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学問空間

今月中に「はてなブログ」へ引越し予定です。

無名の町工場主・堀米康太郎氏(その1)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)07時13分59秒

石母田正とは何だったのかを問うことは、戦後歴史学とは何だったのか、歴史学研究会とは何だったのかを問うことと同じなので相当しつこくやってきましたが、堀米庸三氏は出身地・学歴や歴史学者としての活動時期、社会的活動への関心のあり方等々、石母田氏と比較対照するための参考的位置づけなので、この掲示板にはそれほど書くつもりはありません。
ただ、少し前に書いた堀米庸三氏の紹介だけだと、裕福な家庭に生まれたスポーツ好きの好青年、みたいな軽いイメージを持たれる方がいるかもしれないので、「大学紛争と日本の精神風土─ひとつの体験的思索─」(『わが心の歴史』、新潮社、1976年)から若干補足しておきます。
なお、東大紛争に巻き込まれて健康を損ねたことが堀米氏の62歳という若さでの死去の原因のひとつで、この文章はタイトル通り大学紛争をテーマとしているのですが、当面の関心とは離れますし、また私自身、堀米氏の大学紛争に関する見解に必ずしも賛成している訳ではないので、ここでは大学紛争に関係する部分を特に引用も言及もしません。
そのあたりに興味がある人は『わが心の歴史』を読んでみてください。
同書の「年譜」も、堀米氏の人柄を反映した非常に面白い読み物になっているので、お奨めです。

--------
 私の語りたい体験というのは、私事にわたることであるが、父親に関することである。私の人間形成に決定的な影響を与えた人間をただ一人あげよといわれれば、私としては父をあげるほかはない。
(中略)
 前置きが長くなったが、私の父は一生を無名の町工場主として終った。零細企業の一つにすぎない。亡くなってほぼ二十年を経ている。父との関係で述べなければならなぬ人々も大方はすでにこの世の人ではない。
 父は無名の町工場主であり、学歴も中学中退という貧しいものであったが、語の真実の意味で学者といえる人間であった。私の家系は元来、東北地方の地主であり、同時にかなり手広く東北諸藩を相手に大名貸しをやっていた。少し以前の学術用語を用いれば前期的高利貸資本のカテゴリーに入るであろう。しかし明治維新の動乱にさいし、家運は傾き、父の青年時代にいたるまで、何度かの破産にあい、いたずらに格式のみ高い家柄となっていた。
 父は明治十七年の生れであるが、山形中学を三年で中退したのは、この破産のためであった。いわゆる「改革」のため、かつて最大の取引先であった伊達藩の仙台に一時居を移したとき、父は十七歳頃であった。もともと哲学的傾向をもっていた父は、ここで綱島梁川の門をたたき、梁川ならびにその同門の人々に深い感化を受けた。その頃の父を語るエピソードとして、つぎのようなものがある。
 昭和十七年であったか、当時神戸商大予科の最年少の教師であった私は、たまたま故安倍能成氏にあう機会があった。氏は私の名前をきいた途端に、「ひょっとして君は堀米康太郎氏の関係ではないか」とたずねられた。能成氏のことは何度か父にきいていたので、私も多少の期待がないわけではなかった。しかし四十年以上も昔のことをとっさに想い出した能成氏の強記もさることながら、それほどの記憶を十七、八歳の少年として与えた父の異才におどろかないわけにはいかなかった。
 父は何事にも徹底せずにおれない性質だったので、哲学・文学・宗教のいずれの方面においても、驚くべき多量の読書をした。生涯外国語を修得しなかったが、読書は東西両面にわたって広く、私の中学時代の記憶では、いわゆる名著として今日も刊行されている古典で、父の蔵書に欠けていたものは少なかったように思う。中でも仏典は国訳大蔵経をはじめとして数多く、哲学関係もニーチェやベルグソン関係にいたるまで広く網羅されていた。おそるべき博覧強記の父は、またその博引旁証で私を驚かせた。勉強は若い時代に限らず、何ごとによらず第一級の書物を読まずにはいられなかったらしく、マルクシズム関係の書物もかなりあったし、雑誌の『思想』や『理想』は、町工場主として生涯を終るその晩年にいたるまで、定期の購読をつづけていた。

綱島梁川(1873-1907)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%B3%B6%E6%A2%81%E5%B7%9D
安倍能成(1883-1966)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90
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「捏造だけが人生だ」(by 吉田兼倶?)

2014-04-15 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月15日(火)21時52分33秒

>筆綾丸さん
ありがとうございます。
そうですか。
新たな展望が開けたというより、「そして誰もいなくなった」という感じみたいですね。
吉田兼倶(1435~1511)については井上智勝氏の『近世の神社と朝廷権威』あたりしか読んでいませんが、「神祇管領長上」にしろ「宗源宣旨」にしろ偽造・捏造だらけなので、偽系図くらいで驚いてはいけないんでしょうね。
変わった人、というか一種の化け物ですが、知識は豊富だから意図的に捏造されたら同時代の人だって見抜くのは大変だったでしょうし、まして時代を経たら捏造の結果自体が伝統になってしまいますからねー。
吉田神社の大元宮、一度行ったことがありますが、いかにも胡散臭い感じがして、あまりきちんとお参りしませんでした。

吉田神社公式サイト

大元宮(個人サイト「神社参拝記」内)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

『唯一神道の魔手』( von Weber 作曲) 2014/04/15(火) 11:38:14
小太郎さん
小川剛生氏の『卜部兼好伝批判』(熊本大学「国語国文学研究第49号」)を読んでみました。
「個人的には堀川家との新たな接点が出てきてくれれば、という虫のよい期待」という小太郎さんの御期待は残念ながら外れて、「兼好の伝記研究は、吉田家の魔手の及んでいない」正徹物語(74段)の「記述に立ち返り、再び一歩を踏み出さなければならないのである」(127頁)で終わっています。
結論は(結論のみ列挙しても無意味ながら)、以下の五点でした。主眼は、風巻説は兼倶の捏造(否、STAP 細胞は存在します!)にまんまと騙されたものだ、ということになりますか。
--------------------
一、兼好の父とされる卜部兼顕、兄の卜部兼雄、兄の慈遍、すべて血縁者ではなく、室町後期に兼直の弟兼名の子孫として吉田家の家譜に書き込まれたこと。
一、「卜部兼好」と名乗る人物は、鎌倉後期、金沢貞顕の被官として実在していたが、その世系は不明であること。
一、兼好の青年期の経歴とされた、六位蔵人・叙爵・左兵衛佐は、同時代史料では一切確認できず、兼倶以後の吉田家の史料にのみ記載されること。六位蔵人・左兵衛佐の任官慣例から、室町期以前卜部氏出身者がこの官職に就いた可能性はない。
一、以上の虚偽を構えたのは吉田兼倶で、家格の上昇を企て、兼倶が嫡子兼致に、それまで家に例のなかった六位蔵人、ついで左兵衛佐を経歴させるべく、先祖の家系履歴を捏造したこと。以後、吉田家の家譜には兼好が庶流として記述され、その官歴も載せられて、広く信じられ、尊卑分脉も採用したこと。
一、兼好が南朝(後醍醐天皇)の愛顧を受けたと信じられていたこと。これは近世の兼好伝でも同じで、その源流をなすかも知れないこと。
--------------------
では、出家前、兼好はどのような経歴を送ったのか。あくまで推測にすぎないが、以下のようであったかもしれない、とされています。
大臣・公卿に(既に殿上人の待遇を受けていた北条氏一門にも)「諸大夫」ではなく「侍」として仕え、六位に叙され、六位相当官(馬允・式部丞・民部丞・近衛将監・兵衛尉・諸司助など)に任じられ、その間、滝口、上北面、検非違使、女院蔵人などを兼ねたのではないか。 
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「国家史のための前提について」

