Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

さいたまシティカップ 憧れのバイエルン その2

2006-08-14 | EURO Football
バイエルンの選手達は前日の朝に成田に到着したらしい。そしてその足でカーン等数人の選手は駒場競技場でのサッカースクールに参加した。到着直後に時差になれるのとコンディショニングの為にすぐに身体を動かす事は海外のチームは必ずと言って良いほど行う。しかし、カーンを初めこのスクールに参加してくれた選手には本当に感謝すべきだ。
バイエルンサポーターから見ればこの試合の見所は1FC Köln から移籍してきてチームデビューとなるポドルスキーのプレーだっただろう。試合開始からバイエルンはテンポ良く攻め、29分にはネネのファウルで得たFKからフリーでヘッド、36分にも惜しいシュートを放った。そして元オランダ代表のロイ=マカイーも前半は3度(25分、31分、37分)にあわやというシュートを放った。31歳のマカーイ。ワールドカップには残念ながら選ばれなかった。2年後の欧州選手権には代表復帰を目指すのかな? またGKカーンも見せ場を。30分、黒部のドリブルシュートを倒れこんで好捕。すると観客席からは大歓声が。試合前の練習で姿を現した時も拍手が送られ、右手を上げてこたえていた。38分にはカーンからのゴールキックを受けたバンニュイテンがダイレクトで戻したボールがゴールに転がり込んだが、これは“ペナルティーエリアを出ていないのでノーゴール”。なかなか魅せてくれる。 一方の浦和レッズ。二日前に酷暑の甲府で何とか 1-1 と引分。甲府戦スタメンのGK山岸を始め、闘莉王、平井、長谷部、田中達也が外れている。“闘莉王はいないけどネネがいますね。わざわざミュンヘンから来ていただいている選手に怪我をさせなければ良いのですが。”とIさんが言う。“そうですね。替わりに浦和の選手を貸しますからなんて言っても受けてくれないでしょうね。” しかし、さすがと唸らせたのは小野伸二だ。シュバインシュタイガー、オードルに囲まれてもボールをキープしたり、ワンタッチでパスを出したり。圧巻は12分。中盤でボールを受けてドリブルで突破。1人残ったバイエルンDFもかわしてフリーではなったシュートはポストを叩いてしまった。小野は前半で下がったが彼のワールドクラスのプレーにバイエルンフロントも獲得を考えてくれたかな?バイエルンは日本市場のマーケティングも考えて日本選手の獲得を考えていた時期があった。一時はガンバと言うよりも代表のDF宮本の名前も上がったらしい。しかし、アジアからスカウトする選手はカリミを始めイランの選手ばかり。小野なんかいい仕事すると思うんだけど。ただし怪我さえなければ。ワールドカップではわずか11分しかプレー時間がなく、自身3回出場したワールドカップでは最短のプレー時間に甘んじた小野伸二。レッズサポーターはいかに思うかわからないがもう一度欧州でプレーして欲しいものだが。だがこの試合は、後半に小野が下がってからの方がレッズはチャンスを掴む。小野がいるとどうしても彼を頼って中に、中にボールが集ってしまうが、小野が抜けた事によってサイドにボールが散るようになった。ただこの日の小野のポジションがFWだったのでそうなったのかも。特にこの日スタメンの岡野は右サイドをよく疾走する。また左サイドは相馬がチャンスを作る。75分には近藤のヘッドを演出するクロスを送れば、79分にはダイレクトパスから抜け出してシュートを放つ。相対する19歳のバイエルンユース所属のフェルストナーは後方から警告タックルで止めるしかない。それでもシュートシーンはバイエルンが多く演出する。特に浦和の右サイドをシュバインシュタイガー、ラームそして後半から投入されたパラグアイ代表のサンタクルスが仕掛けてくる。岡野も守備に腐心し前に出られない時間が続く。だがGK山岸の好セーブもあり得点は許さない。“このまま親善試合らしく 0-0 で終わりますかね?”Iさんが言う。まださいたまシティカップで無得点試合は無いが、このままだとレッズは前回に続いて2試合連続完封を喫する事になる。 レッズサポーターからは次第にボルテージが上がる。 そして89分。左からのバイエルンのクリアーボールが右サイドにいた岡野に渡ってしまう。岡野の前にはシュバインシュタイガーがいたがそなままドリブルでシュバインシュタイガーを振り切りクロスを入れると中にはフリーの黒部がそのまま頭で押し込んでレッズサポーターの陣取る前で先制点を挙げた。“黒部、初ゴールじゃないですか?”Iさんが教えてくれた。“そうですねぇ。使わないんだったら我が京都パープルサンガに返してくれませんかね?” 黒部のゴールもそうだったが、ワールドカップ開始前に加地を怪我させたシュバインシュタイガーを振り切ってクロスを上げた岡野のドリブルも痛快だった。だが黒部の様子を見るとあまり嬉しそうでは。チーム内では浮いているのかな?だったらサンガに帰って来いよ、と本気で思う。

