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学問空間

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ゾンバルトのDer moderne Kapitalismus

2014-04-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 2日(水)09時09分39秒

林健太郎氏は「石母田正氏の思い出」(著作集第4巻月報)において、「(石母田)氏が国史学科の前に哲学科にいたこともあってドイツ語をもよくし、殊に西洋中世の社会史の基本をよく捉えていることを知って益々敬意を深くした」と書かれていますね。
そして、次のように続けます。

--------
 その頃石母田氏は冨山房に勤めていて、私はよくここを訪れて彼と世間話をした。昭和十六年、独ソ戦が始まり、ナチス・ドイツ軍がソ連領を進撃していた頃、我々はもちろんソ連の最後の勝利を疑ってはいなかったが、このドイツの強さは予想外であった。(中略)
 やはりこの頃のこと、ある日彼が、自分はかつてゾンバルトの Der moderne Kapitalismus を買って持っているのだが、もうこんな本は要らないから古本屋に売ろうと思っているというので、それなら私が買おうと申し出た。そして私が一〇〇円と買い値をつけたところ、いやその半分の五〇円でよいと彼は言った。私の一〇〇円は口から出まかせであったが、彼の五〇円もその場の拍子だったろう。その頃の古本屋の相場は知らなかったが、私はともかく五〇円でこの大著を買うのは得なような気がした。そこで早速商談が成立し、数日後私は彼から全二巻四冊の大冊を受け取ったが、その後に会った時、彼はこの話を奥さんに話したところ学者が本を売るという法がありますかと大へん叱られたと言った。その時私はよほど、それなら本を返そうと言おうかと思ったが、折角手に入った本を手放すのは惜しい気がしたので、喉まで出かかった言葉をおし止めてしまった。このゾンバルトは今も私の書架にあるが、この本を見ると私は石母田夫人に悪いことをしたという気持ちを禁じ得ない。実は先年石母田氏没後の追悼の会で、私はこの話を披露し、その席には夫人が居られたのであるが、この日私は他用のためそそくさ退席してしまったので、夫人に直接お話する機を逸してしまった。二度目の残念事である。(後略)
--------

ヴェルナー・ゾンバルト(1863~1941)はマックス・ヴェーバーと一緒に『社会科学および社会政策雑誌』の編集をしていた人ですね。
ネットで見つけた池田浩太郎氏(成城大学名誉教授)の「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト─ゾンバルトとその周辺の人々」という論文によれば、Der moderne Kapitalismus (『近代資本主義』)にもウェーバーの著作が頻繁に引用されているそうで、ウェーバーもまた自分の論文でゾンバルトの見解を相当多量に引用し、検討を加えているような仲なので、石母田氏の問題関心からすれば、当然、ウェーバーの主要著作は全部ドイツ語で読んでいたのでしょうね。
林健太郎氏が「全二巻四冊の大冊」と言われている点は若干微妙で、池田浩太郎氏の論文と照らし合わせると、これは1916年に公刊された第2版の第1・2巻みたいですね。
ゾンバルトは1927年に『近代資本主義』第2版の第3巻『高度資本主義時代の経済政策』 Das Wirtschaftsleben im Zeitalter des Hoch-kapitalismus を出して、第2版は合計3巻6冊、本文3,200ページを超える大著となったそうです。
ま、それはともかく、石母田氏はドイツを中心とするヨーロッパの歴史学の動向は詳しく把握していた訳で、マックス・ウェーバーなど基本中の基本みたいな位置づけだったのでしょうね。

林健太郎

ヴェルナー・ゾンバルト

池田浩太郎氏「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト」

>筆綾丸さん
『中世社会の基層をさぐる』の「あとがき」と「解説」を読みましたが、まことに麗しい、ベタベタした師弟愛ですね。
こういうのを読むと東島誠氏のクールさが一段と光りますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「日蔭茶屋事件のあとさき」 2014/03/28(金) 21:16:38
小太郎さん
勝俣鎮夫氏『中世社会の基層をさぐる』の中の「バック トゥ ザ フューチュアー」を読みましたが、僭越ながら、素晴らしい論考ですね。
むかし、永井荷風の『つゆのあとさき』を読んだとき、小説の内容はともかく、なぜ「あとさき」で「さきあと」ではないのだろう、と思い、以来疑問でしたが、なかなか難しい問題なのですね。
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(心中して生きのびた二人が)さきにて行あひ、幽霊かと思ひ胆をけし、(「昨日は今日の物語」一六二〇刊)
(中略)
「アトヨリモ見事ナ花が開イタゾ」(「江湖風月集略注鈔二」寛永十年・一六三三年刊)(12頁)
-------------------
前者の「サキ」は未来の意、後者の「アト」は過去の意で、戦国時代、特に16世紀に新たな語意が生まれたようだ、と勝俣氏は言われます。「あとさき」という語への言及はありませんが、おそらく、これは戦国時代以後のもので、「つゆのあとさき」は「梅雨の前後」となり、時間の因果がスッキリしますね。
Back to the Future という表現はホメロスの『オデュッセイ』に由来し、背中から未来へ入って行く、というニュアンスがあり、ポール・ヴァレリーもよく同じような文句を好んだ、といような記述が続き、格調の高いエッセーのようですね。こういう洒脱な文章を読むと、中世史はいいなあ、と思いますが、桜井氏の『中世史への招待』では、中世史はつまらんのだろうな、という気になります。

http://www.chaya.co.jp/hikage/hikage_news.html
なお、同署の「あとがき」と桜井氏の「解説」には、葉山の海辺の茶屋に遊び、美味しい料理を楽しみ盃を重ねた、とありますが、これは葉山マリーナに近い日影茶屋なのだろうな、きっと。以前行ったとき、店員さんに、大杉栄が神近市子に刺されたのはどの辺でしたか、と尋ねたら、中庭の灯篭を指して、あの辺だと聞いております、ということでした。茶屋の前の道を三浦方面にしばらく行くと、『吾妻鏡』所載の森戸神社があり、そのさきは葉山の御用邸で、さらに行くと、鏡花の『草迷宮』の舞台ですね。運慶の仏像がある浄楽寺もこの辺ですね。

また、東島誠氏『公共圏の歴史的創造』には、
---------------------
・・・詩歌の世界においては、宗末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており・・・(274頁)
---------------------
と、江湖風月集への言及がありますね。
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『古代文化没落の社会的諸原因』