2014-04-15 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月15日(火)08時59分14秒

ウェーバー好きのあまり、石母田氏に過度にウェーバーの影響を読み込もうとするのも、贔屓の引き倒し的なところがありますね。
さすがに私は、東島氏のように「マルクスとはまったく関係がない」とまで言い切るつもりはありません。
石母田氏の『日本の古代国家』における問題意識は、基本的に1967年度の論文、「国家史のための前提について」(著作集第4巻)と同じだと思いますので、同論文の冒頭を少し引用してみます。(p83)

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 日本の古代や中世の国家をわれわれが問題にするさい、その態度に大事なものが一つ不足していたのではないかと年来感じてきた。一つは、国家理論と歴史的事実の緊張関係が足りないことである。たとえば一~七世紀の日本で古代国家が成立する過程や諸段階を問題にする場合、あるいは叛乱武士団の暴力が解体期の律令制国家の諸条件のものにおいて、いかにして一箇の政治権力または国家にまで成長し得たかを問題にする場合、われわれは、国家についての一般的・理論的な問題、国家または政治権力の本質、構造、機能等の問題についての理論的見識なしにも、一応の研究は整えることができたし、それなりに研究の成果もみられた。しかしそこには、絶対主義国家についての近代史家の論議の真剣さも、また国家理論そのものをより豊富にし、そこに新しい知見をもたらし、理論的に解決すべき問題を提供するという態度も気迫もまだ不足しており、歴史家が理論的思考の主体として確立されていないから、その研究成果にも理論と事実との対立が生みだす緊張が足りなくなる。少なくともそのような欠点が目立ってくる。したがって、近代以前の「民族」の形成の問題と国家との関係についても、理論的にほりさげた議論がまだおこなわれていない。
(後略)
---------

また、ウェーバーに関しては、当時政治的に問題となっていた「期待される人間像」の「国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である」との文章との関連で、次のような記述があります。(p95)

---------
 また国家は「もっとも強力な集団」であるという意味もアイマイである。おそらく支配階級の組織された強力という国家のもっとも本質的な特徴を無視するわけにはゆかなかったので、それをこのような学問的に無意味な表現にあらためたのである。この起草者が、マルクス主義の国家学説については無知であっても、マックス・ウェーバーの国家についての有名な説まで知らないはずはない。ウェーバーは「すべての国家は強制の上にきずかれている」というトロツキーの発言を引用して、「これは実際正しい」とのべ、「国家は、合法的強制力なる手段を基礎とするところの、人間にたいする人間の支配関係である」といっている(『職業としての政治』)。国家は「もっとも有機的な集団」どころか、その内部に、支配と服従または隷属との対立関係をふくむところの組織体であり、かつ支配者の合法的強制力または強力の手段による統治を本質的特徴とすることを、ウェーバーも認めている。これらの、いわばマルクス以前の、普通に通用しているところの国家論さえ故意に無視し歪曲しているところに、この文書の特徴がある。
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まあ、「期待される人間像」批判という文脈の関係で否定的なニュアンスが強いですが、ウェーバーの理論は結局のところ石母田氏にとって「普通に通用しているところの国家論」のひとつ、ないしその中ではそれなりに優れたもののひとつ、程度の位置づけなんでしょうね。

1967年に『歴史評論』201号に掲載された「国家史のための前提について」は、「国家論の国際的潮流のなかで、より重要で深刻な理論的・実践的問題は、現在の歴史学が、「国家の死滅」が歴史の議事日程にのぼっている時代の歴史学でなければならない」という、今からみればいささか滑稽な時代認識や中国の文化大革命への好意的態度など、違和感を感じる部分が多い論文で、石母田氏が決して「ほや」顔の人情味あふれる素朴なおじさんではなく、死ぬまで革命家であったことを改めて思い起こさせる論文ですね。

「期待される人間像」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/661001.htm
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東島誠氏「非人格的なるものの位相」

2014-04-13 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月13日(日)09時48分43秒

古尾谷知浩氏が『律令国家と天皇家産機構』で言及されている東島誠氏の「非人格的なるものの位相─石母田正『日本の古代国家』で再構成されたもの』」(『歴史学研究』782号、2003年)という論文、冒頭部分を少し紹介してみます。

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 はじめに

 石母田正の『日本の古代国家』発刊30年を記念する企てに私の論考を所望された理由が、3年前に公刊した拙著『公共圏の歴史的創造─江湖の思想へ─』が、石母田<交通>論の批判的継承という形で構想されているという、まさにその点にあるのだとすれば、事態はそれほど悲観的ではないだろう。ただここ数年、歴研日本古代史部会が「交通」や「都市王権」などを大会報告テーマに掲げながらも、拙著とほとんど論点の交差することがなかった一方の現実を振り返るならば、本稿で述べようとすることが、今次の特集からひどく乖離したものとなっているのではないかと思われなくもない。たとえば、本年4月に行われたシンポジウムのレジュメ集では、私も言及したことのある次の一節が、複数の論者によって引用されているのだが、拙著の理解とは容易に埋めがたい懸隔がある。

国家についてのなんらかの哲学的規定からではなく、経験科学的、歴史的分析から国家の属性や諸機能を統括しようとする立場に立つということは、この問題に無概念、無前提に接近するということではない。そのようなことが可能だと思いこみ、それが通用しているのは、歴史家たちの住むせまい世界の特殊性のためである。

 ここで石母田が言う「概念」「前提」を、論者の一人は「史的唯物論にもとづく社会構成史」であるとする。だがそれは、ほとんど致命的な誤読ではなかろうか。上の文章で石母田が念頭においているのはヴェーバーの<価値自由>と<理念型>の問題であって、マルクスとはまったく関係がない。
(後略)
---------