試合後ブッフバルト監督の“この時期にこれだけのワールドクラスの選手を従えて来日し、プレーをしてくれたBayern Münchenに感謝する。”“欧州でも最高のクラス選手達を相手に勝利できたことをうれしく思う。”というコメントはバイエルンのホームページにも掲載されていた。またマガト監督の“後半に入って能力では劣る浦和の選手達が元気付いてしまった。我々は前線で動ける選手がいなかった。この試合の結果は妥当なものだ。”と述べたのも同じくホームページに掲載されていた。Bayern Münchenの選手達は試合後そのまま成田空港に向かい帰国し、Bundesliga Cup の Schalke 04 戦に臨んだらしい。
昔は今回のバイエルンの様な日程で来日したクラブチーム相手にしても日本代表でさえ勝てなかった試合がいくつもあった。それが今や1クラブチーム単独でも互角以上の勝負を行えるようになった。1977年に 1FC Köln が来日した際にバイスバイラー監督が“偶然”見た奥寺をそのままチームの傘下に入れてしまった。この試合でもそういった選手は見られたかもしれない。 だがBayern Münchenのホームページでは得点者を Masayuki Okano としている。 これはいけない早速抗議のメールを送らねば......

さいたまシティカップ 憧れのバイエルン その1

2006-08-14 | EURO Football
7月31日。さいたまスタジアム2002 にさいたまシティカップを観戦に出掛けた。今年で4回目のこの試合。フェイエノールト、インテル=ミラノ、バルセロナに続いて今回は憧れのBayern Münchenを迎えた。今から31年前、1975年1月にBayern Münchenは初来日。シュバルツェンベック、ゲルハルト=ミュラー、若き日のカールハインツ=ルンメニンゲそしてベッケンバウアーらが日本代表と2試合を行った。当初の噂では半年前にワールドカップで優勝した西ドイツ代表が来日するとの事であったらしい。それはワールドカップ期間中に日本代表が西ドイツに遠征しその際に西ドイツ代表の来日が非公式に発表されたのが根拠らしい。それがBayern Münchenになったのだが、UEFA Chamipons Cup でアヤックスの4連覇を阻んで優勝したBayern Münchenの来日は当時の世界でのサッカーでの力関係を考えれば大変な企画であった事が後になって解った。 当時の日本代表は釜本、永井、森、藤島、GK横山らがいた。森がドリブルで駆け上がったり、釜本のシュートが僅かに外れたり、誰かのシュートがあわやゴールインとまで行ったりと日本もチャンスが何度かあった。結果は2試合ともBayern Münchenが 1-0 での勝利。アナウンサーが“世界一のチーム相手に健闘しました。”と言っていたのを思い出す。しかし、後に会社の先輩に貸して頂いた当時のサッカー専門誌によると“ピッチコンディションは最悪で、それがBayern Münchenの最少得点に繋がった。日本の健闘もあったが力の差は歴然。この差を埋めないと世界では戦えない。”との総括。その差を縮めるのに20数年かかったのだ。そしてベッケンバウアーの当時の来日の最高の思いでは“婚約指輪とネックレスを紛失したがそれを日本のファンが届けてくれた事。”らしい。