2014-03-31 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月31日(月)20時06分32秒

ここ暫く、石母田氏は一体いつからウェーバーを読んでいたのだろう、というプチ疑問を抱いていたのですが、石井進氏の「『中世的世界』と石母田史学の形成」(『中世史を考える─社会論・史料論・都市論』所収、初出は『歴史学研究』556号、1986年7月)によれば、1943年の「宇津保物語についての覚書」執筆時までは確実に遡りますね。

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(前略)
 やがて一九四三年四月、歴史学研究会日本史部会で口頭発表され、同年末『歴史学研究』に掲載された「宇津保物語についての覚書─貴族社会の叙事詩としての」は、先生の研究の一つの転機を示す重要な論文です。平安朝の文学として注目されることの少なかった「宇津保物語」をとり上げ、「没落しようとする古代社会及び古代都市の歴史的表現として」理解しようとする視角は斬新であり、後年の「英雄時代論」や「平家物語論」につながる指摘もすでになされています。特に古代的世界の没落という問題意識が正面におし出されたことが特徴的です。
 先生に伺ったところでは、「学生時代、西洋史の山中謙二さんの講義をききながら、古代から中世への展開の過程を、西欧のような諸民族の隆替、交渉史でなく、一民族内にローマ的、ゲルマン的なものをともにふくむ日本史の舞台で明らかにしたい、と考えたことがまず一つあった」、「それを社会構成論の奴隷制への展開としてとらえようとした。そこで<寺奴>の問題が出てきた」ということでした。また「古代世界の没落という関心は西洋史からですね。ウェーバーは読みましたよ。あの<ウンターガング・・・>、短いものだが、あれだったかな?」とも伺いました。その後、数日たって又お訪ねしましたが、その時には机の上に『社会経済史論集』が出しており、「これが『古代文化没落の社会的諸原因』ですよ。<没落(ウンターガング)>にひかれて読んだところ、これが面白くてねぇ」とのお話でした。
 この論文は、古代社会構造の独自性を①都市文化、②沿岸文化、③奴隷文化の三点でとらえた後、その基礎構造をなす奴隷制が、ローマ帝国による侵略戦争の停止後、人間商品の供給不足の結果決定的に変質し、①’田園文化、②’内陸文化、③’荘園制という対極的特徴をもつ中世社会に移行したことを強調する、きわめて鋭い内容であります。とくに社会的諸原因のうち、奴隷制の変質の一点に問題をしぼりこんだところは、マルクスの歴史観を想起させる部分があります。先生が強い印象をうけられたのも、さこそと思われます。
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まあ、石母田氏の教養からすれば、全く当たり前の話でしたね。
もしかしたら旧制二高時代くらいまで遡るのかもしれませんが、ウェーバーにはマルクス主義の文献のような熱さはありませんから、石母田氏が面白いと思うようになったのは直接的な政治運動から離れた後なんでしょうね。
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石母田氏が砂漠に立った時期

2014-03-30 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)22時52分59秒

著作集第16巻に載っている板垣雄三氏の「追想・砂漠に立つ石母田さん」というエッセイは、『日本の古代国家』に至る石母田氏の思考の変化を探る上で、非常に興味深いものですね。

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(前略)
 砂漠の地平線を眺めながら、石母田さんはしみじみと、独特の計数と管理の対象たる財をかかえて移動する遊牧民という存在のおもしろさを語った。そして、世界史において、生産関係のあり方がたえず土地所有形態に還元されうるような社会ばかりがあるのではないという問題に多大の興味を示された。私もつりこまれ、遊牧民・職人の商人的性格やヨーロッパ人が持ち込んだ抵当権の観念とイスラム法との関係についてのべたりした。
 のちに石母田さんが岩波講座『世界歴史』別巻に書かれた「東洋社会研究における歴史的方法について─ライオット地代と貢納制─」を読んで、実は不満だった。トンガなどポリネシアの社会が海の民のそれとして十分に論じられていないと思ったからだ。しかし、『日本の古代国家』(岩波・日本歴史叢書)を読んで納得した。国家成立史における国際的契機の論議は、私には、エジプトでの対話の続編のように感じられたからである。
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ただ、このエッセイは冒頭に変な記述があります。

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 四半世紀もむかしのことなのに、不思議にも印象は鮮やかに残っている。石母田さんがローマからカイロに飛んできて、一週間エジプトに滞在されたのは、一九六六年三月下旬のことだった。私の記憶に間違いがなければ、法政大学法学部長の任期を終えられたあとヨーロッパ遊学の旅に出られ、ドイツや英国にしばしとどまったのち、帰国の途次、中東を訪問されたのであったと思う。そのとき、私は在外研究のため単身カイロに居住していた。
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著作集第十六巻の「年譜」を見ると、

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1965年(昭和40) 52歳
4月 ヨーロッパに留学、1か所2か月滞在の原則で、オーストリア・ドイツ・イギリスの大学と研究所を巡り、研究する。 その間、10月にコンスタンツ中世史研究会で講演(10月、ライヒェナウ)。
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とあり、板垣雄三氏が「ヨーロッパ遊学の旅に出られ、ドイツや英国にしばしとどまったのち、帰国の途次、中東を訪問された」石母田氏を案内したという「一九六六年三月下旬」と時期が合わないですね。
「年譜」には1966年の記述は全く存在していないので謎としか言い様がありませんが、可能性としては時期は板垣氏の記憶が正しくて、エジプトは短期の旅行だったので「年譜」には記載されなかった、ということですかね。

※追記(4月9日)
上記は私の完全な勘違いで、ヨーロッパ留学は1年間だったそうです。
帰国時にエジプト訪問ということで、何の問題もありませんでした。
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「戦後の日本古代史研究の最大の成果」

2014-03-30 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)22時29分51秒

大津透氏の「古代史への招待」(『岩波講座日本歴史第1巻 原始・古代1』(2013年)を見たら、石母田正氏の『日本の古代国家』が絶賛されてますね。(p5以下)