東島氏の原稿を受け取った『歴史学研究』編集スタッフの、「東島はホントに偉そうだよなー」とか「何様のつもりなのかしら」といった怒号や悲鳴が聞こえそうで、実に見事な文章ですね。
私も読者がムカつくであろう文章を書くのは好きなのですが、東島氏のようにムカつき成分100%の高純度ムカつかせ文章を書くことはできません。
もっと修行せねば。

ま、それはともかく、「ここで石母田が言う「概念」「前提」を、論者の一人は「史的唯物論にもとづく社会構成史」であるとする」というのは、確かににわかに信じがたいほどの「誤読」ですね。
石母田氏の戦前の論文をパラパラ見たところ、明らかにウェーバーの研究を前提にしているのにウェーバーに触れていないものがあり、そういうのは「誤読」しても仕方ありませんが、『日本の古代国家』はウェーバーの名前を明示している箇所がけっこうありますからねー。
うーむ。

ちなみに、この論文には水林彪氏の「日本的『公私』観念の原型と展開」(佐々木毅・金泰昌編『公共哲学3 日本における公と私』(東大出版会、2002年)に出てくる東島氏と水林彪氏のやり取りが再掲されていますが、水林彪氏も「石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言して」いることを理解されている一人ですね。
だからこそ、『天皇制史論』に石母田氏が引用したのと同じルソーの言葉を載せて、(私の解釈では)石母田氏へのオマージュとした訳ですから。

『歴史家の読書案内』
石母田氏へのオマージュ?
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米・ゆず・紅花

2014-04-13 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月13日(日)09時14分51秒

>筆綾丸さん
>野州堀米村の間違い
堀「込」や堀「籠」はけっこう各地にありますけど、「米」は意外と珍しい感じがしますね。
おっしゃる通り、堀米家の伝承過程で生じた混同なんでしょうね。

>堀米ゆず子氏
「ゆず子」という柑橘系のお名前は珍しかったので税関トラブルのニュースも記憶にありますが、堀米庸三氏の姪だとは知りませんでした。
庸三氏の専門と教養からすれば、一族に有名な音楽家が登場するのも自然ですね。
私はもともと庸三氏にあまり興味がなかったので、「紅花資料館」には2011年の晩夏と翌年の早春、合計2回も訪問しているのに、庸三氏との関係を覚えていませんでした。
ただ、よくよく記憶を辿ると、村山農兵のけっこう本格的な武器を展示していた部屋に、確かに庸三氏に関するパネル展示もありましたね。
現在の「紅花資料館」は美しい庭園を含め、非常に充実した施設になっていますが、「我が家のこと」を読むと、堀米家が河北町を離れて以降は相当朽廃が進んでいたようで、河北町がずいぶん手をかけて復原したみたいですね。

筆綾丸さんが「アポロン的とディオニュソス的」で引用されている山之内靖氏の、「ヴェーバーの死の直前に書かれたもの」なので「深刻」だとか、「最終段階において、はっきり確認した」といった表現、 どうも気になります。
ウェーバーの死因は風邪をこじらせた結果の急性肺炎で、死去時点ではまだ56歳という若さですから、結果的に「死の直前」「最終段階」に書かれた文章であっても、ウェーバー自身はそれが「死の直前」「最終段階」になると意識していた訳ではないですね。
山之内氏のように妙に深読みするのはまずいんじゃないかな、と思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

紅花とグァルネリ 2014/04/12(土) 14:24:50
小太郎さん
http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/obnaa01.htm
芭蕉が尾花沢の鈴木清風宅に滞在した時、堀米家の初代はまだ河北町には来ていなかったのですね。

http://www.city.sano.lg.jp/profile/chimei/horigome.html
上州堀米村は野州堀米村の間違いかもしれませんね。

http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyous/kiyous-34-1/image/kiyous-34-1-081to114.pdf
------------------------
堀米家は幕末期村山農兵を組織したことで著名であるが、大規模豪農の地域編成にとって防衛=暴力装置・動員体制の構築は一つのポイントである。
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山形大学の岩田氏の論文にも、「暴力装置」という「ヴェーバリアン的」な用語が出てきますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%B1%B3%E3%82%86%E3%81%9A%E5%AD%90
堀米ゆず子氏はドイツの税関当局にグァルネリを押収されて話題になりましたね。叔父(伯父?)様ご専門のドイツ、なんて野暮な国なのかしら、もう、ベルリン・フィルは聴きたくもないわ。

山之内氏の『マックス・ヴェーバー入門』では、ヴェーバーはフロイトの精神分析学を俗物的(バナウジッシュ)と否定したとあり、その後に、次のような記述がきます。
--------------------
ヴェーバーはそれに対置して、「英雄倫理(ヘルデンエーティク)」をもちだします。それは、ヴェーバーによれば、「生涯の大きなクライマックスを除いては、人間が一般にそれに耐えられないような、永遠における彼の努力の目標点として彼を導く原理的要求を人間に提出する」種類の特別の倫理であり、それは「普通の人間の性情を超えた要求をつきつけないというだけの温和さをもったもの」とする「平均倫理」とは、鋭く区別される必要があるのです。この「英雄倫理」という論点が、後に『経済と社会』の諸論考で展開されることになるカリスマ的威信の保有者という像へとつながっていくことは、言うまでもないでしょう。(138頁)
--------------------
ヴェーバーの英雄(倫理)はカリスマへと続く概念のようですが、ニーチェの超人(Übermensch)を思わせるものがありますね。ゲルマン人独特の思考形態と云うべきなのかどうか・・・。
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堀米庸三氏と紅花資料館

2014-04-12 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月12日(土)09時28分54秒

石母田正とは何だったのかを考えるためには、氏の著書を読むのと平行して、同時代の他の歴史学者と比較する必要があるな、と思っているのですが、比較の対象として一番良いのは西欧中世史の堀米庸三氏みたいですね。
堀米氏は1913年生まれで石母田氏より1歳下、山形県出身で旧制一高、東京帝大文学部西洋史学科卒業。
石母田氏が学生運動・共産主義運動に熱心だったのに対し、堀米氏は文字通りの運動好きで、テニス・陸上競技・スキー・水泳とスポーツ万能。
マルクス主義の直接の影響は受けずに大学教員としてのオーソドックスな人生を歩む一方、社会的な活動も活発で、専門的な論文・著書以外に啓蒙的な著作や随筆も多いですね。
1975年、62歳で亡くなっていて、歴史学者としての活動時期はほぼ石母田氏と重なっています。
同氏の『わが心の歴史』(新潮社、1976年)に載っている「我が家のこと」には次の記述があります。