2回目の来日は1990年1月。これはテレビ東京の開局25周年記念の行事であった。当時積極的に世界のサッカーを見せてくれたのはテレビ東京系列であり、今でも私は他の民放が争ってサッカー中継を行う事に違和感をしか覚えない。この時はワールドカップイタリア大会を半年後に控えていた。Bayern Münchenにはシュテファン=ロイター、ユルゲン=コーラー、クラウス=アウゲンターラー、ライモント=アウマン、ハンス=プリュクラー、オラフ=トーンの西ドイツ代表組、それからソウル五輪メンバーのフランク=ミルがいた。対戦したのは日本リーグ選抜。木村和司、ラモス、金田稔喜、岡田武史らがメンバーにいた。当時の日本リーグは三浦カズが帰国する直前で、加茂周監督率いる日産自動車の全盛期。残念だったのはその日産の得点源レナト(後に柏レイソルの創設期に移籍)が怪我で参加できなかった事だった。 この試合、私は国立競技場に観戦に行った。観客の入りは半分以下だった。初来日時は超満員になったのに。試合は開始直後はバイエルンの選手も舐めていたのかあまり強く前に出てこなかったが、木村和がFKを直接狙いそれがクロスバーを直撃すると彼らも目の色が変わったのがプレーを見ていて解った。したそれでもラモスと木村和のコンビは、もう十年以上も共にプレーしているみたいで、ダイレクトで浮き球のワンツーで抜けたり、トリッキーなパス交換でバイエルンのDF陣を幻惑。先制ゴールは木村和がドリブルで持ち込んで相手DFをかわしてのものだった。その瞬間私は大声で“ナイス、シューッッッッッッッッ”と叫んだ。その後も後にレッズでプレーした田口のシュートがポストを直撃するなどチャンスを作った。1970年代、日本代表が低迷している時、外国のチームを呼んで日本代表と並んでJSL選抜との試合も組んだりしていた。そこには代表を引退していた釜本を初め、ラモス、ジョージ=与那城、ジャイールらブラジル人選手。小見などテクニックの高い選手が並び、大変魅力的な試合を繰り広げた。特に釜本のゴールで 1-1 と引分けた、ニースケンス、ベッケンバウアーを擁したニューヨーク=コスモスとの試合は圧巻だった。 それを思い出させた試合でもあった。しかし結局後半2得点を入れたBayern Münchenが逆転勝ち。 そのシーズンBayern Münchenは Champions Cup の準決勝まで進み、全盛期の AC Milan に 破れたが欧州でも屈指の強豪であることは間違いなかった。 
以降、欧州チャンピオンになり TOYOTA CUP で来日。そして夏の興行で何度か来日しているが、私はまだ日本がアジアレベルでも発展途上時期にあった70年代と90年初めの来日の方がずっと印象的だ。
16:30 から始まった“前座”試合のOB戦はBayern Münchenが余裕の 4-1 の勝利であった。私はむしろこの試合を楽しいみにしていた。しかし、というかやっぱりと言うか、ベッケンバウアーはいなかった。一緒に観戦したIさんに“3回目の奥さんとの新婚旅行とちゃいますか?30歳年下やもんなぁ。”と。そしてIさんは“ブッフバルト監督は怪我しているのでプレーしないらしいですよ。”と教えてくれた。相手のマガト監督は出るのに?でもマガト氏は現役時代はHSVハンブルグで欧州チャンピオンに輝いたのだから、バイエルンのOBとはなぁ?。試合前にBayern Münchenのホームページを覗いて見ると、けっこうこのOBチームは欧州でこういった Exhibition Game を行っているらしい。だがこの試合はGミュラーや問題児マリオ=バスラー(喧嘩別れして1999-2000のシーズンに出て行ったのによくOBチームに入れてもらえたなぁ?)と言った目玉選手は来日せず。それでもハンジ=ミュラー、ブレーメ、ルンメニンゲ、プリュグラーらは名を連ねていた。浦和の方は三菱重工、三菱自工世代の選手も多く登用しており、落合そして杉山隆一が起用されているのには泣けた。今でも杉山の様な俊足で正確なクロスを上げられる選手がいればなぁと思う。そして釜本の様な絶対的なストライカーも。 やがて日は暮れてきて“本番”のキックオフの時刻がやってくる。 観客の入りは約半分強(後の発表では29,000 人 過去最低の動員数) もう少し入ってあげても良いとおもうんだけどなぁ.......