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一 石母田正『日本の古代国家』

 戦後の日本古代史研究の最大の成果は、石母田正『日本の古代国家』(一九七一)であろう。古代国家の特色を考える上で、避けて通れない、現在の日本古代史の基礎に存在する著作といえる。石母田は、いうまでもなくマルクス主義にもとづく戦後の歴史学と運動を支えた人物だが、本書では、単純に既存の理論をあてはめるのではなく、日本の歴史に実際に適合する新たな理論を、文化人類学の成果を学ぶことによって作り上げた─在地首長制という─点に、大きな意味があり、戦後の古代史研究の画期ともいえる。また著者は、唯物史観にもとづく歴史学研究会の中枢にいたのだが、本書においては、そうした左派的研究よりもむしろ、対立していたはずの右派というべき実証的考証論文が多く参照されていて、戦後二五年余りで積み重ねられた実証的研究成果を見事に統合し、それに新たな意味を与えたという点でも、画期といえるだろう。
 詳しく内容には立ち入らないが、第一章「国家成立史における国際的契機」では、国際関係を、国家成立のための契機、原因として(対外交渉史ではなく)とらえる。現在では東アジア史のなかで日本の古代を考えることは常識になっているが、これはそのさきがけとなった。マルクス主義では、歴史は社会の階級分化にはじまり社会・経済要因により自律的に発展すると考えるので、その歴史像は一国中心主義になりがちであり、それへの反省でもあるだろう。
(中略)
 実証的研究をとりこんでなされた天皇制や律令官制の分析には独自な視点があり、そうした面でも本書の影響は大きい。しかし本書の主眼は、第二、四章の、首長が共同体を代表し、共同体の生産力自体を体現するとする「在地首長制」論にある。戦後の国民的歴史学運動の挫折をふまえて、新たな理論を作り、日本の古代国家が首長制の上に成り立っているという特質を鮮やかに示したのである。(後略)
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普通の人だったら「国民的歴史学運動の挫折」でへこたれたんでしょうけど、元々タフな石母田氏はその後の「歴研危機」(岩波書店との金銭的なトラブル、「歴史学研究」の発売元の青木書店への変更等)を乗り切り、60年安保闘争で頑張って、おまけに1963年には法政大学法学部長になって約2年間職務に忙殺されたそうですね。
法学部長の任期を終えた後、石母田氏は1965年に52歳でヨーロッパに半年間留学し、また板垣雄三氏に案内されてエジプト旅行をされたそうですが、これはけっこう大きな出来事だったようで、この後は文体もペシミスティックな気配がすっかり消えた感じがしますね。(個人の感想です)

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「石母田正の父とその周辺」

2014-03-28 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月28日(金)20時27分50秒

掲示板投稿の保管庫にしているブログ「学問空間」にて、カテゴリー「石母田正の父とその周辺」を新設しました。


タイトルは以前纏めたカテゴリー「網野善彦の父とその周辺」と揃えてみました。


4ヶ月前の時点では石母田正氏に何の親しみも尊敬の念も覚えず、『中世的世界の形成』すらまともに読んだことがなかった私ですが、今では親戚のおじさんみたいな感じになりました。
ここまでのめり込んだ理由のひとつは大震災後、石巻に土地勘が出来ていたことで、何で石巻から石母田氏のようなタイプの歴史家が出たのだろう、という疑問がありました。
まあ、様々な偶然から石母田氏は石巻に生まれ、恐ろしいほど明敏な頭脳を持ちながら、仙台での旧制高校時代に当時流行の最先端だった共産主義思想に関わり、通常のエリートコースからはずれて歴史の渦の中に自ら飛び込んで行った訳で、なかなかドラマチックな人生ですね。
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牧野雅彦氏『マックス・ウェーバー入門』

2014-03-27 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月27日(木)09時15分11秒

自分はマックス・ウェーバーを本当に偏った観点から眺めているだけかもしれない、という漠然とした不安を感じていたので、最近の研究動向を知りたいと思い、牧野雅彦氏の『マックス・ウェーバー入門』(平凡社新書、2006年)を手に取ってみたところ、非常に良い本でした。
牧野氏はウェーバーを知的世界に聳立する単独峰と捉えるのではなく、ウェーバーが自らの問題意識を明確化するに至った学問的な環境、特に「歴史学派」の知識人の基本的発想を丁寧に説明してくれていて、なるほどなあと思いました。
中世史関係と平行して、牧野氏の著作はいろいろ読んでみたいですね。
『ヴェルサイユ条約―マックス・ウェーバーとドイツの講和』(中公新書、2009年)は、以前書名が気になって購入したのですが、暫くして行方不明になってしまったので、まず捜索せねば。

※『マックス・ウェーバー入門』の感想の一例

牧野雅彦
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石母田氏へのオマージュ?

2014-03-23 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月23日(日)21時37分31秒

>筆綾丸さん
『天皇制史論』は図書館でコピーしたものを読んでいるのですが、エピグラフはコピーの対象外だったため、ご指摘の点は全く気づいていませんでした。
水林彪氏は先行研究として石母田氏の著作を極めて重視されており、『日本の古代国家』でのルソーの引用に着眼されないはずがないので、『天皇制史論』での重ねての引用は石母田氏へのオマージュかもしれないですね。

>強力
forceの訳語については事情が分かりませんが、ドイツ語のgewaltの場合、政治学の世界では「強力」「暴力」「物理的強制力」といった訳語が用いられています。
水林彪氏もごく初期の論文、例えば「近世の法と国制研究序説(一)~(六)-紀州を素材として」などでは「強力」に「ゲヴァルト」とルビを振ったりしていますね。
学問的に一番正確な訳語はおそらく「物理的強制力」でしょうが、漢字6字では何度も出てくると煩わしいですし、「強力」では小麦粉だとか富士山で荷物をかつぐ人などのイメージも浮かんでしまうので、現在では消去法的に「暴力」という訳語が定着しているようです。
石母田氏がforceを「強力」と訳した理由は分かりませんが、gewaltとパラレルで考えてよいように思います。
ちなみに、gewaltについてはマルクス主義の世界ではもう少し細かい議論があるようで、少し検索してみたところ、「京都弁証法認識論研究会」という会のサイトには「力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)は区別されなければならず、国家は何よりもまずイデオロギー的な権力として把握されるべきである」といった説明がありますね。

「京都弁証法認識論研究会」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

反黒箱 2014/03/23(日) 17:07:57
小太郎さん
水林彪氏『天皇制史論』の冒頭のエピグラフにも、
-----------------
最も強いものでも、自身の力(force)を権利(droit)に、服従を(obéissance)を義務(devoir)に転化させない限り、いつまでも主人であり得るほど、強いものではない。(ルソー『社会契約論』第一編第三章)
-----------------
とありますが、石母田氏は「force」に「強力」という訳語をあてているのですね。強力犯などを念頭に置いた語でしょうか。

http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20140321-taiwan-chine-accord-libre-echange-Ma-Ying-Jeou-parlement-manifestants-parlement/
中国への併合もあるのではないか・・・というような不安から、台湾では、馬英九総統の黒箱(密室)政治への批判が大きな運動になっているようですが、総統の額の文字にはどんな風刺が込められているのか、これがわかりません。
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『歴史家の読書案内』