--------
 我が家の歴史は、初代が上州堀米村を出てここ山形県西村山郡河北町谷地沢畑に住みついた時代以来であるから、元禄十年頃(一六九七年頃)に始まる。(中略)
 初代と二代の記録は余りない。三代目になって突然豪農として頭角をあらわすようになり、四代目はその基礎に立ってこの地方(柴橋代官領)有数の名望家となり、また名主となった。これから幕末と明治の前期にでた六代目の時代までが、我が家の最盛期である。家伝によると四代目以降、次々に広く大名貸をやったことになっているが、それを直接証明する文書はまだみつかっていない。非常に数多く見出されるのは、山形方面のみならず仙台や石巻方面に及ぶ金融業関係文書である。地主としても小さくはなかったが、それ以上に我が家の声望を高めたのは、金融業であった。
 歴代の当主の中、最もはなやかな仕事をやり、現在の屋敷景観にも関係しているのは、六代目である。写真にもうつっている石壁の正面、屋敷の一番深いところに濠をめぐらした、いまでは日本でも珍しい御朱印蔵を建てたのも彼である。(後略)
--------

雑誌記事を転載したものなので『わが心の歴史』には建物の写真は出ていないのですが、さすがにここまで読むと、堀米氏の生家が河北町の観光名所「紅花資料館」であることに気づきました。
ただ、「我が家のこと」には最後まで紅花が登場しないのが、ちょっと不思議ですね。

紅花資料館
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/1833.html
「河北町の偉人 堀米庸三」
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/2977.html
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「石母田正における「支配の正当性」」(by 古尾谷知浩氏)

2014-04-11 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月11日(金)22時10分39秒

>筆綾丸さん
ウェーバーとニーチェについては牧野雅彦氏も『責任倫理の系譜学』(日本評論社、2000年)で相当詳しく書かれていますね。
この本を手には取ったのですが、今の私には高度に過ぎるかなと思って、ちょっと躊躇っています。

『責任倫理の系譜学 ウェーバーにおける政治と学問』

それと、今日、図書館で古尾谷知浩氏の『律令国家と天皇家産機構』(塙書房、2006年)を見かけ、ウェーバーの匂いを感じたので中身を見たら、ウェーバーのてんこ盛りでした。

-------
序章 家産制支配
 はじめに─本書の課題
(中略)
  第一節 学説史の中の家産制
   一 石母田正における「支配の正当性」

 石母田正がその著書『日本の古代国家』の冒頭で引用したのは、ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』の次の一節であった。
「最も強いものでも自分の強力を権利に、服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人であり得るほどに強いものでは決してない。」(『社会契約論』第一編第三章)
 石母田がこの部分を引用した意図を考えるために、ここでしばらくルソー『社会契約論』における関係部分をみておこう。
「人間は自由なものとして生まれた。そしていたるところで鉄鎖につながれている。」
 この一節は誤解されることが多いが、ルソーはここで「この鉄鎖を断ち切って生まれたままの自由な状態に戻れ」と主張しているのでは決してない。彼は「自然に帰れ」とは一言も記したことはないのである。同じパラグラフの最後の部分をみてみよう。「どのようにしてこの変化が生じたのか。私は知らない。何がこれを正当なものとすることができるか。私はこの問題は解くことができると信ずる。」つまりルソーは人々を規制する社会秩序をどのようにして正当な、あるべきものとしていったらよいかということを議論の出発点においているのである。
 石母田が引用した部分も、この文脈の延長で理解すべきものである。すなわち、石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言しているのである。
(後略)
---------

この記述自体は分かりやすいのですが、古尾谷氏が2006年になってわざわざこんなことを書かねばならないのは、従来の歴史学者の大半が「石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言して」いない、と思っていたという事態の反映なのですかね。
この点、注(3)には次の記述があります。

---------
 本書と同様に、ウェバーから石母田正『日本の古代国家』を読み解こうとするのが、東島誠「非人格的なるものの位相─石母田正『日本の古代国家』で再構成されたもの」(『歴史学研究』七八二、二〇〇三年)である。首肯すべき点の多い論考であり、筆者も同様に石母田を批判的に継承しようとするものであるが、二点だけ指摘しておきたい。
 第一に、東島は、吉川真司が「律令官僚制の基本構造」(『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年、初発表一九八九年)で、石母田を批判したことに対し、「吉川は、・・・石母田の議論に貫通しているヴェーバリアン的な分析手法に無関心でありすぎるのではないか。」と批判する。しかし、むしろ吉川は石母田の分析手法及び分析結果について、ウェバー的な性格を見抜いた上で、正にその部分を否定しているように見える。
(後略)
---------

「ウェバー」と表記するのが古尾谷氏のこだわりみたいですね。
ま、それはともかく、この古尾谷氏の記述を素直に読むと、1971年に『日本の古代国家』が刊行されて以降、同書の「ウェバー的な性格を見抜いた」のは東島・古尾谷の二氏、または吉川・東島・古屋谷の三氏だけだった、ということになりそうですね。
ふーむ。
まあ、私としては、「ウェバー的な性格を見抜」けない人がいたとしたら、それは単なる間抜けだとしか思えないのですが。

『律令国家と天皇家産機構』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「アポロン的とディオニュソス的」 2014/04/10(木) 20:12:20
小太郎さん
失礼しました。早とちりでした。

山之内靖氏の『マックス・ヴェーバー入門 』をパラパラ読んで、ニーチェとヴェーバーの親縁性ということを興味深く思いました。
-----------------------
この『社会学の根本概念』は、文字どおり、ヴェーバーの死の直前に書かれたものなのですが、そうだとすればますます、この断片的な記録の意味は深刻だとしなければなりません。ヴェーバーは死の直前において、フロイトやニーチェの問題提起に合意し、彼の理解社会学によって解明できる範囲は限られたものでしかないことを公表していたのです。ヴェーバーはその直後の段階において、ニーチェに発するディオニュソス的な力の働きを容認したと見てよいでしょう。
人間の歴史をつき動かしてきた力には、マルクスが言うところの生産力とは質を異にし、さらにまた、ヴェーバーが生涯を通じて解明に取り組んできた宗教的救済に向かう観念の力とも異なるところの、いま一つの力が働いている。それは身体に源をもつ力である。このディオニュソス的な力は、しかし、あらゆる文化的意味の枠組みから外れた力であり、ニーチェの言葉を用いれば、「生成の無垢」と呼ばれるほかない力である。ヴェーバーは歴史において働く力の中に、この混沌たる無規定的なエネルギーの働きがあることを、最終段階において、はっきり確認したのでした。
『中間考察』において、近代文化のゆきつく果てに「死の無意味化」が現れてくると指摘されていることも、『社会学の根本概念』の以上の論点と重ね合わせて理解されるべきでしょう。近代以前の諸文化は、死そのものをも無意味とはせず、それに何らかの文化的含意を与えてきました。しかし、合理化のゆきついた果てにおいては、死は文字どおりに生物学的なレヴェルでの終焉というむきだしの姿をとって訪れることとなります。そしてそのことに、現代人は深い失望感を味わうことになるのです。(222頁~)
-----------------------
これは半分冗談ですが、石母田氏の『中世的世界の形成』が多くの中世史研究者を魅了してやまないのは、東大寺に対する黒田庄のディオニュソス的な力(「混沌たる無規定的なエネルギー」)にあるのではないか、というような感じがしないでもないですね。

