Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

あぁ憧れのマレーシアサッカー 

2008-05-05 | Football Asia

マレーシアの首都 Kuala Lumpur の郊外にある巨大な立派な空港。 KLIA からタクシーで約1時間の所にAsian Football Confederation アジアサッカー連盟の本部事務所がある。

アジアサッカーの発展はマレーシア建国の父と言われる Tunku Abdul Rahman 初代マレーシア首相の尽力によるものが大きい。マレーシアは19世紀半ば英国の植民地とされ宗主国からの移住者が多くなるにつれてサッカーも普及し1933年には当地にサッカー協会( FAM ) が設立され、その発足から約20年後の1951年にRahaman 氏がマレーシア人として初めてFAMの会長に就任。そして1954年のアジアサッカー連盟 AFC の創設にも貢献。その為にAFC の本部はマレーシアの首都 Kuala Lumpur にある。
1957年にマレーシアが英国から独立を勝ち取りその記念としてアジアの代表チームを集めて開催した大会が Merdeka Tournament 。 Merdeka とはマレー語で独立と言う意味で、マレーシア及びアジア諸国が独立を果たした事を記念しての開催と聞いた事がある。1959年親日家でもあった Rahman 会長はこ Merdeka 大会に当時アジアではレベルの低かった日本を招待する。当時の日本のレベルそしてアジアでのこの大会の位置づけを考えれば Merdeka 大会への招待は本当に貴重な経験であった。以降も日本の招待は続けて貰い1976年大会では奥寺らの活躍で2位に入る。
しかし1980年代に入り日本、韓国を始めアジアの列強は Merdeka 大会への参加に消極的になる。1990年に日本は Merdeka大会への参加を久々に決めていたが当時湾岸戦争が勃発。テロ行為を恐れ日本サッカー協会は選手の派遣を見送る事に。以降 Merdeka 大会への日本代表参加の話は聞いた事がない。

1970年代マレーシアはアジアでも列強の一つ。ミュンヘン五輪そしてモスクワ五輪では日本、韓国を抑えて出場権を獲得している。特にモスクワ五輪予選では地元Kuala Lumpur での集中開催と言うアドヴァンテージはあったが大本命の韓国を 3-0 で破り、日本とは引き分け決勝に進出。そこで再び対戦した韓国を終了3分前にジェームス=ウォンのゴールで韓国を破り見事にモスクワ五輪出場を決めた。しかし当時ソ連軍がアフガニスタンに侵攻、当時のJカーターアメリカ大統領のモスクワ五輪ボイコット案に、西ドイツ、日本の西側陣営が同調。マレーシアもそれに従い幻のアジア代表に終わる。それがマレーシアの最後の栄光だった。
日本は4年後のロス五輪予選でもマレーシアに 1-2 で敗れ、1986年のMerdeka 大会でも準決勝にマレーシアに 1-2 敗けを喫しているがこの時のマレーシア代表ヘッドコーチがジェフ市原でヨゼフ=ベングローシュ。日本がマレーシアに追い付くにはJリーグが発足するまで待たねばならなかった。

マレーシアサッカーの地盤沈下は一向に改善されず、昨年開催された Asian Cup でも1次リーグ3連敗で敗退。(中国 1-5, ウズベキスタン 0-5, イラン 0-3 ) ホスト国で唯一勝点さえ挙げられなかった。
大会後も 「マレーシアサッカー協会は代表チーム選手を選抜する過程で人種差別的な基準を設けていたのではないか」 という疑惑が巻き起こる。マレーシアはマレー系60%、中国系23%、インド系7%などからなる多民族国家。だが、今回のアジア杯最終登録選手23人のうち、20人がマレー系選手、インド人は2人だけ。華人はゼロだったため騒動となった。これについてマレーシアサッカー協会のシェイク・アフマド副会長は、「協会はこれまで1度もマレー人だけからなる代表チームを作ろうと試みたことはない。宗教や人種は選抜基準ではない」と話している。またU-12の選手セレクションに誰も参加しないなど、今日のインド人や華人があまりサッカーに関心をもっていないことに遠因があるとした上で、現時点では今の布陣がベストだと主張した