2014-03-23 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月23日(日)09時49分39秒

石井進氏編の『歴史家の読書案内』(吉川弘文館、1998年)を眺めてみたら、やはり石母田正氏の著書を挙げている人がけっこう多いですね。
吉田孝氏(1933年生まれ、青山学院大学名誉教授)は「現代と対決する歴史学」というタイトルで、次のように書かれています。(p216以下)

--------
 「最も強いものでも、自分の強力を権利に、服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人であり得るほどに強いものでは決してない」─これは石母田正『日本の古代国家』の目次と第一章とのあいだの余白に、小さな活字で組まれた、ルソー『社会契約論』の一節である(なお岩波文庫の桑原武夫ほか訳では「(他人の)服従を義務にかえないかぎり」と補っている)。私は『日本の古代国家』が刊行された直後から繰り返し読んだが、石母田がこの小文に託した思いの重さに気が付いたのは、ずい分あとのことである。
 『日本の古代国家』の中心テーマとして注目されてきたのは、「律令制国家は、国家対公民の関係と、在地における首長層対人民の関係との二重の生産関係の上に成立している」とする二重構造論であり、「第一の国家対公民の支配=収取関係は、それが律令国家として圧倒的に社会を支配した段階においても、第二次的・派生的生産関係であり、第二の首長層対人民の生産関係が第一次的・基本的である」とする構想であった。そして首長層と人民の関係を、ポリネシアのサモアやトンガについての人類学者の研究などを十分に吸収しながら、独自に新しく「アジア的首長制」という概念に構成したものであった。石母田の首長制の概念は、人類学のchiefdom(首長制社会とか首長国と訳される)と重なる部分もあるが、石母田独自の概念であり、概念構成が曖昧であるとか、マルクスの理論から逸脱している、という批判もある。しかし石母田の基本的な立場は、マルクスの理論を、マルクスが接しえなかった現代の学問的成果─とくに未開社会や東洋社会についての民族学や東洋学の新しい段階─に立って、深化し発展させることであった。石母田にとっては、マルクスの理論からの逸脱よりも、事実との緊張関係の方が大切だったのではなかろうか。
 『日本の古代国家』の刊行後、古代史学界の関心は、首長制の問題に向けられることが多かった。しかし石母田にとっての第一の関心は、その書名が示すとおり、なによりも「国家」の問題だった。石母田がこの本の執筆を構想したころ、ソ連と中国では革命の路線をめぐる論争が激化し、中国では文化大革命が進行していた。石母田はその状況を、「国家の死滅」が歴史の議事日程にのぼっている時代としてとらえ、現代の歴史学は、その問題と対決する歴史学でなければならない、という。「国家」とは何か、その本質を国家の生成する具体的な歴史過程のなかで明らかにしよう─それが『日本の古代国家』の基本的なテーマであった。(後略)
---------

『日本の古代国家』は1971年の刊行なので、構想時には「ソ連と中国では革命の路線をめぐる論争が激化し、中国では文化大革命が進行していた」訳ですが、その後四十年以上経過しても、なかなか「国家の死滅」に至らないどころか、ロシアのクリミア併合のように帝国主義時代の再来のような出来事まで起きる始末で、国家というのはなかなか難しい存在ですね。
ところで私も『日本の古代国家』のルソーの言葉を見て、これは何故ここに置かれているのだろうと不思議に思いました。
直接の引用はルソーの『社会契約論』からですが、この内容はまさにマックス・ウェーバーの「支配の正当性」論そのものですね。

『歴史家の読書案内』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34489.html
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石母田「正」の由来、再論

2014-03-20 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月20日(木)10時43分55秒

>筆綾丸さん
>石仏
「親友」の荒井泰治が中江兆民にフランス語を学んでいたと聞いて、最初は「仏」にフランスの可能性もあるのかな、などと想像したのですが、これは考えすぎでした。
石母田正氏への教育方針から見ても、正輔氏の関心は「英学」に止まっていますね。
「石仏」に関係するものではありませんが、正輔氏のネーミングのセンスを伺わせるものとして、五人兄弟の長兄、俊(しゅん)氏の「弟、達の誕生」というエッセイは参考になります。
(『激動を走り抜けた八十年』、p60以下)

-----------
 達(たつ)は、私たち五人兄弟の末弟である。
 私たちの家は北上河畔にあって、ちょっと大げさな言い方をすれば、二階から長い釣竿で、魚が釣れるほどの河岸にあった。
 大正十三年五月十一日は、陰暦の四月八日、釈迦誕生の日であった。向こう岸の不動堂から、祭り太鼓の音が川面をまりのようにころがってきた。書画骨董好きの父と私は、二階でこの日にちなんだ釈迦の画をしきりに探していた。そのとき、女中のばかでかい声が、階段の中ごろで叫んだ。
「また男の子ですって!」
ふと私の心中を横切った斉藤茂吉の歌─
「あらたなる命のこえのすこやかさ 吾子は生まれたり吾子は生まれたり」
「どうだ、名前を考えてみたら・・・・」
と父が言う。私は咄嗟(とっさ)に、
「今日はお釈迦さんの日でしょ。悉達多(しったるた)の達では?」
「うん、それがいい。達はいい─」
人間一生の符牒は、かくも簡単に決するものか。長じて鈍重な性格。ものおじしない子供。それでいて人一倍、思いやりのあるやさしい性格を持っていた。顔が三陸海岸で捕れるほやに似ていた。
 長いこと達にまつわりついて離れなかった代名詞。達のために、ほやをまだ知らない方は、どうか知らないでいてほしい。達が可哀想である。
 釈迦の教えがどんなものか、私は知らない。もし釈迦の教えが、人格の尊厳と人間の平等をその教理の根本思想としているならば、悉達多の一字を名に冠した達こそその生涯を虐げられる者のために、燃焼し尽すであろうし、また尽くさずんばおれない弟であることを、誰よりも私は堅く信じている。
(筆者は、長兄・東京都庁勤務。桃源社刊「江戸っ子」「東京から江戸へ」の著者)
--------