また、ヴェーバーがよくイタリア旅行をしたというのも、じつに面白いですね。
------------------------
私がここで、むしろ中心として取り上げたいのは、ヴェーバーがしばしばイタリア旅行を繰り返した点からもわかるように、アルプス以北のプロテスタント的文化圏と、アルプス以南の、南欧的ないし地中海的文化圏の差異のもつ、きわめて大きな意味です。この脈絡から浮かび上がる論点には二つの側面があります。
第一は、アルプス以北の厳格なプロテスタント的職業義務の精神に対して、それとは対照的な南欧的な現世主義的心情の葛藤という側面です。そして、第二の側面として、ヨーロッパ都市市民の系譜に立つキリスト教精神に対して、それとは対照的な、古代ポリスの戦士市民の系譜に由来する騎士的な精神の葛藤という、第一のそれとは異なったもう一つの側面が浮かび上がってきます。(110頁)
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マックス・ヴェーバー生誕150年

2014-04-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月10日(木)12時22分44秒

「歴史学と『日本人論』」には、

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 ですからダビデ王の場合の神と人間の倫理的な緊張関係というのは、早くいえばイスラエルにおける個と個ですね。個人と個人の人間関係の一つの緊張を示しているということを考えますと、ご存じのマックス・ウェーバーが『古代ユダヤ教』を書いたあの中で指摘しておりますが、イスラエルというのは、私もウェーバーの受け売りなんですけれども、一つの誓約共同体であって、その古代ユダヤ教をつくったのはエルサレムという都市ですね。都市国家なのだということを、彼は一つ指摘しておりますけれども、このことを考えますと、日本との違いの根拠がどこにあるかということが、若干展望されてくるわけです。
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などという記述もあります(p306)。
石母田氏の著作を丁寧にたどれば、戦後、石母田氏がウェーバーをどのように受容したかはある程度明確にできそうですが、戦前は難しいですね。

ちなみにマックス・ウェーバーは1864年4月21日生まれなので、そろそろ150回目の誕生日です。
検索してみたら、岩波書店では「マックス・ヴェーバー生誕150年」と銘打って、著書の紹介をしていますね。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/donna14/top3.html

また、みすず書房からは去年、ヴォルフガング・シュヴェントカー氏の『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』という本が出たそうです。

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1984年、ドイツのJ.C.B.Mohr社から『マックス・ウェーバー全集』の最初の数巻が刊行されたとき、出版部、編集者、スタッフたちが驚いたのは、出版部数の三分の二がドイツでもなく、ヨーロッパでもアメリカでもなく、日本で売れたという事実だった。このような瞠目すべき事態を生んだ日本の社会科学の事情、ウェーバーと日本との親和性とは、いったい何なのか。
(中略)
そして戦後、大塚久雄を中心に丸山眞男、川島武宜らの影響のもと、マックス・ウェーバーの著作の翻訳や研究書の数はどんどん膨らんでゆく。1964年、500名が参加した東京大学における「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」は、その象徴的場であったろう。そこには、戦後における日本社会の分析や道筋の模索、マルクスとの対抗あるいは相互補完の可能性など、さまざまな思いや制約条件が重なっていた。さらに安藤英治、内田芳明、折原浩から山之内靖まで、ウェーバーの読まれ方は批判的に継承されてゆく。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07709.html

この「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」の記録は大塚久雄編で東大出版会から出ていて(『マックス・ウェーバー研究』、1965年)、その中の丸山真男「戦前におけるヴェーバー研究」と堀米庸三「歴史学とウェーバー」を読んでみましたが、戦前のマルクス主義の歴史学者にとっては、ウェーバーはなかなか難しい存在だったようですね。
戦前の思想の動向はめまぐるしく変化するので、時期によって相当違いはありますが、ウェーバーなど典型的なブルジョワ学問として排斥する人も多く、仮に個人的には影響を受けていたとしても、なかなか公言しづらい雰囲気もあったみたいですね。
ま、石母田氏個人にとってどうだったのかは今のところ全然分かりませんが。
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「私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども」

2014-04-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月10日(木)09時16分35秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
「今西さんという最近の人」は石母田氏の講演記録での表現です。
国会図書館サイトで検索してみたら、「罪意識の基底--源氏物語の密通をめぐって」(東京大学国語国文学会編『国語と国文学』1973年5月号)という論文みたいですね。
石母田氏は少し後で、

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学者はいろいろ詳しく調べてくれるのでありまして、『源氏物語』には罪という言葉が一八〇回出てくるそうです。私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども、学者というのはありがたいもので、一八〇回出てくる。これは物語のなかで、圧倒的に源氏というものが罪というものを意識した証拠である、というので、それもごもっともだろうと思います。
---------

と書かれていて(p307)、ここも注記はないのですが、今西氏の同じ論文で間違いないようです。
それにしても「私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども」「それもごもっともだろうと思います」というのはずいぶんシニカルな表現ですね。

今西氏は『増鏡』第五「内野の雪」の冒頭場面から、同氏にとっては極めて論理的な推論を始める訳ですが、西園寺へ向かう道には「九十九折」はないのですから、ごくごく常識的に考えれば、自分の『源氏物語』についての教養をひけらかすのが大好きな『増鏡』の作者が、西園寺と『源氏物語』の「北山のなにがし寺」を重ね合わせて楽しんで書いているのだろうな、で済んでしまう場面ですね。
実際、今西氏以前の源氏学者で、今西氏のような変な疑問を抱いた人はいないのですから。
まあ、現代の国文学者というのは本当に奇妙な人が多いですね。
2008年に議論した当時、筆綾丸さんが書かれた「なぜ、こんなことに、それほど情熱を傾注できるのか」という禁断の疑問は永遠に解けそうもありません。

「今西論文その3、仮説の九十九折」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「過去の人」 2014/04/09(水) 22:19:36
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E7%A5%90%E4%B8%80%E9%83%8E
よく覚えていますが、今西祐一郎氏とは、この人ですね。
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『蜻蛉日記』が専門で、同書は藤原兼家の協力を得て書かれた、兼家家集の宣伝のためのものだという説を唱えている。
-------------------
こんな説を唱えて何のつもりなのか・・・。
現在、国文学研究資料館の館長とありますが、ということは、あの丸島和洋(敬称略)の所属長ということですか。

