Mr.コンティのRising JAPAN

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日韓学生対決 隔世の思い

2008-04-19 | Weblog

1971年9月ソウルで開催されたミュンヘン五輪予選。大方では日韓で出場権を競うものと予想されていたにもかかわらず日韓揃ってマレーシアに敗れ出場権を逃したその結果を鑑み日韓両国のレベルアップの為に始まったと言われる定期戦は1991年長崎で開催された第15回日韓サッカー定期戦を以て終了した。
この代表の試合の“前座”として日韓の学生代表の試合も行われていた。1984年ソウルで行われた定期戦では日本はユニバーシアードチームを派遣したがその試合は韓国学生代表に逆転負けを喫している。そればかりかこの定期戦では確か日本学生代表は引分が数試合あるが1度も韓国学生代表には勝っていないはずだ。
当時の日韓戦を解説した岡野俊一郎氏は 

“学生が勝てないから代表も勝てないのです。”

と言っていたのを思い出す。Jリーグの発足する前の時代だったので学生レベルの強化は今以上に大切な時代であった。恐らく80年代まで学生の方が代表以上に日韓のレベル差があったのではないかと思われる。
1988年国立競技場で開催された日韓定期戦をスタンドで観戦したが、私にしては珍しくスタジアム入りしたのが早く“前座”の学生代表戦がまだ終わっていない時間に到着した。そしてその試合は引き分けに終わった。後でもっと早く来ればよかったと後悔した。
日韓学生のレベルが激変したのは何と言っても日韓対決となった1995年福岡で開催されたユニバーシアード決勝戦。日本は純学生代表。韓国はOBも含めた陣容。しかし結果は 2-0 で日本が快勝。試合内容も終始優勢で2年前に発足したJリーグと高校サッカーの狭間でスポットの当たらなかった学生サッカー関係者は大いに溜飲を下げたに違いない。 以降2001年から3大会ユニバーシアード3連覇を飾っている。 
学生の日韓戦に就いては自動車部品の開発で有名なデンソーがスポンサーとなり1997年からワールドカップ日韓大会の開催を記念して「日韓大学対抗戦」と銘打って開催されるようになった。2004年からは1年おきに日本と韓国で開催する定期戦(原則春季の3月、ないしは4月施行)として開催されているが、竹島の日に絡む日韓関係の緊張から2005年の開催(韓国ホーム)は一時凍結されていたが、12月に開催された。そして今年2008年は3月23日に東京国立競技場で大学日韓定期戦が開催された。 

当日は好天に恵まれしかも暖かい陽気で絶好の観戦日和。しかしながら観客席はぱらぱら。開放されたのは正面とバックスタンドの両面のみ。井原正巳と洪明甫が“親善大使”として招かれ、試合前にサッカー少年の質問に応えるアトラクションをするもあまり人は入らなかった。
ここ国立競技場の日韓戦では日本は良い成績を納められず1979年の日韓定期戦で2-1と勝利して以来勝ち星がない。そう思った矢先の開始57秒。DF金泉遇のスローインからFW金孝基が抜け出しフリーになったところを後方からのタックルで倒してしまいPKを取られる。これをMF権純亨が決めてあっさりと韓国が先制をした。両チームのフォーメーションを観る間も無いまま1点ビハインドの立ち上がり。あぁ日韓対決では国立に魔物が舞い降りるのか…. 
その後も韓国が攻勢に出る。4分には権純享が、7分にはMF趙梁鍋がそれぞれ左からミドルシュートを撃つ。 10分には左サイドバックの金泉遇が上がりクロスを入れると染谷(流通経大)に競り勝った金孝基が頭でおたした所をFW高敬旻がアクロバティックな態勢でシュートを撃つ。12分には権純享のスルーパスからMF金泰賢に渡るがシュートはGK東口(新潟経営大)がブロック。東口は今回の日本チームの中では唯一昨年も選ばれたメンバー。(昨年は出場機会は無かった。)15分には金孝基が右から入れたクロスに高敬旻がヘッドを狙うが185cmの長身CB 中山(駒澤大)が競り勝ちシュートを打たせない。29分には金泰賢がミドルを正面やや右から放つがこれはバーを越えた。韓国はミドルシュートを打ち込んで来たりロビングを放り込んできたりと日本のDFを前に出させその裏を取ろうとしている。また最終ラインの上がりが早く前線との間をコンパクトにしボールがある周りには常に数的優位を作る。そして30分を過ぎると今度は金泰賢がドリブルを使って攻め込む様になる。日本は前線の二人、渡邉(早稲田)と伊賀(静岡産大)の二人が孤立してしまいそこにボールが出ない。ゴール前にハイボールを入れようにもCBの二人、李庚が192cm 李龍起が189cm なのでそう簡単に放りこめない。
しかし35分を過ぎると日本のMFがボールをキープできる様になりまた中盤の押し上げも出て来てボールが繋がる様になる。37分には伊賀が右サイドをドリブルで上がりクロスを入れるがGKがキャッチ。初めて韓国ゴール前にボールが入った様だった。そして2列目右の伊藤大介(順大)がドリブルで右サイドを突破するシーンが続く。38分には逆サイドの平木(流通経大)に折り返しシュートを導き、40分にはスルーパスを三門(流通経大)に通しそこから平木に送るがわずかに届かない。
そしてその直後に同点ゴールが生まれる。伊賀がペナルティーエリア内で粘って渡邉に送り渡邉がそのまま韓国ゴールに捩じ込んだ。ようやく前線の二人がバイタルエリアでボールをキープ出来たので生まれた得点であった。伊賀はロスタイムにもドリブルで持ち込んでシュートを放つ。これは得点にならなかったが前半の終り頃になって伊賀のみならず日本選手にようやくエンジンがかかって来たようだった。