なかなか洒脱な文章ですね。
さて、1924年の達氏誕生の時点で正輔氏(1861年生まれ)は既に数えで64歳、長兄の俊氏(1908年生まれ)は17歳ですが、徹底した無神論者であるはずの正輔氏が「悉達多(しったるた)の達」に簡単に賛成している点は興味深いですね。
ま、宗教的信念とは別に、けっこう軽い感覚で名前をつけている訳ですね。
また、父親と厳しく衝突した正氏と異なり、長兄の俊氏と正輔氏の関係が極めて良好であることも興味深い点です。
正氏の「正」が「正輔」氏の「正」を継承したものならば、長男の俊氏としては面白くないはずです。
二人の関係が極めて良好であることは、正氏の「正」は長男にも十分納得の出来る理由があるのではないか、即ち「大正」の「正」ではないか、という私の仮説の傍証にはなりそうですね。

伊藤之雄氏の『政党政治と天皇 』(講談社「日本の歴史」22、2002年)には1912年7月30日の明治天皇崩御後、9月13~15日に行われた「大喪の礼」までの中央・地方の様子が描かれていますが、正氏の誕生は9月9日なので、「大正」の「正」は新時代の到来を告げる非常に新鮮な響きを持った言葉だったはずですね。

※追記
下記記事を踏まえての「再論」です。

「町制初まつて以来の移入町長」」(その1)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

石母田上人と山頭火 2014/03/19(水) 15:42:01
小太郎さん
石仏というと、田んぼの畦道に赤い前掛けをした地蔵様が佇んでいて、秋の実りの頃、赤とんぼが石頭に羽を休めている・・・というような山頭火的光景が浮かんできます。

蓮如といえば、親鸞の「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」を思い出しますね。石母田上人にすかされまいらせて、中世を研究したが、断じて後悔していない・・・。

蛇足
http://en.wikipedia.org/wiki/File:HistoryOfUniverse-BICEP2-20140317.png
http://mainichi.jp/select/news/20140318k0000e040183000c.html
以前、大栗博司氏(『重力とは何か』『超弦理論入門』)のビッグバンの記述について、これほど優秀な人がなぜ二度も間違えたのか、と書きましたが、二つの図解を較べると、基本概念が全然違うのですね。
私はウィキの図のように理解してビッグバンが宇宙の誕生と思っていましたが、毎日新聞の図によれば、ビッグバンの前にインフレーションがあり、さらにその前に宇宙の誕生がある、ということになるのですね。ウィキの図にまだ正しいところがあるとすれば、位相の違う二種類の重力波があるようですが、今回の発見はどちらなのだろう?
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荒井泰治

2014-03-20 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月20日(木)09時53分25秒

しばらく続けてきた石母田正輔シリーズ、そろそろいったん休みたいと思います。
面白そうな材料はいろいろあって、特に興味深いのが石母田正輔氏の「親友」、荒井泰治(1861~1927)ですね。
最初は後藤新平周辺で利権を狙っていた人物なのかなと思ったのですが、荒井は中江兆民の塾で学んだ後、仙台藩出身の富田鉄之助が副頭取だった日本銀行に入り、『銀行誌』という書籍も執筆したそうで、相当ハイレベルのインテリですね。

「賀田金三郎研究所のブログ」(※仙台市史編さん室長菅野正道氏の著書の引用)
http://blogs.yahoo.co.jp/hualien_history/45895009.html

実業家として成功した後も、東北大学へ「狩野文庫」を寄贈するなどの文化支援活動を行っていたそうです。

--------
東北大学百年史編纂室ニュース第5号

狩野亨吉先生と東北大学
 東北大学附属図書館が所蔵する「旧蔵者の名を冠する個人文庫」のうち、最大のものが「狩野文庫」である。国宝二点を含む十万八千冊の蔵書量と、研究用文献として古今無双の質の高さを誇り、近年その一部がマイクロフィルム版として公刊されたため、広く内外の研究者を稗益している。
 この「狩野文庫」は、大正元年に仙台出身の資産家で貴族院議員荒井泰治氏からの奨学寄付金三万円をもって買い入れた、文学博士狩野亨吉の旧蔵書であり、その後数次にわたり追加されたものである。
http://www2.archives.tohoku.ac.jp/hensan/news/kiji5.htm

荒井泰治に関しては『荒井泰治傳』(奥山十平, 新井一郎編、明文社、1916)という伝記があるそうで、おそらくこれに石母田正輔氏への言及があるのではないかと期待しているのですが、国会図書館にも置いていないので、閲覧は少し先になりそうです。

「荒井泰治傳」
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN1121654X
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定山渓鉄道と石母田正輔氏の関係

2014-03-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月19日(水)10時16分45秒

私は今まで石母田正氏の母親のお名前を『石巻市史』に従って「まつ子」としてきましたが、『石母田正著作集』第16巻の「年譜」を見たら「まつ」になってますね。
この部分は明らかにご家族の監修を経ているはずですので、「まつ」が正しいのでしょうね。
また、『石巻市史』には、

-------
その後荒井が発起して北海道、札幌に電燈事業を経営することとなつたので、石母田は州知事を辞して渡道札幌電燈社々長に就任した。当時第一水力発電所を設けた場所は定山渓であつたが、電気と共に同地に埋もれている温泉開発に着目し、札幌定山渓間の電車を布設した結果、定山渓温泉が一躍遊覧地として繁賑を呈するに至つた。同温泉の業者は、これを石母田社長の恩恵として、今も深く景慕している。

とありますが、「株式会社じょうてつ」の公式サイトによれば、

-------
 やがて、札幌の発展と共に石切山から生産される石材をはじめ、豊平川流域の御料林から 伐出される木材、久原鉱業会社の豊羽鉱山から産出される硫化鉄鉱石、さらに豊平川水系に 開発される水力発電所建設用資材の輸送と、定山渓温泉への行楽客の輸送を目的として、大正2年2月12日松田学氏を中心に札幌区在住の経財界人24名により、札幌区苗穂から豊平町字定山渓まで29kmの軽便鉄道敷設の免許申請が提出され、大正2年7月16日に免許状が下付された。
 かくして大正4年12月20日資本金30万円をもって客貨輸送と鉄道ホテルの経営を目的とし定山渓鐡道(株)が創立され、初代社長に松田学氏が就任した。