保立道久氏は変な表現をよくしますが、「今西さんという最近の人」とは意味不明です。最近を過去に置き換えれば、日本語らしくはなりますが。
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「今西さんという最近の人」

2014-04-09 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)21時01分47秒

保立道久氏の『歴史学をみつめ直す─封建制概念の放棄』(校倉書房、2004年)をパラパラ見たところ、内容面で変なのはともかく、石母田正氏への言及の仕方が気になりました。
例えばp141には「死去の前には『中世政治社会思想 上』(一九七二年)の解説を執筆して」とありますが、石母田氏が亡くなったのは1986年ですから「死去の前」は日本語として変ですね。
「最晩年の石母田は自己の社会構成論を組み直そうとしていました。それを示すのは、一九七三年の講演「歴史学と日本人論」です」(p142)、「晩年の石母田は、日中分岐の基礎にあったのは日本の未開性である、遅れて出発した日本は未開性を基礎として異なる方向へ進んだのだと切り返し」(p143)というのも、1973年の時点で61歳の石母田氏について「晩年」「最晩年」という表現が適当なのか。
結果的に病気で以降の執筆ができなくなったとはいえ、頭脳が研ぎ澄まされていた時期の石母田氏に「晩年」「最晩年」は変ですね。

気になったついでに「歴史学と『日本人論』」(岩波文化講演会、1973年6月28日、著作集第8巻)を読んでみたところ、

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 それではこういう密通というものについて、光源氏はどのようにいったい意識していたかと言いますと、これまた今西さんという最近の人が指摘しておりますように、源氏は自分が密通して妻を奪ったわけですから、その被害者である桐壺の帝になりますね、これに対して「おほけなし」という言葉があるのですが、そういう言葉でもって桐壺に対する自分の感情を表現している。(p303)
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とありました。
注記はありませんが、「今西さんという最近の人」とは今西祐一郎氏みたいですね。
もともと「義満が光源氏幻想を生きた」騒動は今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」という論文が発端なので、妙なところでお会いしたな、という感じです。

「今西論文その1、『源氏物語』注釈史」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932e4aff20b0309968010e86fc8f1134

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法政大学図書館・石母田正文庫

2014-04-06 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 6日(日)18時44分6秒

石母田氏の蔵書はどうなっているのだろうと思って検索してみたら、今は法政大学図書館に保管されているんですね。
そんなことも知らなかったのか、と言われそうですが、何せ『中世的世界の形成』すら相性が良くないと避けていた私ですから、基本的なところで穴だらけなのは仕方ないですね。
さて、「石母田正文庫」の蔵書数は和書6,569冊、洋書457冊だそうで、実に膨大としか言いようがありません。
洋書の方だけざっと見たら、石母田氏が読めたのは英独仏三ヶ国語で、ギリシア・ラテン語の文献は英訳本を読んでいたみたいですね。
マルクス・エンゲルス関係が揃っているのはお約束ですが、全体的な割合からすればそれほど多くはなく、哲学科在学当時の教科書らしいものから文学、法制史、宗教、文化人類学等、実に広大な領域に及んでいますね。
もちろん歴史書が多いのは当たり前ですが、仏語だとマルク・ブロックが比較的目立ちますね。
マルク・ブロックの悲劇的な死についてはエッセイも書かれていますから、特に関心が深かったのでしょうね。
マックス・ウェーバー関係は10冊弱程度ですが、これはいつ読んだものなのか。
後ろの方にはポリネシアなど未開社会の文化人類学の文献が目立ち、1960年代以降の関心の推移を反映していますね。

法政大学図書館・個人文庫リスト
http://www.hosei.ac.jp/library/collection/kojinbunko/ichigaya.html#bunko03

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渋沢家の「にこやかな没落」?

2014-04-06 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 6日(日)11時57分16秒

>筆綾丸さん
この前、渋沢栄一の生家「中ノ家」、地元の通称「なかんち」に行って、ボランティアの観光案内人のおじさんにいろいろ質問したのですが、その人は藍玉生産による血洗島周辺の豊かさを強調していましたね。
「中ノ家」よりも更に豊かで、幼いころの渋沢龍彦が妹と一緒に二階で自転車を乗り回したという「東ノ家」(ひがしんち)の位置も聞きましたが、同家の没落後、建物は地元有力者に買われて移築されてしまったので今は何も残っていませんね。
佐野眞一氏の『渋沢家三代』(文春新書、1998年)、以前読んだときはよくまとまった良書と思いましたが、著者自身の「没落」後に改めて読むと、下品な表現や妙な思い込みの多さが気になります。
私が一番不思議だなと思っていたのは渋沢敬三がGHQによる財閥解体に異常に協力的だったことで、もともと渋沢家は三井・三菱と比較したら財閥といえるような存在ですらなく、ちょっと工夫すれば、別に違法な手段を弄さずとも一族に財産を残すことはたぶん可能だったのに、殆ど自殺行為のように財産を捨て去ってしまった点です。
佐野眞一氏は「にこやかな没落」などと書いていますが、敬三本人は気分がさっぱりしても、巻き込まれてしまった一族はたまったものではないですね。
ま、というようなことをボランティアのおじさんに言ったら、その人も「そうなんですよねー」と言っていました。
地元の人は渋沢の財力が残って地元に貢献してくれたらありがたかったろうし、敬三が好きだった民俗学の世界の人も、従来どおり強力なパトロンとして活躍してくれたらどんなにありがたかったかもしれないのに、敬三は全てを捨て去ってしまいましたからねー。

渋沢栄一生家

>三田村雅子氏
以前、高岸輝氏の『室町絵巻の魔力』をきっかけに少し検討しましたが、訳の分からないことばかり言っていて、困った人ですね。
足利義満と源氏物語をめぐっては、今をときめく小川剛生氏や桜井英治氏も、熱病に罹ったようにタワゴトを言っていましたね。

高岸輝『室町絵巻の魔力』
組曲「北山」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「手墓村と血洗島村」 2014/04/05(土) 13:43:28
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9F%BA%E6%9D%91
指揮者の尾高忠明氏も尾高一族ですね。惇忠氏の手計村(昔の表記は手墓村)と云い、澁澤翁の血洗島村と云い、おどろおどろしい名が近接していて、しかも、同時に二人の偉人を輩出するという、利根川右岸における不思議な地ではありますね。