後半になると日本は見違えるように最初の1歩が非常に速く鋭くなる。韓国選手は中盤ではボールにほとんど触れ無い。52分に渡邉の放ったミドルシュートはGK朴俊五の正面に。そして56分三門のスルーパスが韓国CB李龍起の裏に走り込んだ宮崎(流通経大)に通りそのまま宮崎は韓国ゴールに蹴り込んで逆転ゴールを生む。三門、宮崎共に流通経済大の選手。ここはあうんの呼吸か、見事なスルーパスのタイミングであった。この日のスタメンは4人が流通経大の選手。GK東口(新潟経営大)、FW伊賀(静岡産業大)以外は全て関東学連の選手。関西勢は3人選ばれたがベンチ入りしたのはMFの大屋翼(関西大)一人だけであった。ここで韓国ベンチはMF高敬旻に替えて昨年もこの日韓戦に出場した権景昊を投入する。
その前に投入された権亨宣も前年の学生選抜に選ばれたらしいがベンチ入りは出来なかった様だ。
更に2列目の趙傑鎬に替えて尹大根を投入する。日本も66分に渡邉を下げて池田(延べ5人目の流通経大選手)、平木に替って島田(駒澤大)を入れる。
さすが権景昊は昨年の経験者。ボールキープ力がありチャンスを作る。69分にはGK東口がパンチングしたところをそのままボレーで狙うがここは宮崎がブロック。70分には右サイドをドリブル突破し鄭赫にスルーパスが通るがフリーでシュートを放つが外してくれた。完全に同点ゴールかと思ったのだが助かった。試合を決定づける為にも追加点が欲しい日本は72分交替出場の島田が左サイドから入れたところを伊賀が撃つが韓国の左サイドバックの金泉遇がブロック。その後の宮崎の入れたCKのこぼれたところに詰めた染谷(流通経大)が撃ったシュートはクロスバーを越える。74分には右サイドから入れられたゴロのセンタリングをフリーでシュート体勢に入った伊賀が空振り。それでもボールは左に転がり島田が走り込んで撃つがゴールの枠を捉えられない。83分には韓国ゴール前の混戦から最後は池田圭が至近距離から撃つがGK朴俊五がパンチで防ぐ。残り時間が少なくなってきたとはいえ粘り強い韓国の事だからこのまま容易に逃げ切れるとは思えない。しかし85分、韓国ゴール前の混戦からこぼれ球をしぶとく拾った伊賀が3点目を叩き込み試合を決定付けた。
最後は三平(神奈川大)が右サイドで何度もドリブル突破を見せた伊藤大介に替って投入される。私の隣に座っていた家族づれの中の子供が “大ちゃ~ん”と叫ぶ。どうやら身内だろう。母親と思われる人に “14番、ドリブル良かったですね。”と言うと丁寧に “どうも応援ありがとうございます。”と言われた。
そしてタイムアップ。初めて日韓戦で日本が勝った試合を観戦出来た。スコアーは 3-1 だったが、権景昊が投入されてからピンチを何度か招き、それを決められていたら勝敗は替わっていたかもしれない。しかし韓国学生選抜は思っていたほど激しくは来なかった様に見えた。また1対1の局面では日本がほぼ優位だったと思う。
この中からJリーグ、代表入りする選手も出て来るかも知れない。韓国の方も代表入りする選手が出て来るだろう。 これからまたどこかで彼らが違ったユニフォームを着た時に見る事を楽しみにしながら帰途についた。

