Mr.コンティのRising JAPAN

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さいたまシティカップ 憧れのバイエルン その1

2006-08-14 | EURO Football
7月31日。さいたまスタジアム2002 にさいたまシティカップを観戦に出掛けた。今年で4回目のこの試合。フェイエノールト、インテル=ミラノ、バルセロナに続いて今回は憧れのBayern Münchenを迎えた。今から31年前、1975年1月にBayern Münchenは初来日。シュバルツェンベック、ゲルハルト=ミュラー、若き日のカールハインツ=ルンメニンゲそしてベッケンバウアーらが日本代表と2試合を行った。当初の噂では半年前にワールドカップで優勝した西ドイツ代表が来日するとの事であったらしい。それはワールドカップ期間中に日本代表が西ドイツに遠征しその際に西ドイツ代表の来日が非公式に発表されたのが根拠らしい。それがBayern Münchenになったのだが、UEFA Chamipons Cup でアヤックスの4連覇を阻んで優勝したBayern Münchenの来日は当時の世界でのサッカーでの力関係を考えれば大変な企画であった事が後になって解った。 当時の日本代表は釜本、永井、森、藤島、GK横山らがいた。森がドリブルで駆け上がったり、釜本のシュートが僅かに外れたり、誰かのシュートがあわやゴールインとまで行ったりと日本もチャンスが何度かあった。結果は2試合ともBayern Münchenが 1-0 での勝利。アナウンサーが“世界一のチーム相手に健闘しました。”と言っていたのを思い出す。しかし、後に会社の先輩に貸して頂いた当時のサッカー専門誌によると“ピッチコンディションは最悪で、それがBayern Münchenの最少得点に繋がった。日本の健闘もあったが力の差は歴然。この差を埋めないと世界では戦えない。”との総括。その差を縮めるのに20数年かかったのだ。そしてベッケンバウアーの当時の来日の最高の思いでは“婚約指輪とネックレスを紛失したがそれを日本のファンが届けてくれた事。”らしい。
2回目の来日は1990年1月。これはテレビ東京の開局25周年記念の行事であった。当時積極的に世界のサッカーを見せてくれたのはテレビ東京系列であり、今でも私は他の民放が争ってサッカー中継を行う事に違和感をしか覚えない。この時はワールドカップイタリア大会を半年後に控えていた。Bayern Münchenにはシュテファン=ロイター、ユルゲン=コーラー、クラウス=アウゲンターラー、ライモント=アウマン、ハンス=プリュクラー、オラフ=トーンの西ドイツ代表組、それからソウル五輪メンバーのフランク=ミルがいた。対戦したのは日本リーグ選抜。木村和司、ラモス、金田稔喜、岡田武史らがメンバーにいた。当時の日本リーグは三浦カズが帰国する直前で、加茂周監督率いる日産自動車の全盛期。残念だったのはその日産の得点源レナト(後に柏レイソルの創設期に移籍)が怪我で参加できなかった事だった。 この試合、私は国立競技場に観戦に行った。観客の入りは半分以下だった。初来日時は超満員になったのに。試合は開始直後はバイエルンの選手も舐めていたのかあまり強く前に出てこなかったが、木村和がFKを直接狙いそれがクロスバーを直撃すると彼らも目の色が変わったのがプレーを見ていて解った。したそれでもラモスと木村和のコンビは、もう十年以上も共にプレーしているみたいで、ダイレクトで浮き球のワンツーで抜けたり、トリッキーなパス交換でバイエルンのDF陣を幻惑。先制ゴールは木村和がドリブルで持ち込んで相手DFをかわしてのものだった。その瞬間私は大声で“ナイス、シューッッッッッッッッ”と叫んだ。その後も後にレッズでプレーした田口のシュートがポストを直撃するなどチャンスを作った。1970年代、日本代表が低迷している時、外国のチームを呼んで日本代表と並んでJSL選抜との試合も組んだりしていた。そこには代表を引退していた釜本を初め、ラモス、ジョージ=与那城、ジャイールらブラジル人選手。小見などテクニックの高い選手が並び、大変魅力的な試合を繰り広げた。特に釜本のゴールで 1-1 と引分けた、ニースケンス、ベッケンバウアーを擁したニューヨーク=コスモスとの試合は圧巻だった。 それを思い出させた試合でもあった。しかし結局後半2得点を入れたBayern Münchenが逆転勝ち。 そのシーズンBayern Münchenは Champions Cup の準決勝まで進み、全盛期の AC Milan に 破れたが欧州でも屈指の強豪であることは間違いなかった。 
以降、欧州チャンピオンになり TOYOTA CUP で来日。そして夏の興行で何度か来日しているが、私はまだ日本がアジアレベルでも発展途上時期にあった70年代と90年初めの来日の方がずっと印象的だ。
16:30 から始まった“前座”試合のOB戦はBayern Münchenが余裕の 4-1 の勝利であった。私はむしろこの試合を楽しいみにしていた。しかし、というかやっぱりと言うか、ベッケンバウアーはいなかった。一緒に観戦したIさんに“3回目の奥さんとの新婚旅行とちゃいますか?30歳年下やもんなぁ。”と。そしてIさんは“ブッフバルト監督は怪我しているのでプレーしないらしいですよ。”と教えてくれた。相手のマガト監督は出るのに?でもマガト氏は現役時代はHSVハンブルグで欧州チャンピオンに輝いたのだから、バイエルンのOBとはなぁ?。試合前にBayern Münchenのホームページを覗いて見ると、けっこうこのOBチームは欧州でこういった Exhibition Game を行っているらしい。だがこの試合はGミュラーや問題児マリオ=バスラー(喧嘩別れして1999-2000のシーズンに出て行ったのによくOBチームに入れてもらえたなぁ?)と言った目玉選手は来日せず。それでもハンジ=ミュラー、ブレーメ、ルンメニンゲ、プリュグラーらは名を連ねていた。浦和の方は三菱重工、三菱自工世代の選手も多く登用しており、落合そして杉山隆一が起用されているのには泣けた。今でも杉山の様な俊足で正確なクロスを上げられる選手がいればなぁと思う。そして釜本の様な絶対的なストライカーも。 やがて日は暮れてきて“本番”のキックオフの時刻がやってくる。 観客の入りは約半分強(後の発表では29,000 人 過去最低の動員数) もう少し入ってあげても良いとおもうんだけどなぁ.......


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