三田村雅子氏と云い、河添房江氏と云い、失礼ながら、源氏研究者は本当に大丈夫なんだろうか、という危惧を覚えます。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma21-12.htm
円覚寺は円覚経に基づくので濁音になるはずですが、ここでも宗教知識の欠如を露呈していますね。
「以昨日供養經巻。仰左衛門尉義村。遣三浦。被沈海底云々。依有御夢想告也。」(『吾妻鏡』建保元年十二月)という実朝の円覚経の話は、ドビュッシーの『沈める寺』のようで、私の偏愛するところです。

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つまり国風文化とよばれる時代の内実をささえていたのが、東アジア交易圏であり、国風文化とは、鎖国のような文化環境で花開いたものではなく、唐の文物なしでは成り立たなかった文化なのである。
国風文化は都市の文化といわれるが、平安京という都市に富が集中するほど、唐物という奢侈品への欲望が日ましに高まることは必然であった。その意味では国風文化とは、唐物の奢侈品を享受する環境にあって醸成された文化といえよう。(河添房江『唐物の文化史』49頁)
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ついでに言えば、そもそも「国風文化」なんて言い方は、言葉遣いとして間違っていますから、そろそろやめたほうがいいですね。平安時代に「国風」と言えば「土風」と同義で、つまりは地方のお国柄という意味です。決して「日本風」という意味ではありません。藤原明衡の『新猿楽記』のなかに、商人の主領、八郎真人が扱っている物品のリストがあって、「唐物」はこれこれ、「本朝の物」はこれこれというように書かれていますから、自国文化を指す場合には、「本朝文化」とでも言ったほうがよいかと思います。(東島誠×與那覇潤『日本の起源』35頁)
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病膏肓に入る・・・東島氏のシニカルな表情が見えてくるようですね。
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尾高邦雄氏の「最初の出会い」

2014-04-05 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 5日(土)10時41分36秒

日本におけるウェーバーの受容史が気になって少し調べてみたのですが、手始めには中央公論社『世界の名著50 ウェーバー』(1975年)の尾高邦雄氏による解説が分かりやすいですね。

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最初の出会い

 マックス・ウェーバーの名をはじめて私が知ったのは、仙台の旧制二高の三年生のときであった。いまではもう半世紀近くも前のことになる。ウェーバーの名を教えてくれたのは、亡くなった兄の法学者朝雄(ともお)で、当時京都に住んでいた兄は、長い休暇のときはいつも東京に出てきて、麹町にあった母の家に泊まっていた。
 そうした兄の東京滞在のある日、つれだって神田へ古本あさりに出かけたが、たまたまはいった駿河台下の丸善神田支店の二階で、私ははじめてウェーバーの書物に出会った。重厚なドイツ書を並べた書棚から、兄はうやうやしく濃紺クロース装の分厚い一冊の書物をぬき出して、「これが社会学でいちばん偉い人の本だ」と教えてくれた。その本は、のちに私がウェーバーの書物のなかでも特別親しむようになった『科学論論集』であった。
 ウェーバーの書物をはじめて自分のものにしたのは、昭和四年に東大の社会学科に入学した年である。(中略)
 旧制高校でドイツ語を学び、それまで一、二冊のドイツ語原書も読み、社会学者のテンニエスやジンメルのクセのある文章にも接したことのある私であったが、ウェーバーのドイツ語の難解さは、また一種特別のものであった。お世辞にも名文とはいえない彼の文章は、一ページ読むのに一時間以上もかかることがあった。(後略)
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尾高邦雄氏は1908年生まれで、父方の祖父が尾高惇忠、母方の祖父が渋沢栄一という超エリート家庭に育った人ですね。
年齢は石母田氏より四歳上ですが、石母田氏は小学校を五年、中学校を四年で終了していて、普通の人より合計二年早いので、旧制二高と東大の入学はいずれも尾高邦雄氏より二年遅いだけですね。
東京育ちの尾高邦雄氏にして上記のような事情であり、他方、石母田氏の「私の読書遍歴」(著作集第16巻、283p以下)というエッセイによれば、石母田氏は旧制二高時代は原書も英語中心のようなので、石母田氏がウェーバーに触れたとしても、それは早くて大学入学後のようですね。
ちなみにこのエッセイには、

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 社会科学=マルクス主義を知ったのは高等学校二年のときで、三木清の著作や、あとで『転形期の歴史学』におさめられた羽仁五郎の諸論文を通してであったと思う。今でもこの二人の学者の論文があたえた新鮮で強烈な印象は昨日のことのように想起される。マルクス=エンゲルスの諸著作も、主としてこの二人の学者の眼を通して読んだので、一方ではマルクス主義の方向へ急速にひきよせられながら、他方では生の哲学に関心をもつようになった。この頃からディルタイのものを系統的に読むようになったが生の哲学は一般にこの時代のインテリゲンチャにとって魅力ある思想であった。(後略)
-------

とあり、「社会科学=マルクス主義」となっているので、この点からもウェーバーとはまだ縁がなかったであろうことが想像されます。
なお、高等学校二年というのは前述の理由で16歳の頃ですから、思想的にも相当な早熟ぶりですね。

>筆綾丸さん
河添房江氏は源氏物語の研究者であり、三田村雅子氏と共著も出している方ですね。
以前、この掲示板でも少し触れたように記憶しているのですが、かなり古い話だったのか、検索しても出てきません。
見慣れぬ振り仮名の数がそこまで多いと、何か異常な感じがしますね。
上行寺の「上行」など法華経由来の言葉ですから、読み方に河添氏独自の理論があるならば法華経受容の歴史から始めてもらう必要がありますね。

尾高邦雄

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「振仮名の文化史」 2014/04/05(土) 00:08:03
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/
河添房江氏『唐物の文化史』の内、「第四章 武士の時代の唐物」と「第五章 茶の湯と天下人」を、ザッと眺めてみました。
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さて、この新書をまとめる間に、母の病気と死があり、その喪失感を埋めるかのように原稿を書きつづけた日々もあった。脱稿が最初に予定していたより、ずっと遅れてしまったが、それでも「研究者ならば、いつか岩波から本を出しなさい」と大昔、院生の私に言ってくれた父が健在なうちに、何とかこの本を捧げることができたのは幸いであったと思う。(237頁)
---------------------------
と「あとがき」にあり、念願の岩波新書のようですが、見慣れないフリガナが目立ちますね。些末なことながら、著者自身の読み方なのか、あるいは、岩波書店編集部の読み方なのか。・・・五月蠅いわね、昔のことだから、どう読んだか、ほんとはよくわからないの。

