投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)07時13分59秒
石母田正とは何だったのかを問うことは、戦後歴史学とは何だったのか、歴史学研究会とは何だったのかを問うことと同じなので相当しつこくやってきましたが、堀米庸三氏は出身地・学歴や歴史学者としての活動時期、社会的活動への関心のあり方等々、石母田氏と比較対照するための参考的位置づけなので、この掲示板にはそれほど書くつもりはありません。
ただ、少し前に書いた堀米庸三氏の紹介だけだと、裕福な家庭に生まれたスポーツ好きの好青年、みたいな軽いイメージを持たれる方がいるかもしれないので、「大学紛争と日本の精神風土─ひとつの体験的思索─」(『わが心の歴史』、新潮社、1976年)から若干補足しておきます。
なお、東大紛争に巻き込まれて健康を損ねたことが堀米氏の62歳という若さでの死去の原因のひとつで、この文章はタイトル通り大学紛争をテーマとしているのですが、当面の関心とは離れますし、また私自身、堀米氏の大学紛争に関する見解に必ずしも賛成している訳ではないので、ここでは大学紛争に関係する部分を特に引用も言及もしません。
そのあたりに興味がある人は『わが心の歴史』を読んでみてください。
同書の「年譜」も、堀米氏の人柄を反映した非常に面白い読み物になっているので、お奨めです。
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私の語りたい体験というのは、私事にわたることであるが、父親に関することである。私の人間形成に決定的な影響を与えた人間をただ一人あげよといわれれば、私としては父をあげるほかはない。
(中略)
前置きが長くなったが、私の父は一生を無名の町工場主として終った。零細企業の一つにすぎない。亡くなってほぼ二十年を経ている。父との関係で述べなければならなぬ人々も大方はすでにこの世の人ではない。
父は無名の町工場主であり、学歴も中学中退という貧しいものであったが、語の真実の意味で学者といえる人間であった。私の家系は元来、東北地方の地主であり、同時にかなり手広く東北諸藩を相手に大名貸しをやっていた。少し以前の学術用語を用いれば前期的高利貸資本のカテゴリーに入るであろう。しかし明治維新の動乱にさいし、家運は傾き、父の青年時代にいたるまで、何度かの破産にあい、いたずらに格式のみ高い家柄となっていた。
父は明治十七年の生れであるが、山形中学を三年で中退したのは、この破産のためであった。いわゆる「改革」のため、かつて最大の取引先であった伊達藩の仙台に一時居を移したとき、父は十七歳頃であった。もともと哲学的傾向をもっていた父は、ここで綱島梁川の門をたたき、梁川ならびにその同門の人々に深い感化を受けた。その頃の父を語るエピソードとして、つぎのようなものがある。
昭和十七年であったか、当時神戸商大予科の最年少の教師であった私は、たまたま故安倍能成氏にあう機会があった。氏は私の名前をきいた途端に、「ひょっとして君は堀米康太郎氏の関係ではないか」とたずねられた。能成氏のことは何度か父にきいていたので、私も多少の期待がないわけではなかった。しかし四十年以上も昔のことをとっさに想い出した能成氏の強記もさることながら、それほどの記憶を十七、八歳の少年として与えた父の異才におどろかないわけにはいかなかった。
父は何事にも徹底せずにおれない性質だったので、哲学・文学・宗教のいずれの方面においても、驚くべき多量の読書をした。生涯外国語を修得しなかったが、読書は東西両面にわたって広く、私の中学時代の記憶では、いわゆる名著として今日も刊行されている古典で、父の蔵書に欠けていたものは少なかったように思う。中でも仏典は国訳大蔵経をはじめとして数多く、哲学関係もニーチェやベルグソン関係にいたるまで広く網羅されていた。おそるべき博覧強記の父は、またその博引旁証で私を驚かせた。勉強は若い時代に限らず、何ごとによらず第一級の書物を読まずにはいられなかったらしく、マルクシズム関係の書物もかなりあったし、雑誌の『思想』や『理想』は、町工場主として生涯を終るその晩年にいたるまで、定期の購読をつづけていた。
綱島梁川(1873-1907)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%B3%B6%E6%A2%81%E5%B7%9D
安倍能成(1883-1966)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90