とのことなので、石母田正輔氏が札幌から石巻に移ったのが大正元年(1912)であることを考えると、『石巻市史』の記述をそのまま信じることはできないですね。
札幌時代の石母田氏が将来予定されていた定山渓鉄道の敷設に何らかの貢献をしたことはあったのかもしれませんが、『石巻市史』の伝えるような中心的な役割とは到底思えず、おそらく地方政界の紛争の中で行われた政治的な宣伝の名残なんでしょうね。

>筆綾丸さん
>石仏
正輔翁が作った漢詩等を集めればヒントが出てくるのかもしれないですが、私としては、無神論者なのに「仏」を名乗るのはある種のユーモアでは、という感じがします。
ユーモアというか、もう少し乾いた諧謔ですかね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

agent provocateur と重力波 2014/03/18(火) 16:12:49
小太郎さん
石は石母田(と石巻)に由来するとして、なぜ仏なのか、仰るとおり興味深いですね。

『公共圏の歴史的創造』をもう少し捲ると、次のような記述がきて、これまた provocative ですね。石母田と浅田と・・・田の字くらいしか共通点がないんじゃないか、というような気もしますが。
-------------------
そして、石母田に送れること十一年、この Verhältnis と Verkehr の差にこだわり、そこに共同体と《結社》の明確な分岐点を看破したのが若き日の浅田彰であった。
◇……そのことがあるんで、「ベッタリ型共同体」から「交通の束」へと言ったけれども「交通」というのを「関係」と言いたくないんです。「関係」というと再び《ゼロ記号》に包摂された場のなかで安定しちゃって……。
◇……ノマディックな個、複数性をはらんだ「一」としての個、多数多様な「交通」と生成変化の束としての個が、「交通事故」を繰り返しながら絡み合っていく。それが、マルクスの言う「個のアソツィアツィオン」の現代的可能性だと思う。
-----------------

http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784217212
呉座勇一氏の『日本中世の領主一揆』を、 書店でパラパラ立ち読みしてみました。表紙カバーの一揆契状(1376年)の丁寧な解説があり、丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』の何の説明もない表紙カバーとの差異は歴然としています。
契状の一方の当事者である伊達宗遠は、石母田氏の主筋の遠祖になるのですね。宗遠の花押は将軍家の武家様花押の上部に伊の崩字を鎮座させたもののようにみえ、宗遠には公方への憚りはなかったのか、というようなことを思いました。同氏の『一揆の原理』には、宗遠の子で伊達家中興の祖政宗の一揆契状(1377年)の写真があり(168頁)、この花押は将軍家(あるいは鎌倉公方)に瓜二つで、父の花押とは違うようですね。

http://sankei.jp.msn.com/science/news/140318/scn14031815250006-n1.htm
重力波の痕跡の検出・・・インチキ臭いナントカ細胞とは全く違うものであってほしいですね。むかし、欧米の研究者を招いた講演会の司会を佐藤勝彦氏がされているのを聴きに行って、地味な人だなあ、と思ったものですが。
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ピンクの田中角栄

2014-03-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月19日(水)10時07分9秒

小熊英二の『<民主>と<愛国>』と『石母田正著作集』第16巻に掲載された終戦から安保闘争あたりまでの石母田氏の文章を併せ読むと、石母田氏は左翼版のコンピューター付ブルドーザー、ないし「ピンクの田中角栄」といった趣きがありますね。
とにかくエネルギッシュに様々な組織を運営し、参加する人々を激励し、困難な状況の下でも決して思いやりを忘れず、実に細やかな配慮をされています。
若い労働者や農民への手紙は、まるで蓮如上人の「御文」のようで、もらった人は喜びのあまり思想・信条を同じくする仲間に読み上げたりしたのでしょうね。

蓮如上人記念館
http://honganjifoundation.org/rennyo/rennyo/rennyo05.html

ただ、ご本人の意図とは別に、客観的には政治的活動は学問上マイナスの面が多く、その矛盾が露呈したのが国民的歴史学運動とその挫折のような感じがします。
石母田氏の学問的業績は国民的歴史学運動の前後で分けて考えるべきで、前期の代表作である『中世的世界の形成』は、厳密には「社会科学」と呼ぶのも躊躇われる種類のものではないですかね。
著作集の月報では実に多くの人がこの本を絶賛していますが、中には「内容は理解できなかったけれど、この本は私の人生を決定した」みたいなことまで言われている人もいて、さすがにちょっと引きますね。
第4巻月報において大町健氏は、

-----------
(前略)
 私たちとその後の世代では、私のように『日本の古代国家』にまず取り組んだ人が多いのではないかと思う。先日、石母田氏の提起された在地首長制について研究史をまとめる機会があったが、そこで感じたことのひとつが、それ以前の業績を前提に、その延長線上で『日本の古代国家』を読む読み方と、『日本の古代国家』からそれ以前の諸論文に遡って業績を追いかけた者とでは、石母田氏の見解の理解の仕方が違うのではないか、ということであった。石母田氏の思想・歴史学それ自体が、石母田氏の意思を越えてすでに研究の対象であり、その研究視角によってその理解の仕方が違うのは当然であることからすれば、それを単に世代の問題とすることはできないのかもしれない。しかし、石母田氏と共に生き、その発表された論文を読み、『日本の古代国家』をそれらの延長として受け入れた世代と、私のように『日本の古代国家』に著された石母田氏の歴史学がどう形成されたのかを遡っていった者の違いは大きいという感はまぬがれ得なかった。
(後略)
-----------

と言われていて、「石母田氏の思想・歴史学それ自体が、石母田氏の意思を越えてすでに研究の対象」という部分には傍線を引きたいような気分ですね。
ただ、実際には大町氏の後の世代でも、『中世的世界の形成』を出発点とする研究者は多いですね。

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石母田正氏と「価値自由」

2014-03-17 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月17日(月)22時48分29秒

>筆綾丸さん
東島誠氏が桜井英治氏の文章を引用or要約されている部分、「佐藤史学」そのもののような感じがするので、桜井英治氏が「「網野史学」と中世国家の理解」(小路田泰直編『網野史学の越え方-新しい歴史像を求めて-』、ゆまに書房、2003年)で書かれている内容とは若干違いますね。


『公共圏の歴史的創造』の刊行は2000年ですから『網野史学の越え方』の見解の方が新しそうですが、後者も既に10年前の著作であり、しかも試論的な内容なので、桜井氏の現在の考え方とは違うのかもしれません。
先日、桜井氏が最新の『岩波講座日本歴史』中世編冒頭に載せた論考を流し読みして、『網野史学の越え方』とは異なるニュアンスを感じたので、もう一度きちんと読んでみるつもりです。