あの強かったマレーシアは一体どうしてしまったのだろう。ソー・チン・アン、モクタル・ダハリ、ジェームス・ウォン、アブドーラ・アリ。アジアでも屈指の選手達を輩出した国なのに………

シンガポールをあとにし次の訪問地 Kuala Lumpur に到着した。シンガポールよりは気温も湿度も低く少しは過ごし易かったが今年は雨が多いらしい。滞在中は曇天が目立った。それでも東南アジア独特の湿った空気は避けられなかった。 マレーシアの国内リーグは2003年までは通称 : Mリーグとして、大会1部リーグ(プレミア1)にはマレーシア14州を代表するクラブチーム(実質的には州選抜チーム)と警察、軍隊などの国家機関のサッカー部4チームを加えた18チームの総当り2回制でリーグ戦を行い、1部リーグ戦上位12チームと2部リーグ(プレミア2)の上位4チームの16チームが日本の天皇杯に相当するトーナメント戦・「マレーシアカップ」に進出した。また1部17,18位と2部1,2位が翌年度入れ替わった。これを2004年から再編してより密度の濃い試合を提供することになった。これにより1部(スーパーリーグ)8チーム、2部(プレミアリーグ)18チームとし、1部リーグ所属全チームは成績無関係でもれなくマレーシアカップの出場権を得るようになった。2部はA,Bの2グループ制(各9チームずつ)となった。また1部の7,8位チームと2部の各組1位チームが翌年度の自動入れ替えとなっていた。
しかし今は1部リーグに当たる TM Super League に13そして2部リーグにあたる TM Premier League に13ずつチームがあり Super League の下位2チームとPremier League の上位2チームが自動入れ替えとなっているらしい。その他入れ替え戦を行っているかは解らなかった。
現在 TM Super League では昨年度 League, Malaysia FA Cup, Malaysia Cup 3冠王の Kedah FA が独走。はやくも優勝を決めている。 TM Super League の Kedah FA の試合はシンガポールでもテレビ観戦した。(シンガポールでもマレーシアのテレビは見る事が出来る。)結構観客が入っていた。 私の滞在中は Super League の試合は無かったが Premier League の試合があった。あまりマレーシアの地理には詳しくないので何とか近所の競技場を探すと昨年のアジアカップで使われた Bkit Jail Stadium と Stadium Boalasepak で試合がある事が解ったがここは昇格に関係する試合カードを選ぶことに。
Premier League では昇格争いが激しく第24週を終わって首位 Kuala Muda NAZA が22試合で勝点55、KL Plus が22試合で勝点54で2位。続いて Kelatan が勝点53で続いていたが Kelatan は消化試合数が上位の2チームよりも1試合多くこの週は試合がなかった。各チーム試合数は24試合。従ってこの日上位2チームは勝つと昇格が決まる。その上位2チームの一つ KL Plus FC の試合が Boalasepak Stadium で行われた。対戦に相手は同じ Kuala Lumpur をホームにする Kuala Lumpur FC 。いわばK.L.ダービーか?しかし Kuala Lumpur FCは13チーム中12位と低迷している。

仕事を終えてタクシーで 競技場に向かおうとするも誰もこの競技場が解らない。3台目のタクシー運転手がようやくここを知っていて目的地に向かう。競技場に着くと試合が始まったばかりであった。チケットを買って中に入ろうとすると歓声が聞こえた。着席して電光掲示板を見ると Kuala Lumpur FC が先制していた。
  
   

この試合に向けて“予習”を全くしていなかったのでどのチームのユニフォームの色すらわからない。だが試合は徹頭徹尾青と白の横縞のユニフォームが赤のユニフォームを攻め立てている。この横縞のユニフォーム側が KL Plus とすぐに解った。
その2トップ Andian Dario Trinidad はアルゼンチンからの助っ人で Alex Agbo はナイジェリア人選手。この二人にボールが入ると Kuala Lumpur DF 陣は一人では対応できず2人3人と集まらざるを得ない。
   
    