あぁ俺がこの国立競技場で走ってからもう20年以上が経ったなぁ………

  


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4 コメント

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夜明け前が一番暗い (中東の太鼓)
2008-04-20 22:43:02
こんばんはコンティさん
「日韓定期戦」という言葉の響きはとても懐かしく感じます。
A代表の前座にやっていた学生同士の試合で日本が韓国にとても分が悪い事も知ってました。
Jリーグ発足前の大学サッカーは試合数も少なくハード面や指導方法など今と比べると劣悪でした。
高校卒業後、大半の有力選手が大学進学を選択していたこの時代は大学サッカーの強化は今よりも重要であったはずなのにお世辞にも機能したとは言い難かったです。
当時のサッカー少年達の最大の目標は冬の高校選手権で国立のピッチに立つことでした。
しかしその先の将来に夢が描けなかったので多くの高校生は高校サッカーで”燃え尽き症候群”になり大学に進学しても伸び悩んでいた選手は少なく無かったです。
いくら才能豊かな選手であってもそれを伸ばす環境が劣悪であれば選手個人の力だけではどうしようもありません。
同世代の世界の選手との差が開いていくばかりでした。
そういう事情もあってか1989年にバルセロナ五輪から出場資格が23歳以下に変更が決定した時、私は日本がW杯だけでなく五輪も永久に出場する姿を見る事なく人生を終えるのかと思ったほどです。
(まだ高校生だったんだけど・・・)
ただそれは決して大袈裟ではなく1967年の秋にメキシコ五輪のアジア予選突破を最後に自国開催で予選免除された1979年のワールドユース(現U-20W杯)を除いて全ての世代の代表がアジアで敗れていました。
特に世代が若いほどアジアの壁に阻まれ最終予選の手前のラウンドで敗れる事も珍しく無かったです。
また韓国に対するコンプレックスは下の世代で負け続けた事でより一層増殖され、韓国が日本より一足早くプロ化を果たしメキシコW杯に出場を果たしてアジアの覇権を完全に掌握した80年代末頃には絶望的に格の違いを感じました。
この頃は試合内容はともかく韓国に1点差の負けなら”大善戦”と思えた(もしくは自分に言い聞かせた)ほど私は自虐史観に陥ってました。
長崎でA代表の日韓定期戦が行われた1991年は学生の定期戦は同時期に英国のシェフィールドでユニバーシアードが開催されたのでたしか年末に千葉で開催されたのを覚えてます。
当時の日本の五輪代表は大学生が主体だったのでこの時の学生代表は日本リーグ勢を除いた実質的な五輪代表でした。
対する韓国は同年のユニバーシアードで優勝したメンバーが主体でしたが五輪代表選手は少数で2軍みたいなメンバーでした。
言わばこの時の韓国は斥候の役目でしたがそんな相手に日本は0-1ながら点差以上に完敗をしました。
このニュースを知った時、私はすごく落胆しバルセロナ五輪のアジア最終予選は間違いなく敗退すると確信しました。
1992年1月にマレーシア・クアラルンプールのムルデカスタジアムで開催されたバルセロナ五輪のアジア最終予選の結果はご存知の通りですが私が印象に残っているのはやはり第4戦目の韓国戦です。
何よりも試合内容が余りにも酷すぎたからです。
前戦のバーレーン戦で6-1で勝利して得失点差で優位に立っていたので守備的な布陣で引き分けを狙うのは理解できるが韓国の激しいプレッシャーの前に終始防戦一方になり効果的な攻撃は全く出来ずグランドの半分(つまり日本陣内)だけで試合をやっていた感じでした。
終了2分前に遂に日本の守備陣が決壊し決勝ゴールを許した瞬間にこの予選の実質的な終わりを告げました。
上位3位までが五輪出場権を獲得できたが最終的に1勝3敗1分で6チーム中5位
負けた試合は全て1点差でしたが内容は結果以上の完敗
攻撃も意図した組み立てが出来ず得点もセットプレーなど偶然に頼るのみでした。
私は結果は予想通りだったので落胆はそんなには無かったです。
その代わり将来に失望感を持ちました。
ただ冷静に今振り返るとこの時のメンバーはキャプテンの沢登を始め、下川、相馬、名良橋、小村、名波、永井、藤田、三浦文、神野、藤吉など、のちにJリーグやA代表で活躍する選手が数多く含まれていました。
潜在能力はあったはずです。
1次予選終了後、協会は山口芳忠監督の采配に疑問を持ち”総監督”という立場でA代表の監督の横山謙三を就かせて二頭体制で臨みます。
しかしA代表で結果を殆んど出せてない指揮官に実際の指揮権を与えるなど疑問を感じる決定でした。
1次予選と違い最終予選の相手は日本よりもフィジカルに勝るのにそれを補う戦術は皆無で選手の才能を活かす事無くただひたすらに篭城戦をさせただけでした。
協会のバックアップ体制やスタッフの人事、指導者の戦術など、すべてがアマチュア的な体質だったと言わざるを得なかったです。
今考えるとこのチームは日本の暗黒時代の最後を背負わされ激動の変革期の犠牲者だったのかもしれません。
予選最後のカタール戦に敗れて選手達が号泣していたシーンは低迷していた日本サッカーがもがき苦しむ姿とダブって見えました。