東島氏の、「歴史家たちの住むせまい世界」では社会科学の他の分野では当たり前の前提となっている「価値自由」や「理念型」を理解していない人が多い、という指摘はまさに正論なのですが、石母田正氏にしても『中世的世界の形成』の頃は「価値自由」から程遠い状態であって、ウェーバーから相当学んだ結果、1960年代以降の高い水準の著作に結びついて行くような感じがします。

水林彪氏は日本史における「公」と「私」の問題について多数の論文を書かれていて、東島氏にも同じ分野でいくつか論文があるので読み比べてみたのですが、私には基礎から諄々と説く水林氏の見解がしっくりきます。
東島氏の文章は内容はけっこうまともそうなのに、文体が気取っていてイライラさせるばかりでなく、論証の上でも飛躍があることが多いように感じます。
ウェーバーの著作の翻訳については、もともとのウェーバーの著作自体が難解なので翻訳も難しい訳ですから、優れた翻訳としてはこんなものがある、といった紹介なしに、今までのは全部ダメ、原文を読め、ではあまりに不親切ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

教祖の愛を奪い合う者たち 2014/03/16(日) 18:47:00
小太郎さん
義江・佐伯両氏の口吻は教祖の愛を奪い合う弟子達の鞘当てのようで、ちょっと気持ち悪いものがありますね。

東島誠氏『公共圏の歴史的創造』の、挑発的な冒頭はなかなか良いですね。
--------------------------
       序章 歴史的創造という視覚
    1 価値自由と歴史学ー石母田正
「理論」という名の隠語(ジャルゴン)がある。歴史家の間でしか通用しない、文字どおりの隠語である。それは「理論」と「実証」の対立として、いまなお多くの歴史家の思考を呪縛している。現にこう書き出した途端、この一文は、実証主義歴史学に対して、「理論」の必要性を説くものであろうなどと誤読されかねない。従って本書を書き起こすに当たっては、この隠語から歴史学を解き放つことから始めなければならない。
そこでまず、気鋭の中世史家桜井英治の主張を、石母田正の立場と読む較べてみることにしよう。
 [桜井英治]
理論とは現象をうまく説明できてはじめて理論たりうるのであるから、それは本来現象そのものの観察から導かれるべきものである。別の場所から理論を借りてくる体質はそろそろ卒業してもよいころであろう。
 [石母田正]
国家についてのなんらかの哲学的規定からではなく、経験科学的、歴史的分析から国家の属性や諸機能を総括しようとする立場に立つということは、この問題に無概念、無前提に接近するということではない。そのようなことが可能だと思いこみ、それが通用しているのは、歴史家たちの住むせまい世界の特殊性のためである。
石母田のみならず、桜井自身もまたある種の「理論」家であることは、衆目の一致するところであろうが、にも拘らず、ここに見る両者の立場の差は、歴然としている。その分岐点が、「現象そのものの観察」というものが近代知の制約下にあることを自覚しているか、していないか、という点にあることは言うまでもない。
解りやすい例を挙げよう。たとえばどんな中世史家でも「支配」という語を使うだろう。だがそれは、中世の語義(配分、配布、割あて)に基づいて「支配」と言っているわけではない。実証史家といえども西欧近代知の枠組みのなかで思考しているのであり、「概念」や「前提」なしに経験科学的な分析が可能であるわけではない。石母田にあって桜井にはない「無概念、無前提に接近するということではない」とは、要するに、マックス・ヴェーバーが二十世紀初頭に社会科学に突き付けた<価値自由(ヴェルトフライハイト)>と<理念型(イデアルチィプス)>の問題であって、歴史学以外の諸学では自明の問題であった。それゆえ石母田は、「歴史家たちの住むせまい世界」という、辛辣なる表現を選ばなければならなかったのである。
それにしても石母田の姿勢を、「理論」という名の隠語に押し込めてきた歴史学の貧しさはどうであろう。この「理論」という隠語が、中堅世代を代表する桜井の思考にまで及んでいるとするならば、事態は深刻であると言わねばならず、それゆえ筆者は、次のように述べたのである。(後略)(3頁~)
--------------------------

以下のような、ヴェーバーに関する脚注もとても挑発的で、この満々たる自信はどこからくるのでしょうね。・・・日本の中世史家は語学に不自由で、理論でも研究せんとヴェーバーを読んでもね、既存の翻訳は誤訳が多いんだけど、口惜しくても原文は読めないだろうな、といったようなところでしょうか。
------------------------
<価値自由>と<理念型>に関するヴェーバーの著作には、知られるとおり誤訳が多いため、ここでは主要な論文を一書に纏めた簡便な書として、次のレクラム文庫版を挙げておく。 Max Weber, Schriften zur Wissenschaftslehre , Rclam , 1991.
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無神論者の「石仏」氏

2014-03-16 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月16日(日)18時06分31秒

石母田正氏が「外国語は、今でもぼくの最大の苦手」と言われているのは「父と子と」(『石母田正著作集』第16巻)というエッセイにおいてですが、このエッセイは他にも興味深い点があるので、少し引用してみます。

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(前略)
 保守的で、情がこまやかで、学校の通信簿などは一度もみようともせず、出世するよりは、まめでたっしゃに生きることが大事だと考えていた庶民的な母は、いまでもぼくの敬愛してやまない人である。古い型の母親だが、学者は借金しても一度は外国で勉強してこなければならないと今でも信じきっているところなどは、やはり明治の時代に育った女性であることをしめしている。
(中略)
 父は典型的な明治の人間であった。子供のときから「英学」─英語の学修のことを父は英学といった─と数学と漢学が、勉強の基本であることを繰返し教えこまれた。小学五年のときから、ぼくは父の友人で、屋根裏に貧しい暮しをたてている老人の「英学者」のところへ通わされた。今かんがえれば、発音は旧式で、訳はまったくの直訳であった。テキストは今の高校生程度のもので、小学生のぼくがわかろうとわかるまいと先生はおかまいなしだった。外国語は、今でもぼくの最大の苦手であるが、そのときはそんなにいやだとは思わず、まじめに通ったとおもう。父は同時に漢学も学ばせようとした。これは高等学校にはいってからもつづいて、先生をみつけてきては、漢学の勉強を強要した。私はこれにたいしては徹底的に反抗したが、後で日本史を学ぶようになってみると、少しは勉強しておいた方がよかったかなと後悔するときもある。
 英学と数学と漢学をかねそなえることは、明治人の教育の理想だったにちがいない。今にしておもえば、その理想の教育を父はぼくを材料として試みようとしたのだろうが、もちろん失敗であった。また父は無神論者でもあった。この点は今でも理解しかねるほど徹底していた。家に神棚があったかどうか記憶がないし、母が仏壇に灯明をあげれば吹き消すというふうで、八四歳まで生きながら、信仰のない現世的な人間として終わった。迷信を一切排して科学しか信じなかった父には、明治の啓蒙主義の強い影響があったのかもしれない。
(後略)
-----------