そして右の MF Subramanian, 左の Abu Hassan が両サイドを上がって来る。それでも Kuala Lumpur FC は22分カウンターからチャンスを掴み掛けたところを KL Plus DF に倒され右のサイドでFKを得る。それを Azidan Sarudin が上げ FW Zamri Hassan がヘッドを放つがクロスバーを僅かに越える。ここでもう1点入っておれば試合はもっと面白くなったかもしれない。後は KL Plus の攻勢が続く。 FW Dario Torinidad が中盤に下がりMFの Subramanian, Hassan が最前線に出て来る事も。28分には Torinidad が左サイドを上がった Subaramaniam にスルーを送り中に折り返し攻撃参加したDFの Nizam Hanif がGK Amri Zaini を外してシュートを放つが Kuala Lumpur FC の DF Hasnol Hamzah が戻ってクリアー。 KL Plus のサポーター達からは落胆の溜息が。しかし3分後彼らの歓声が沸き上がる。MF Khairulanuar Jamil が左に流れて低いライナイーのクロスを入れるとそれを Alex Agbo がワントラップしてそのままシュート。ボールはゴールネットを揺らしこの試合で昇格を目指す KL Plus が試合を振り出しに戻した。
KL Plus は更に35分 Abu Hassan の右からのクロスに Alex Agbo がヘッドを放つがこれはバーを越える。38分には左サイドでFKを得て Subramaniam がゴール前に入れるがコーナーに逃れられる。その直後に もAlex Agbo がミドルを放つがGKAmri Zaini がパンチングでコーナーに。前半は猛攻を見せた KL Plus だが逆転にまでは至らなかった。

ハーフタイム中に隣に座っていた御婦人が “ You speak English ?” と声を掛けて来た。なんと御主人が Kuala Lumpur FC のコーチをされているとの事。自分は現地の在留邦人でなく日本から来てこの試合があることを知ってタクシーを飛ばして観に来たと言うと驚いていた。地元の華僑系のサッカー好きだと思っていたが顔つきが華僑っぽくないので….とも言っていた。
このご婦人としばしサッカー談議を。70年代のマレーシアは本当に強くて今でもその印象が消えない。昨年のアジアカップでもここに来たが本当にマレーシアはどうしてしまったのだろう…..ってな話題を降った。彼女が言うにはとにかく協会に長期的なヴィジョンが無くその上最近では England の Premiership の方に一般国民の興味が傾いており 選手達のモチベーションも上がらない。その上、ギャンブルが横行しておりそれから派生する八百長疑惑が後を絶たない、今のこの現状を打開しないと強くならない、しかし政治家達の人気取りの為にサッカー協会が使われている限り改善は無いと言っていた。

後半 KL Plus はアルゼンチン人FW Trinidad を下げて Samsuddn を投入し2トップを Agbo と組ませる。 Trinidad 怪我でもしたのか…… しかし KL Plus が昇格を目指して攻め続ける。50分にはその Samsuddn が右サイドバックのReeshafiq Alwi からボールを受けてシュートを放つが僅かに外れる。47分には Alex Agbo がプレー中に足を痛めるがベンチにさがらずそのままピッチに残り、4分後にフリーで抜け出てシュートを放つがここは DF Kamarulzaman がブロック。53分にはトップ下の M.K. Jamil を下げて Mohd Nor を入れて右サイドに張らせて3トップの様な形に。そして64分CKを得た KL Plus は攻撃参加したCBのNazrul Erwan Makmur 主将がヘディングシュートを叩き込み逆転ゴールを決めた。Makmur は試合中にも随所にヘディングの強さを見せていた。大喜びの KL Plus サポーター達。しかし試合はまだ25分残っている。 Kuala Lumpur FC も意地は見せてくれるだろう…..と期待したのだが。

     

こからKuala Lumpur ベンチは選手交替を立て続けに行う。 右の MF Karunanithi に替えて29番の選手が投入されたがこの選手は試合前に貰ったメンバーリストに載っていなかったので名前が解らなかった。71分には GKが替わり背番号1番の Saiful Amar Sudar が投入される。かつてここには Abdul Rashid Hassan と言うGKがおりマレーシア代表にも選出され1984年のロス五輪予選の日本戦に出場している。
隣の御婦人が教えてくれたがこの試合にはGK を含めた5人の選手がユースチーム所属との事であった。またガーナとアルゼンチンから助っ人選手がいるのだがこの試合にはベンチ入りをしていなかった。もう帰国したのかな ?? 
73分には守備的MFの位置にいた Mohd Sabri に替わり Raja Yahya が入るが Mohd Sabri は Raja Yahya とタッチも交わさずベンチに下がってしまった…….

