかと思ったが、折角手に入った本を手放すのは惜しい気がしたので、喉まで出かかった言葉をおし止めてしまった。このゾンバルトは今も私の書架にあるが、この本を見ると私は石母田夫人に悪いことをしたという気持ちを禁じ得ない。実は先年石母田氏没後の追悼の会で、私はこの話を披露し、その席には夫人が居られたのであるが、この日私は他用のためそそくさ退席してしまったので、夫人に直接お話する機を逸してしまった。二度目の残念事である。(後略)
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ヴェルナー・ゾンバルト(1863~1941)はマックス・ヴェーバーと一緒に『社会科学および社会政策雑誌』の編集をしていた人ですね。
ネットで見つけた池田浩太郎氏(成城大学名誉教授)の「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト─ゾンバルトとその周辺の人々」という論文によれば、Der moderne Kapitalismus (『近代資本主義』)にもウェーバーの著作が頻繁に引用されているそうで、ウェーバーもまた自分の論文でゾンバルトの見解を相当多量に引用し、検討を加えているような仲なので、石母田氏の問題関心からすれば、当然、ウェーバーの主要著作は全部ドイツ語で読んでいたのでしょうね。
林健太郎氏が「全二巻四冊の大冊」と言われている点は若干微妙で、池田浩太郎氏の論文と照らし合わせると、これは1916年に公刊された第2版の第1・2巻みたいですね。
ゾンバルトは1927年に『近代資本主義』第2版の第3巻『高度資本主義時代の経済政策』 Das Wirtschaftsleben im Zeitalter des Hoch-kapitalismus を出して、第2版は合計3巻6冊、本文3,200ページを超える大著となったそうです。
ま、それはともかく、石母田氏はドイツを中心とするヨーロッパの歴史学の動向は詳しく把握していた訳で、マックス・ウェーバーなど基本中の基本みたいな位置づけだったのでしょうね。
林健太郎
ヴェルナー・ゾンバルト
池田浩太郎氏「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト」
>筆綾丸さん
『中世社会の基層をさぐる』の「あとがき」と「解説」を読みましたが、まことに麗しい、ベタベタした師弟愛ですね。
こういうのを読むと東島誠氏のクールさが一段と光りますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「日蔭茶屋事件のあとさき」 2014/03/28(金) 21:16:38
小太郎さん
勝俣鎮夫氏『中世社会の基層をさぐる』の中の「バック トゥ ザ フューチュアー」を読みましたが、僭越ながら、素晴らしい論考ですね。
むかし、永井荷風の『つゆのあとさき』を読んだとき、小説の内容はともかく、なぜ「あとさき」で「さきあと」ではないのだろう、と思い、以来疑問でしたが、なかなか難しい問題なのですね。
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(心中して生きのびた二人が)さきにて行あひ、幽霊かと思ひ胆をけし、(「昨日は今日の物語」一六二〇刊)
(中略)
「アトヨリモ見事ナ花が開イタゾ」(「江湖風月集略注鈔二」寛永十年・一六三三年刊)(12頁)
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前者の「サキ」は未来の意、後者の「アト」は過去の意で、戦国時代、特に16世紀に新たな語意が生まれたようだ、と勝俣氏は言われます。「あとさき」という語への言及はありませんが、おそらく、これは戦国時代以後のもので、「つゆのあとさき」は「梅雨の前後」となり、時間の因果がスッキリしますね。
Back to the Future という表現はホメロスの『オデュッセイ』に由来し、背中から未来へ入って行く、というニュアンスがあり、ポール・ヴァレリーもよく同じような文句を好んだ、といような記述が続き、格調の高いエッセーのようですね。こういう洒脱な文章を読むと、中世史はいいなあ、と思いますが、桜井氏の『中世史への招待』では、中世史はつまらんのだろうな、という気になります。
http://www.chaya.co.jp/hikage/hikage_news.html
なお、同署の「あとがき」と桜井氏の「解説」には、葉山の海辺の茶屋に遊び、美味しい料理を楽しみ盃を重ねた、とありますが、これは葉山マリーナに近い日影茶屋なのだろうな、きっと。以前行ったとき、店員さんに、大杉栄が神近市子に刺されたのはどの辺でしたか、と尋ねたら、中庭の灯篭を指して、あの辺だと聞いております、ということでした。茶屋の前の道を三浦方面にしばらく行くと、『吾妻鏡』所載の森戸神社があり、そのさきは葉山の御用邸で、さらに行くと、鏡花の『草迷宮』の舞台ですね。運慶の仏像がある浄楽寺もこの辺ですね。
また、東島誠氏『公共圏の歴史的創造』には、
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・・・詩歌の世界においては、宗末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており・・・(274頁)
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と、江湖風月集への言及がありますね。
小太郎さん
勝俣鎮夫氏『中世社会の基層をさぐる』の中の「バック トゥ ザ フューチュアー」を読みましたが、僭越ながら、素晴らしい論考ですね。
むかし、永井荷風の『つゆのあとさき』を読んだとき、小説の内容はともかく、なぜ「あとさき」で「さきあと」ではないのだろう、と思い、以来疑問でしたが、なかなか難しい問題なのですね。
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(心中して生きのびた二人が)さきにて行あひ、幽霊かと思ひ胆をけし、(「昨日は今日の物語」一六二〇刊)
(中略)
「アトヨリモ見事ナ花が開イタゾ」(「江湖風月集略注鈔二」寛永十年・一六三三年刊)(12頁)
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前者の「サキ」は未来の意、後者の「アト」は過去の意で、戦国時代、特に16世紀に新たな語意が生まれたようだ、と勝俣氏は言われます。「あとさき」という語への言及はありませんが、おそらく、これは戦国時代以後のもので、「つゆのあとさき」は「梅雨の前後」となり、時間の因果がスッキリしますね。
Back to the Future という表現はホメロスの『オデュッセイ』に由来し、背中から未来へ入って行く、というニュアンスがあり、ポール・ヴァレリーもよく同じような文句を好んだ、といような記述が続き、格調の高いエッセーのようですね。こういう洒脱な文章を読むと、中世史はいいなあ、と思いますが、桜井氏の『中世史への招待』では、中世史はつまらんのだろうな、という気になります。
http://www.chaya.co.jp/hikage/hikage_news.html
なお、同署の「あとがき」と桜井氏の「解説」には、葉山の海辺の茶屋に遊び、美味しい料理を楽しみ盃を重ねた、とありますが、これは葉山マリーナに近い日影茶屋なのだろうな、きっと。以前行ったとき、店員さんに、大杉栄が神近市子に刺されたのはどの辺でしたか、と尋ねたら、中庭の灯篭を指して、あの辺だと聞いております、ということでした。茶屋の前の道を三浦方面にしばらく行くと、『吾妻鏡』所載の森戸神社があり、そのさきは葉山の御用邸で、さらに行くと、鏡花の『草迷宮』の舞台ですね。運慶の仏像がある浄楽寺もこの辺ですね。
また、東島誠氏『公共圏の歴史的創造』には、
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・・・詩歌の世界においては、宗末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており・・・(274頁)
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と、江湖風月集への言及がありますね。