前回の続きです。
『人新世の資本論』を読んでます。
本日は小見出し『11.オランダの誤謬-先進国は地球に優しい? 』です。
初っ端から話しは逸れるのですが、この「誤謬 (ごびゅう)」ですが、「ゴ」も、破裂音「ビ」も、口先が尖らかって、そして「ビュー」で語尾が伸びてしまい、言葉の意味とは裏腹に、お馬鹿ぽっく聞こえてしまうのです。これって私だけ?
それで意味としては、
『論理学における誤謬(ごびゅう、英: logical fallacy) は、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。つまり、間違っていること。意図した論述上の誤謬は「詭弁」と呼ばれる。論証において、誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある。←Wikipedia』
「誤」も、「謬」も、あやまる、間違う、の重複で、強調としての熟語ですね。兎に角、日常では使いません。あっ、そう言えば、「合成の誤謬」とか「無謬性」なんて言葉は、以前、ときおり耳にしました。
「官僚組織の無謬性」何て言葉は、時折目にします。そう云えば、先日、国会で官僚の作成した予算書?関連文書?に、誤りが多いとの指摘がされ、岸田首相が予算委員会で謝罪などしていました。
もう、「官僚組織の無謬性」は「森・加計・桜」で死語となり、いまでは「官僚組織の詭弁性」の時代?
国語のお勉強はここまでとして、本題に入ります。
ここで、何故オランダなの?と調べて見たら、オランダは豊かな国として、それなりに環境政策の進んでいる国として、槍玉に挙げたようです。
槍玉に挙げたのは、ポール・ラルフ・エーリックと云う米国の生物学者で、人口増加と有限な資源の帰結に関する警告で、その筋で「オランダの誤謬」の「エーリックさん」として有名な方のようです。
汚い物、危険なもの、これらは、貧しい国に押しつける。以前、日本でも産業廃棄物を貧しい国に輸出していた事実がありました。輸出国、輸入国ともに廃棄物ではなく、資源としてリサイクルされると言いながら、そのまま廃棄していたのです。
そう言うことで、
『先進国の環境改善は、単に技術発展によるものだけではなく、資源採掘やゴミ処理など経済発展に付きまとう否定的影響の少なからぬ部分を、グローバル・サウスと云う外部に押しつけてきた』
と、述べています。「よるものだけではなく」とか「少なからぬ」とか、かなり控えめな表現。
「オランダの誤謬」とは、ザックリと云えば、豊かな国の環境は、その国だけで完結していると思うな!と、云う事。
でも、しかし、兎に角、エーリックさんらの御陰で、今や先進国の人々も「先進国は地球に優しい」何て、信じている方は、とても少数派だと思います・・・。と、思いたい。
次ぎ、『12.外部を使い尽くした人新世』
『人類の経済活動が全地球を覆い・・・収奪と転嫁を行うための外部は消尽・・・安価な資源も安価な労働力も・・・資本は無限の価値増殖を目指すが地球は有限・・・拡張がもたらす否定的帰結は、先進国へと回帰する・・・人新世の危機の本質』
経済は成長し拡大し続け、企業は前年度よりも、市場を拡大し、売り上げ、利益を拡大し続けることが至上命題。後退は許されないのです。
そのために、国家間で、企業間で、企業内の労働者間で、厳しく、激しい競争を強いられているのです。
現代は、企業戦士として争い闘う以前より、教育期間においても、厳しく激しい競争を強いられています。
その結果、精神を病むとか、自殺するとか、引き籠もりになるとか、他人を道ずれにした凶行とか、世の中、病んでいるのです。
本書では、自然は、資源は、有限と云っていますが、私としては、人間もそれなりに限界があると考えます。
みんな仲良く、のんびり楽しく、平和に暮らすための労働が、金儲け正義として、人間の生理を超えて、精神と肉体をすり減らし、争い続ける世の中は、そろそろ終わりにしましょう。いや、終わります。
と、云うことで、このへんで終わります。
それでは、また。