「八四歳まで生きながら」とありますが、『石巻市史』によれば石母田正輔氏は文久元年(1861)1月25日生まれで、逝去は昭和16年(1941)5月8日とのことなので、数えで81歳、満年齢では80歳ですね。

「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」

『石巻市史』が「享年八十二」としているのはご愛嬌ですが、石母田氏が「八四歳まで生きながら」としているのはどうしたことなのか。
自分の父親の年齢を数えで3歳、満年齢で4歳間違うというのは、息子としてちょっとまずいのでは、という感じもします。
ま、それはさておき、石母田正輔氏の性格で一番面白いのは、マルクス主義者の息子すら驚くほどの無神論者としての徹底振りですね。
「母が仏壇に灯明をあげれば吹き消す」というのは半端ではありません。
しかし、これも仏壇の存在自体、そして妻のまつ子氏が仏壇に灯明をあげること自体を阻止している訳でもなさそうなので、自己の無神論の主張と他人の権利との調整の具合が何とも面白いですね。
石母田正輔氏の号は「石仏」で、最初は何か宗教的な背景があるのかと思いましたが、それは皆無であることが分かると、逆にでは何で徹底した無神論者なのに「石仏」などという号をつけたのか、という疑問が生じてきます。
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「札幌番外地」(by義江彰夫)

2014-03-16 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月16日(日)10時04分23秒

「石母田先生と札幌」に関する練習問題の解答は、

[設問1] 札幌番外地
[設問2] (2)仙台
[設問3] (1)義江彰夫氏は軽薄である。
     (2)義江彰夫氏の「冗談」は全然面白くない。

ですね。
佐伯有清氏は1925年生まれ。
石母田正氏よりは13歳下、義江彰夫氏より18歳上で、石母田氏への敬愛の念は義江彰夫氏より相当強い感じがしますね。

佐伯有清

「札幌番外地」に「小躍り」している義江彰夫氏を見つめる佐伯有清氏の視線はシベリアの永久凍土並みに冷たいものだったでしょうが、何も著作集の月報間でバトルを繰り広げなくてもよいのではないか、佐伯氏もちょっと大人気ないのではないか、という感じもしますね。
ま、それはともかく、佐伯氏が引用されている「母についての手紙─魯迅と許南麒によせて─」と石母田五人兄弟の末っ子、石母田達氏の『激動を走り抜けた八十年』(私家版、2006年)を読み比べると、達氏の「母はたまりかねて、次兄を生まれ故郷の北海道につれて行き、その心をひるがえさせようとしたが、成功せず、ついに青函連絡船で兄を海につきおとして自殺しようと決心した。しかし母にはそれができなかった」との記述は聊か信頼性に欠けるな、という私の評価に納得してくれる人も多いのではないかと思います。


共産主義運動に走った息子の母が死を選ぶというストーリーは、武装共産党の指導者・田中清玄(1906-93)の母が、代々会津藩の家老という家門の名誉を傷つけた息子を諌めるために自決した話を思い出させますが、これは息子がピストル2丁を常時携帯して、逮捕しようとする警官から逃げるために東大空手部で鍛えた空手の技を駆使していたような、戦前の共産党史の中でも特に殺伐としていた時期の状況を前提としている話ですね。
石母田正氏が母と札幌に行ったのは、確かに「和歌浦事件」と同年の出来事ですが、当時の石母田氏はまだ18歳で、別に暴力的な事件を起こした訳ではなく単に反体制的な思想団体に加入した疑いがあるだけ、それも初犯ですから、親としても殺して自分も死のう、などと思い詰めるほどの状況ではないですね。
そして石母田達説は、なにより「保守的で、情がこまやかで、学校の通信簿などは一度もみようともせず、出世するよりは、まめでたっしゃに生きることが大事だと考えていた庶民的な母」(「父と子と」)という石母田まつ子氏の人柄と結びつきません。
石母田達氏の話の出典は<一九六八・十二発行「この道」>なので、意図的な創作とまではいいませんが、政治家である達氏が選挙民向けに自己の人物像をアピールする際に、ついつい大げさに話を盛り上げてしまった程度のことではないかと思います。

田中清玄

※追記 更に考えた結果、「これは記憶の混乱ではなく、政治家である達氏が選挙目当てに作った格好良い物語の一部であって、自殺云々は意図的な創作と捉える方が自然」、というのが私の最終的結論です。
「緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について」

※筆綾丸さんの2008年12月20日の投稿、「自決」

自決 2008/12/20(土) 17:17:47
小太郎さん
「台形史観」は、はじめは悪ふざけかと思いましたが、どうやら本気のようなので、
呆れてしまいました。

『田中清玄自伝』(ちくま文庫)を読み始めました。
母の自決のことが出てくる場面は、こうなっているのですね。

あの年(昭和5)の二月二十六日に「和歌浦事件」というのがありましてね。和歌山市
郊外にある和歌浦というところで、われわれ共産党中央部と官憲が激しく撃ち合った事件
です。当時私は相手を倒すピストルと、自決用のピストルと、いつも二挺持っていた。
事件前の二月五日は薄ら寒い嫌な感じのする日でした。夜になって和歌浦のアジトに帰る
途中、トンネルがあるのだが、このトンネルを抜けて出口に近づいたところで、突然暗闇
の中から、母の顔が浮かび出たんです。
常々、母は私に、
「お前が家門の名誉を傷つけたら、お前を改心させるために、自分は腹を切る」
と言っていた。それをすぐ思い出して「あっ、やったな。母は腹を切ったな」って、その
瞬間、そう思いました。以後、このことは私の心の中に重くのしかかって、その後の人生
の道を決める上で、決定的な影響を与えました。(76頁)
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