それでもKuala Lumpur はボランチ以降の押し上げが足らず前線との間が開いてしまい相手ゴール前までボールを運べない。そんななか唯一良い動きを見せたのが背番号8番の Azidan Sarudin 。ボールキープも出来てパスセンスも良くそこから幾度となく攻撃展開が始まった。選手交代後徐々に Kuala Lumpur が盛り返す。FW のZamri Hassan が75分、79分と連続し惜しいヘディングシュートを放つ。Ibrahim Duad, Kamarulzaman と言った左右のサイドバックがサイド攻撃にからみ Azidan Sarudin が中盤で左右に動きゲームを作る。一方のKL Plus はFW の Alex Agbo 以外はすべて自陣内に下がって守備を固めようとするがちょっとボランチのポジションが低過ぎ無いか???  89分には FW Agbo が下がり完全に守備固めに入る。同点ゴールを目指して Kuala Lumpur は最前線に4人を張らせるが、そのままタイムアップ。 昇格を決めた KL Plus の選手、コーチ陣そしてサポーター達は大喜び。この気持ちよく解るなぁ…….愛する京都サンガの入れ替え戦を思い出した。

隣の御婦人は勝者に拍手を送り私と握手を交わしスタンドを後にして行った。試合中何度かデジカメを回して試合の様子を動画撮影していた。御主人に見せるのかな………
試合が終わってもしばらく KL Plus と選手とサポーター達の歓喜は続いた。その歓喜いつまでもつづく事を願って私も競技場の外に……
やっと捕まえたタクシーの中で運転手がこの試合の結果をラジオで聴いたと教えてくれた。彼も日本のサッカーが好きだと言っていた。そしてマレーシアの事も……. 

“昔は日本もサッカーが強かったんだけどなぁ…..ナカタ、ナカムラ…..いい選手いたんだよ…….”

将来そう言われない事を願いながら翌日の仕事の事も頭に浮かべた………………



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2 コメント

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生殺与奪の権 (中東の太鼓)
2008-05-05 18:18:57
こんばんはコンティさん
マレーシアのスポーツというと世界的には国技であるバドミントンを真っ先に思い浮かびます。
そして番外編では「あしたのジョー」で矢吹丈が保持する東洋太平洋バンタム級王座2度目の防衛戦の相手となった”野獣”ハリマオです。
(ちなみに私は子供の頃、梶原一騎と大映ドラマで”情操教育”を受けました)

マレーシアのサッカーは1970年代が最盛期だと思います。
中でも1971年秋にソウルで開催されたミュンヘン五輪アジア予選がマレーシアの黄金時代の端緒だと思います。
この時の日本代表コーチでメキシコ五輪銅メダリストの八重樫茂生は五輪予選の前に専門誌に「日韓戦は学生野球で言えば早慶戦のムードにぴったりです。だからどうしても負けられません」と早稲田出身者らしい絶妙なコメントをしてました。
しかし有力候補の日韓両国とも台風の荒天の影響もあり伏兵の前に枕を並べて討ち死に。
ちなみに日韓両国ともアマド・バカルに全得点を許してます。
予選最終日の日韓戦の前の試合でマレーシアはフィリピンに5-0で大勝し4戦全勝で初の五輪出場権を獲得。
その為、当初の意味を成してない日韓戦は盛り上がりにイマイチ欠けたので翌日の新聞には「まるで優勝が決まった後の早慶戦にそっくり」と揶揄されました。