① 陳和卿(ちんわきょう) → ちんな(わ)けい? (113頁)
② 泉涌寺(せんゆうじ) → せんにゅうじ? (117頁)
③一山一寧(いちざんいちねい) → いっさんいちねい? (117頁)
④円覚寺(えんかくじ) → えんがくじ? (118頁)
⑤金沢実時(かねざわさねとき) → かねさわさねとき? (118頁)
⑥上行寺(じょうこうじ) → じょうぎょうじ? (120頁)
⑦ 一条経嗣(-のりつぐ) → ーつねつぐ? (135頁)
⑧ 牧谿(もくけい) → もっけい? (136頁)
⑨ 「万疋(ばんじょう)」の価値 → 「万丈(まんじょう)」の価値? (140頁)
⑩ 相国寺(そうこくじ) → しょうこくじ? (142頁)
⑪津田宗及(つだそうきゅう) → つだそうぎゅう? (150頁)
⑫滝川一益(たきがわかずまさ) → たきがわかずます? (152頁)
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「思想上の観点」についての和風解説

2014-04-03 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 3日(木)08時17分16秒

石母田氏の「文庫版によせて」は「思想上の観点」について、終始一貫、和風の解説をしていますね。

--------
文庫版によせて

 『中世的世界の形成』の本文だけを「文庫本」の形で刊行することになった。これは全く、石井進氏、千々和到氏、福田栄次郎氏等の努力によるものである。厚く謝意を表する。原本及び影写本の校合等から個々の誤植の訂正に至る仕事は、並大抵の苦労ではなかったのである(「凡例」参照)。
 『中世的世界の形成』の執筆に際し、歴史学上の過去の業績については、細大もらさず注記したが、一本にまとめるについての思想上の観点については何も触れなかったので、ここで一言しておきたい。
 当時の思想上の観点は多様であったが、その一つとして山路愛山を忘れることはできない。
 (16行略)
 また、一九二六年(大正十五)四月、幸田露伴は『為朝』を発表した。
 (11行略)
 一九三四年(昭和九)、国史研究会編集『岩波講座 日本歴史』の一篇として、平泉澄の「保元平治の乱と平氏」が現われた。皇国史観の初期の業績である。乱の原因は「上代末期に於ける腐敗堕落の積り積つて、遂に爆発したるもの」である。その結果は「すべてこれ道徳の蹂躙」であり、上下秩序の紊乱である。これが平泉澄による保元の乱である。更に平泉は「而して国体の自覚よりする国家革新の運動は、之を後鳥羽上皇の御指揮に待たねばならなかつたのである」と、この一篇を結んでいる(なお皇国史観の歴史観については、永原慶二『皇国史観』岩波ブックレット二〇、一九八三年刊、を参照)
 『中世的世界の形成』は、このような時期に、かかる歴史学の反動的傾向と戦うために書かれたものである。
 (9行略)
             (一九八五年七月)
--------

石母田氏は1986年1月18日に亡くなられているので、執筆は死去の半年前ですね。
この時点で石母田氏の健康状態は相当悪化していて、石母田達氏の「兄を偲ぶ」(『激動を走り抜けた八十年』p160、初出は『歴史評論』1986年8月)には、「義姉の話によると、兄はたびたび夜中に起きだして這うようにして机にかじりつき、新しく購入した本などを読み、清書に苦労するような、ふるえた字でこの原稿を書き上げたという。いま思えばこのとき注ぎこんだ精力と体力が、兄の死を早める一因となったのであろう」とありますね。
ところで石母田氏が平泉澄氏の1934年の論文を「皇国史観の初期の業績」とされている点、あれっ、と思いました。
これでは皇国史観の隆盛もたかだか十年ということになってしまいますから、永原慶二氏の『皇国史観』を読んだ読者が受けるであろう印象とはいささか齟齬がありそうです。
ま、それはともかく、「文庫版によせて」は日本国内のことしか書いてありませんので、石井氏のインタビューがなかったら「当時の思想上の観点」にウェーバーがあるとはなかなか気づけないですね。
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石井先生、「果たしてそれだけでしょうか」(by 小太郎)

2014-04-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 2日(水)21時31分24秒

先に「古代文化没落の社会的諸原因」とのタイトルで石井進氏の「『中世的世界』と石母田史学の形成」から少し引用しましたが、そもそもこの石井氏と石母田氏のやりとりは、1985年の『中世的世界の形成』岩波文庫版出版の準備として、石井氏が千々和到氏と一緒に「引用文書の対校や本文の正誤などのお手伝いをし、さらに「解説」まで書かせて頂」いた際に、「数回にわたって先生から執筆当時の事情などについてお話を伺」った時のものですね。(p131)
石井氏は続けて次のように書かれています。

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 古代の家族と村落、奴隷制と進めてこられた先生の研究が、ようやく古代社会の全体像の把握に向われた時、ウェーバーのこの論文が一つの役割を果たしたのではないでしょうか。「没落しようとする古代社会及び古代都市の歴史的表現として」宇津保物語をとらえようとする視角の設定のなかに、私はウェーバーの<ウンターガング>のひびきを感ずるのです。もちろん無所有・無家庭の奴隷大衆に家庭・財産を返還したところに奴隷制の決定的崩壊を説くウェーバーの視角が、そのまま先生の奴隷制から農奴制への転換論になっている、というのではありませんが。
--------

念のため確認しましたが、「宇津保物語についての覚書」の注記に引用されているのは日本の文献だけで、ウェーバーへの言及は一切ありません。
仮に石井氏が石母田氏が亡くなる前年にこのインタビューをされていなければ、「宇津保物語についての覚書」とウェーバーとの関係は誰にも知られなかった可能性がありますね。
ところで、上記引用部分の2ページ後には、

--------
 さて『中世的世界の形成』の内容ですが、最初の問題は、何故それが黒田荘でなければならなかったのか、です。初版の序には「無数の庄園のなかで関係古文書のもっとも豊富な庄園の一つであり、かつ平安時代から室町時代まで長い時代を行きつづけた」から、と記されていますが、果たしてそれだけでしょうか。先生に質問した時、言下に「それは黒田悪党ですよ」と言われました。「悪党には古代的世界の没落の表現として興味をもちました。黒田悪党といえば、当時の悪党研究の代表的事例でしたからね」とのことでした。
--------

とあります。
そして更に7ページ後に、

--------
 思えば愚問でしたが、私はこの「文庫版によせて」の原稿を拝見した時、「先生、愛山以外の当時の思想上の観点とは、何だったのですか」と申しましたら、「もちろんマルクスとウェーバーですよ」と答えられました。マルクスは当然ですが、ウェーバーがあげられたのは、例の<没落(ウンターガング)>との関連でしょう。(後略)
--------

とあって、石井氏はウェーバーの影響を「没落(ウンターガング)」に限定されていますが、ここは微妙ですね。
もっと広く、『中世的世界の形成』執筆当時、石母田氏にとってウェーバーがマルクスと並ぶ「思想上の観点」だったと考えることも十分に可能のような感じがします。
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