日本がW杯に初出場を果たしたフランス大会の主力はこのバルセロナ五輪予選の世代です。
W杯はこれ以降3大会連続出場を果たし五輪もアトランタ大会以降4大会連続出場をしてます。
また各年代の世界大会の出場も当たり前の時代になりました。
韓国戦の成績も1992年以降は大体互角です。
(私は今でもこの国と戦う時は子供の頃に植え付けられた苦手意識を少し感じますが・・・)
この予選後の1年9ヵ月後の「ドーハの悲劇」は後世に永遠に語り継がれているがこのバルセロナ五輪予選の代表はあまり語られてないのはとても残念に感じます。
返信する
ありがとうございます (米田聖人)
2008-04-22 23:58:20
関西学生ホッケー連盟HP担当の米田です。bookmarkの登録本当にありがとうございました。これからも多々お世話になることがあるかと思いますが、なにとぞよろしくお願いします。
返信する
関西学連頑張ってください (Mr. コンティ)
2008-04-28 03:58:33
米田様

私のブログをそちらで紹介頂き誠にありがとうございました。リーグ戦も始まった模様。
私の知り合いで石動高校でホッケーをされていた方がいまして先日電話でこの五輪予選そして関西学連の事を話しました。その方の先輩のご子息が天理大学の選手だそうです。
関西学連の名をそしてホッケーの知名度を上げてください。
返信する
バルセロナ五輪予選 (Mr. コンティ)
2008-04-28 04:14:26
中東の太鼓様

バルセロナ五輪予選....今となっては懐かしいです。
この予選の前に、何とか粘って3位以内に入れないかと胸算用していました。
韓国戦もさることながら初戦の中国戦、続くクウェート戦と先制しながら勝てなかったのが痛かったですね。韓国戦では劣勢ながらも高田のシュートがポストを直撃するなど惜しいシーンもありました。
試合終了時間が近づくにつれてNHKの中継アナが”引き分ければ、大きく五輪に近づきます。”と何度も言っていたのを覚えています。終了直前はほんの一瞬の隙を突かれたと言う感じで、そのあとの少ない残り時間も藤吉を投入したりと必死に追いすがったのですが...
この前の年のコニカカップに五輪候補チームが強化の為に組み入れられ期待をしたのですが結局選手が固まらずチームとして参戦出来ていなかった様な気がして勿体無かった記憶があります。 当時何試合か見に行ったのですが......
それよりもこのチームのエースストライカーだった山口敏が所属先の近大で不祥事を起こした為(と言っても犯罪や事故を起こしたわけではないけど。)最終予選に招集できなかったのが痛かったです。1次予選では格下とはいえ香港戦でハットトリックを演じましたので。だから最終予選では ”彼がいればなぁと.." とも思いました。 
この予選の何試合かのビデオがまだ残っているのでそのうち”紐解いて”見てみましょう。
今となっては懐かしく看られる事でしょう...
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