ただマレーシアは1980年代の半ば頃には凋落します。
「れば」「たら」の話になりますが今思うと彼らの凋落がもう少し遅かったら日本はメキシコW杯に出場していたと思います。
マレーシアは1次予選で韓国とネパールと同組になり初戦でホームで韓国に1-0で勝利を収めてます。
次戦でマレーシアは敵地で格下ネパールに大量得点で勝利すれば敵地での韓国戦を落としても2次予選進出の可能性が濃厚だったからです。
しかしマレーシアはこの試合を引き分けに終わり敵地での韓国戦も0-2で敗れたので番狂わせは起きませんでした。
もしマレーシアが勝ち上がっていれば日本の最終予選の相手はマレーシアかインドネシアだったのでW杯初出場の可能性はかなり高かったと思います。
高地カトマンズの知られざるこの一戦こそが日韓両国の運命を握ってたのです。
そしてこれと似たような展開が12年後に巡ってきます。

フランスW杯アジア最終予選で迷走状態だった日本はソウルでの韓国戦で2-0で快勝して息を吹き返します。
しかしライバルのUAEは地元で2試合を残し全勝すれば最終的に勝ち点で日本を上回ります。
しかも2試合とも日本の試合の翌日に試合があったのでライバルの結果を知ってから戦える有利な状況でした。
また相手のウズベキスタンは早々と出場の望みが断たれており、既に出場権を獲得した韓国もモチベーションが低下してました。
更に韓国はエースの崔龍珠が負傷し守備の要の崔英一も出場停止だったのでUAEの優位は変わりませんでした。
日本の運命はやる気が不明なウズベキスタンの敵地での奮闘に委ねられていたのです。
私は長年サッカーを見てきて第3国同士の試合を命懸けで応援したのはこれが唯一です。
結果はご存知の通りスコアレスドローに終わり日本が最終的にUAEを勝ち点で上回りますが、この試合ほど心と体に悪い試合は今まで無かったです。
試合は完全にUAEペースでまさにシュート練習状態。
タシケントでの日本戦の終了間際で大ポカをやったGKのブガロがこの日はファインセーブの連続でまるで神が乗り移っているのかと思えました。
異常に長いロスタイムが永遠に続くのではと思い背筋が寒くなったのを昨日のように覚えてます。

考えると秋から始まる南アW杯アジア最終予選は5チーム×2組の奇数のリーグ戦になるので試合をしないチームが必ず1チーム出るので混戦になると予選の終盤にはこういう展開が再現されるかもしれません。
真剣勝負は綺麗事では済まされないので時には他国の不幸も願う時もあります。
ただし他国に己の運命を握られるのはもうコリゴリです。
(傍から見るとこの上なくドラマチックでとても愉快ですけど)
ただそれ以前に3次予選を突破しなくては話にはなりませんが・・・
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マレーシア (Mr.コンティ)
2008-05-08 00:48:47
中東の太鼓様

ハリマオですか。懐かしい。
でもハリマオは東洋太平洋タイトル初防衛戦の相手じゃなかったかなぁ....金竜飛からタイトルを奪取し、すぐに世界タイトルへと気持ちがはやる矢吹にテレビ関東との交渉よりも早くホセ・メンドーサとの興行権を獲得しその興行権を返す条件として白木葉子が矢吹の野性味を取り戻させるために選んだ対戦相手でしたね......

ミュンヘン五輪予選はラジオで生中継されテレビで録画放送されたらしいですが私が見たのは翌年の第1回日韓定期戦のハーフタイム中で五輪予選での日韓戦をダイジェストで数分流した場面だけです。
その時はそれが何かはよくはわからずにいました。

Mohammed Bakar はミュンヘン五輪では怪我をしていたのか出場時間はアメリカ戦での30分足らずでした。
その時からあの伝説のソー・チン・アンがいました。
ミュンヘン五輪予選、そして地元開催のモスクワ五輪予選では天候が悪かったのがマレーシアに幸いしたのかもしれませんが、私にとってはやはり1980年モスクワ五輪予選でのマレーシアの強さが強烈に印象に残っています。
メキシコワールドカップ予選で韓国がマレーシアに敗れた事が国立での雨の中での北朝鮮との試合のテレビ中継のハーフタイムで紹介されましたがその時もモスクワ五輪予選を思い出しました。
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