石母田正とは何だったのかを問うことは、戦後歴史学とは何だったのか、歴史学研究会とは何だったのかを問うことと同じなので相当しつこくやってきましたが、堀米庸三氏は出身地・学歴や歴史学者としての活動時期、社会的活動への関心のあり方等々、石母田氏と比較対照するための参考的位置づけなので、この掲示板にはそれほど書くつもりはありません。
ただ、少し前に書いた堀米庸三氏の紹介だけだと、裕福な家庭に生まれたスポーツ好きの好青年、みたいな軽いイメージを持たれる方がいるかもしれないので、「大学紛争と日本の精神風土─ひとつの体験的思索─」(『わが心の歴史』、新潮社、1976年)から若干補足しておきます。
なお、東大紛争に巻き込まれて健康を損ねたことが堀米氏の62歳という若さでの死去の原因のひとつで、この文章はタイトル通り大学紛争をテーマとしているのですが、当面の関心とは離れますし、また私自身、堀米氏の大学紛争に関する見解に必ずしも賛成している訳ではないので、ここでは大学紛争に関係する部分を特に引用も言及もしません。
そのあたりに興味がある人は『わが心の歴史』を読んでみてください。
同書の「年譜」も、堀米氏の人柄を反映した非常に面白い読み物になっているので、お奨めです。
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私の語りたい体験というのは、私事にわたることであるが、父親に関することである。私の人間形成に決定的な影響を与えた人間をただ一人あげよといわれれば、私としては父をあげるほかはない。
(中略)
前置きが長くなったが、私の父は一生を無名の町工場主として終った。零細企業の一つにすぎない。亡くなってほぼ二十年を経ている。父との関係で述べなければならなぬ人々も大方はすでにこの世の人ではない。
父は無名の町工場主であり、学歴も中学中退という貧しいものであったが、語の真実の意味で学者といえる人間であった。私の家系は元来、東北地方の地主であり、同時にかなり手広く東北諸藩を相手に大名貸しをやっていた。少し以前の学術用語を用いれば前期的高利貸資本のカテゴリーに入るであろう。しかし明治維新の動乱にさいし、家運は傾き、父の青年時代にいたるまで、何度かの破産にあい、いたずらに格式のみ高い家柄となっていた。
父は明治十七年の生れであるが、山形中学を三年で中退したのは、この破産のためであった。いわゆる「改革」のため、かつて最大の取引先であった伊達藩の仙台に一時居を移したとき、父は十七歳頃であった。もともと哲学的傾向をもっていた父は、ここで綱島梁川の門をたたき、梁川ならびにその同門の人々に深い感化を受けた。その頃の父を語るエピソードとして、つぎのようなものがある。
昭和十七年であったか、当時神戸商大予科の最年少の教師であった私は、たまたま故安倍能成氏にあう機会があった。氏は私の名前をきいた途端に、「ひょっとして君は堀米康太郎氏の関係ではないか」とたずねられた。能成氏のことは何度か父にきいていたので、私も多少の期待がないわけではなかった。しかし四十年以上も昔のことをとっさに想い出した能成氏の強記もさることながら、それほどの記憶を十七、八歳の少年として与えた父の異才におどろかないわけにはいかなかった。
父は何事にも徹底せずにおれない性質だったので、哲学・文学・宗教のいずれの方面においても、驚くべき多量の読書をした。生涯外国語を修得しなかったが、読書は東西両面にわたって広く、私の中学時代の記憶では、いわゆる名著として今日も刊行されている古典で、父の蔵書に欠けていたものは少なかったように思う。中でも仏典は国訳大蔵経をはじめとして数多く、哲学関係もニーチェやベルグソン関係にいたるまで広く網羅されていた。おそるべき博覧強記の父は、またその博引旁証で私を驚かせた。勉強は若い時代に限らず、何ごとによらず第一級の書物を読まずにはいられなかったらしく、マルクシズム関係の書物もかなりあったし、雑誌の『思想』や『理想』は、町工場主として生涯を終るその晩年にいたるまで、定期の購読をつづけていた。
綱島梁川(1873-1907)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%B3%B6%E6%A2%81%E5%B7%9D
安倍能成(1883-1966)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90